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        「剣心、もう寝ちゃったの?」




        その夜も更けて。
        湯上りの薫が寝室の襖を開けると、剣心は緋い髪をほどいて敷布の上にうつぶせになっていた。

        「・・・・・・今日は、楽しかったでござるか?」
        くぐもった声が返ってくる。
        「なんだ、起きてるんだ」
        薫は洗い髪を指で梳きながら、剣心の横に腰をおろした。
        「うん、楽しかった!門下生のみんな、もう驚いて目を丸くしちゃってねー。それでね、馨さんもちょっとやってみたいって言うから、竹刀の持ち方も教えて
        あげてね、素振りなんかもやってみたんだけど、それが一所懸命でとってもかわいくってー」
        「・・・・・・かわいいでござるか?それって」


        薫は、おや?と思って一旦言葉を紡ぐのを止める。
        剣心の声は、なんだか拗ねたような色を帯びていた。


        「それで、帰りは馨さんが甘いものが食べたいって言うから、剣心とよく行く甘味屋さんに・・・・・・」
        「あー、それは楽しかったでござろうなぁ・・・・・・」

        剣心はあいかわらず、布団に突っ伏したまま顔をあげようとしない。
        薫は身をかがめて、剣心の頭に自分の顔を近づける。



        「剣心、ひょっとして、妬いてるの?」



        剣心は少し頭を動かして、片目だけで薫の顔を見る。
        何が嬉しいのか、薫はにこにこと笑っていた。


        「・・・・・・そうかも」
        のそりと上体を起こした剣心は、おもむろに薫の両肩に手をかけて、敷布の上に仰向けに押し倒した。
        薫は「きゃー!」と小さな悲鳴をあげたが、顔は笑っていた。

        「変なの、馨さんは女の子なのに」
        「妬くのに、男も女も関係ないでござろう?」
        そうかしら?と答えつつ、薫は頬がほころんでしまうのを止められなかった。
        だって、相手が男にしろ女にしろ、剣心がこんなふうに悋気を露わにするのは珍しいことだから。


        「・・・・・・でも、まぁ、いいか」
        剣心は組み敷いた薫の耳元にぴったりと唇を寄せ、息を吹きかけるように呟く。くすぐったさと、それとは別な感覚とに襲われて薫は身体を震わせた。
        そのまま耳たぶに咬みつかれ、唇から微かな声が零れ落ちる。



        「流石に馨殿では、こんなことは出来なかろうが」



        剣心の右手が、しゅるりと薫の夜着の帯を解いた。







        ★






        明けて、翌日。




        「それでね、お父様とお母様にも薫さんのことをお話ししたんだけれど」



        なんとなく予想はついていたので、昼前から馨が神谷道場に押しかけて来ようが、剣心はもう驚きはしなかった。
        居間でにこにこと茶を飲む馨に対して自分がたいそう愛想のない顔をしているのにも気がついてはいたが、敢えて取り繕おうともしなかった。

        「そうしたら、是非お会いしてみたいって言うのね。うちに招待しなさい、って!」
        まぁ、そういう流れになるであろうことは、話の展開で読めていた。剣心はこっそりため息をつく。
        「と、いうわけなのよ。薫さん、よかったら今日は、わたしからご招待させていただけないかしら?」
        薫は、昨夜嫉妬を露わにされたこともあり、剣心の表情を窺うようにして、そっと訊いた。
        「・・・・・・剣心、こう言ってくれてるんだけど・・・・・・わたし、お邪魔しちゃっていいのかしら?」

        それは、剣心としては連日薫をとられてしまったようで面白くはないわけだが。
        しかし、薫も馨のことを好いていて、一緒にいると楽しそうにしていることもよくわかっている。
        自分が妬いているということは、昨夜薫にさんざん主張してしまったわけだし―――床の中で。


        「勿論、ゆっくりしてくるといい。馨殿、薫殿をよろしくたのむでござる」
        剣心はにっこり笑って、「度量のある男」であることを馨に示した、つもりだったのだが。


        「よかった!薫さんのお布団ももう用意しちゃっていたから!お夕飯も期待していてね、今日は『泊まりがけ』でゆっくりしていって!」



        剣心は、あんぐりと自分の口が開くのを自覚せざるを得なかった。
        敵は一枚上手だった。






        「じゃ、剣心、明日の夜には帰るから・・・・・・」
        薫が気遣わしげな顔をするので、剣心は安心させるように「いや、拙者のことは気にせずに、楽しんでくるとよいでござるよ」と笑った。と、いうかもう笑う
        しかなかった。
        いってきますと言いながら、薫が先に馬車に乗り込む。その後続いて席に座った馨は、馬車上から剣心を見下ろす。剣心はそんな二人を鷹揚に笑顔で
        見送ろうとしたのだが・・・・・・

        「それじゃあ剣心さん、薫さんのことは、わたしに任せてくださいね」
        そう言った馨の笑顔は、どう見ても「してやったり」という表情で―――


        「な」


        剣心が顔に貼りつけていた作り笑いは、見事に剥がれ落ちた。
        ご丁寧に馨は去り際に剣心にむかって、べぇ、と舌を出してみせて、後はすました顔で前を向く。


        「〜〜〜ッ!」



        走り去る馬車にむかって石でも投げつけたい衝動をこらえるのには、かなりの精神力を要した。







        ★







        「あれ?薫の奴はいねーの?」
        「・・・・・・かどわかされたでござる・・・・・・」



        何も知らない弥彦がいつものとおりに稽古にやってくると、剣心は異様な勢いで薪割りをしていた。その様子はどう見ても「薪を割っている」というよりは
        「薪に八つ当たりをしている」ようにしか見えない。
        弥彦に今朝の一部始終を話し終えた剣心はそれでも尚気が済まなくて、口からは馨への文句が後から後から飛び出てくる。

        「まったく!あの勢いだとそのうち『養女に欲しい』とか言い出すのではあるまいな? それにしてもつくづく思ったが、やっぱり人間は顔ではないでござ
        るな、薫殿と同じ顔のくせに中身はまるで違うというか・・・・・・だいたい先程の顔!擬音でもつけるなら『ふふん』というところでござったよ、鼻で笑ったう
        えに薫殿に見えないよう舌まで出して―――」

        罵詈雑言は際限なく続きそうであったが―――聞き役の弥彦が先程から一言も相槌を打たないことに気づいて、漸く剣心は手を口を止めた。


        「どうかしたでござるか?弥彦」
        「いや・・・・・・安心した」
        「は?」
        「そんなふうに、他の女を悪しざまに言うこともできるんだな」


        いったい今の悪口の羅列で何を安心するのだろう、と剣心が訝しむと、弥彦はしみじみと子供らしからぬ口調で話し出した。
        「いや、剣心が薫にべた惚れなのは見てりゃわかるんだけどさ、それでも剣心って女には誰にでも優しいじゃん。だから俺、薫にも他の女と同じ並び
        で・・・・・・十把一絡げで優しくしてんのかなって思って心配してたんだけど、案外そうじゃないみたいで、安心した」
        予想だにしていなかった台詞に、一瞬言葉を失う。
        「・・・・・・拙者、そんな女たらしだと思われていたのでござるか」
        「お前は自覚がないんだろうけど、そうやって無意識にやってるからタチが悪いんだよ。左之助とかも絶対そう思ってた筈だぞ」


        やれやれ、と苦笑する。
        まさか、こんな子供にそんな余計な心配をさせていたとは。


        「弥彦、それは訂正が必要でござる。拙者は別に女性に対して優しいわけではないよ。拙者が優しいというのなら、それはむしろ『人に優しい』だけでご
        ざるよ」
        「は?なんだそりゃ」
        「拙者、薫殿以外の女性は、女とは思っていないゆえ」



        今度は弥彦が絶句する番だった。
        言うだけ言ったらすっきりしたのか、剣心は先程よりは落ち着いた様子で薪割りを再開する。




        その涼しい横顔を見ながら弥彦は、今度は今までとは正反対の理由で薫のこれからが心配になった。










        4 に続く。