「夫婦喧嘩は、その日のうちに仲直りしておかなきゃダメなんですって」
日めくりをめくったまま、壁の前で棒立ちになっていた剣心の隣に並ぶと、薫はおもむろにそう言った。
「それが夫婦円満の秘訣なんですって。この前、そんな話をしていたの」
話の相手は、近所の主婦の皆様らしい。いわゆる井戸端会議というやつだろう。しかし、何故今ここで突然、夫婦喧嘩の話題など持ち出すのだろうかと剣
心は首を傾げる。だいたい―――
「いや薫殿、拙者たちは、いつもそうしているでござろう?」
そう、剣心と薫は滅多に喧嘩をしないし、したとしても毎回数時間でカタがつく。
角突き合せる状況に嫌気がさして、要するに距離をとっている状態が寂しくて辛くて耐えきれなくて、毎回どちらかが(あるいは二人同時に)折れて仲直り
する。もしくはうっかり喧嘩をしていることを失念して普段どおりに振る舞ってしまい、そうなるとなんだか色々馬鹿らしくなって。あははと笑って、やはり仲
直りとなる。
夫婦になって一年と数ヶ月経ったが、今のところふたりの喧嘩といえばそんな感じで、仲睦まじく円満に過ごしているわけなのだが―――
「うん、だからね、もう謝ったりしないでね」
「え?」
「これ」
薫は細い首を動かして、視線を剣心から日めくりへと移す。
今日の日付は、五月十四日。
「なんか剣心、まゆげがしょぼーんって下がっているんだもん。だから、一昨年のこと、思い出しているんじゃないかと思って」
それはまさしく図星だったので、剣心は怯んだように顎を引く。
「いや・・・・・・あのときのあれは、喧嘩ではないでござろう?あのときは、拙者が一方的に悪かったわけで」
「お互いの心が離れちゃうのを喧嘩っていうのなら、あれも喧嘩のうちに入れてもいいわよ」
「それは、ずいぶんと大雑把な分類でござるなぁ・・・・・・」
「そうよ、わたしって大雑把にできてるの」
得意気に胸を反らしてみせる薫に、剣心は思わず知らず頬を緩める。彼の手にあるのは、千切ったばかりの「十三日」と書かれた一枚だ。
日めくりをめくって現れた五月十四日という日付を見て、否応なしに一昨年の出来事を――― 一方的に別れを告げて薫を傷つけたことを改めて思い出し
て、申し訳ない想いがこみあげてきたところだった。
そんなふうに日めくりの前で立ち尽くしている剣心の姿を見て、良人のことになると察しのよい薫は、先手を打つかのように「謝ったりしないでね」と言った
のだろう。
「喧嘩は長引かせないのが円満の秘訣なんだから、あの時のことを引きずるのも、おしまい。だいたい、剣心が京都から帰ってきてくれた時点で、決着は
ついている喧嘩でしょう?」
あくまでも、一昨年の別離を「喧嘩」のくくりで済ませようとする薫に、剣心は「いや、薫殿がそう言ってくれても拙者は・・・・・・」と歯切れが悪い反応を示
す。薫は、それが彼の優しさと誠実さゆえと知っている。知っているから―――あえて、不意打ちのような発言をぶつける。
「それとも、剣心はわたしに『申し訳ないことをした』と思って、責任をとるためにわたしと夫婦になったの?」
その問いかけに、剣心の眉間がきっと険しくなる。
「まさか!そんな馬鹿なこと、ありえないでござるよ!」
基本的には穏やかな人柄の剣心は、まず日常で声を荒げることはない。そんな彼の珍しい怒り声に、薫はふわりと笑顔になる。
剣心には申し訳ないが、怒るとわかっていての発言だった。そして、今のような言葉について怒ってくれることが、薫にしてみれば、嬉しかった。
「うん、ごめんね、わかってる。でもほら、男のひとって、責任をとるのが好きって言うじゃない?」
悪戯っぽく言って肩を竦める薫に、剣心はぐっと言葉をつまらせる。たしかに、世間一般的にその傾向はあるかもしれないが―――これも、先輩主婦たち
との井戸端会議で仕入れた知識であろうか。
勿論、薫は知っている。剣心が責任どうこうで自分と一緒になったりするわけがないと。
知っているから、あえて彼が怒るような発言をした。
あらためて、今日をもって――― 一昨年の「喧嘩」を終焉させる、そのために。
「・・・・・・心が離れているのが喧嘩だというなら、帰ってきた時どころか・・・・・・拙者が京都に到着する前に、とっくに喧嘩は終わっているでござるな」
「あら、そうなの?」
「その頃からもう、薫殿に会いたいと思っていたから」
会いたいと思ってはいけないと、自分に言い聞かせてはいたけれど。でも結局、君の面影が俺の中から消えることはなかったから。
想ってはいけないと思えばおもうほど、君への想いを再確認することになって―――
「うん、謝られるより、そういうふうに言ってもらえるほうがずっと嬉しいな」
そう言って笑うと、薫はことんと首を傾げて、剣心の肩先に寄り添った。
「・・・・・・あのね、もうひとつ、夫婦円満の秘訣」
「うん?」
「ありがとうを、ちゃんと伝えること、ですって」
常に一緒にいるからこそ、感謝の気持ちを伝えることが疎かになりがちだけれど。せっかくの温かな言葉も、心の中で呟くだけでは伝わらない。
一番身近なひとにこそ、ちゃんと声に出してまっすぐに届けなくては。
「・・・・・・そうやって、離れていたときも、会いたいって思ってくれて、ありがとう」
優しい感謝の言葉に、剣心の頬がほころぶ。
ああ、たしかに―――謝罪の言葉よりもずっと、「ありがとう」はひとの心をあたたかくする。
剣心はそのことを実感しながら、そっと腕をもたげて薫の肩を抱いた。
「京都まで、追いかけてきてくれて、ありがとう」
「ちゃんと帰ってきてくれて、ありがとう」
「おかえりなさいと迎えてくれて、ありがとう」
「・・・・・・はい、じゃあ改めて。ほんとにほんとに喧嘩はこれでおしまいよ?もう謝ったりしちゃダメだからね?」
剣心は、承知したと頷いて、薫のこめかみに唇を寄せた。
「殊更に、引きずっていたつもりはなかったのだが・・・・・・うん、あれかな。今があんまり幸せすぎるから、それであの時のことが余計に申し訳なく思えた
のかな」
「そんなに幸せ?」
「決まってるでござろう」
薫は、お返しというように剣心の頬に口づけると、「そう思ってくれてありがとう」と微笑む。
「拙者の、妻になってくれてありがとう」
「わたしを、お嫁さんにしてくれてありがとう」
「拙者を―――父親にしてくれて、ありがとう」
片方の手にあった日めくりの切れ端を、剣心はくしゃっとまるめて袂に押し込んだ。
そうだ、過去の「喧嘩」を振り返っているよりも、これからの未来を見つめていこう。
新しい命を授けてくれて、ありがとう。
希望を、光を与えてくれて、ありがとう。
そんな感謝の気持ちを、ずっと君に捧げながら。
改めて、両腕で包み込むように抱き寄せられながら、薫は「子はかすがいって言うから、この子が生まれたらもっともっと円満になれるっていうことよね?」
と言った。しかし剣心はそれに首を傾げる。
「それは、『子供は離れかけた夫婦を繋ぎとめてくれる』・・・・・・という意味では?」
「いいの。離れかけていようがぴったりくっついていようが、どちらにしても子供がうまれたら、きっともーっと仲良くなれるのよ」
自信たっぷりに言い放つ薫を、剣心は「やっぱり、大雑把だ」と笑ってぎゅっと抱きしめた。おなかの子供に障らないよう、加減をしながら。
喧嘩の仲直りをその日のうちに。
感謝の気持ちはしっかりと伝えて。
そして、子供の存在と―――
夫婦円満の秘訣は色々あれども、まずはこれを欠かさないことだろう。
腕の中にいる妻にむかって、剣心は優しくささやいた。
「・・・・・・好き」
素直に愛情を伝えること。
これも、忘れずに。
了。
2016.05.14
モドル。