笑 顔







      前編








        「剣心!」



        鈴を転がすような声が響いた。
        振り向くと、人混みの中、少し離れたところに薫の笑顔があった。
        出稽古帰りの、道着に羽織姿の彼女が小走りに近づいてくる。その手には、小さな白い紙包みがあった。
        先程、家を出るときには持っていなかったものだ。何が入っているのだろう。


        「これ?朝顔の種よ。前川先生のところで貰ったの」

        薫が口にしたのは、まだ少し先の季節に咲く花の名前。
        彼女が包みを揺すると、中でかさかさと種が軽い音をたてた。
        「もう少ししたら種の蒔き頃だから、門下生のみんなで育ててみようってことになったの。誰のに一番大きい花が咲くか、競争しようって」

        朝顔といえば夏の花だが、今は四月である。そんなに早く種を蒔くものなのだろうか。
        「そうね、もう少し先の・・・・・・五月頃がちょうどいいみたい。わたしも久しぶりだから、ちゃんと育てられるかちょっと不安なんだけど」
        そうか、それにしても、春に蒔くものなのか。
        「そうよ、大きく育つのには、それなりに時間がかかるもの」


        ・・・・・・うん、だから今まで花を植えて育てたことはなかった。
        だって、同じ場所にそんなに長い間居ついたことはなかったから。


        「来月になったら、蒔いてみましょうね。何色の花が咲くのか楽しみね」
        そういえば、ここに来てから君と一緒に、色々な花を見た気がする。
        「そうだったかしら?」
        ほら、木蓮と辛夷の見分けかたを教えてもらったり。
        「ああ、そんなこともあったわね」
        そう言って、薫が笑った。

        ふいに、彼女の両隣に白い花をたっぷり咲かせた木が現れた。
        花びらはどちらも厚ぼったく大きくて、一見すると同じ木に見える。

        「でも、よく見たら花の大きさが違うでしょう? ほら、こっちには花の下に小さな葉っぱもついてるし」
        少し大きい方が木蓮。葉がついている方が辛夷。
        「そう!ちゃんと覚えててくれたんだ」
        そりゃ、君が教えてくれたことだから。
        田植えの前の田んぼに広がる、蓮華の花も綺麗だった。
        「桜の終わるころに、土手の下で満開になっていたわよね」

        首をめぐらせると、今度はそこに一面の蓮華草。
        まるで、桃色の絨毯のようだ。

        こんなに可憐な花が、今に田んぼに鋤きこまれてしまうと思うと可哀想な気もするが。
        「ほんとね。でも、蓮華の根は土にいいって言うから・・・・・・きれいなだけじゃなくてお米を美味しくもしてくれるんだから、蓮華って偉いわね」
        そう言って、花に笑いかける横顔を見ながら、「君のほうがよっぽどきれいだ」と思った。
        ・・・・・・いや、思うだけでなく、言ってしまってもいいのか。



        だってこれは、俺の見ている夢なのだから。



        「なぁに?どうしたの?」
        視線に気づいた薫がこちらを向く。

        言ってもいいんだよな。夢なんだから、そのくらい許されるよな。
        そう思って口を開きかけたところで、ばたばたばたと何処からともなく足音が近づいてきた。
        賑やかな、というよりはむしろ騒がしい足音が―――



        「こらーっ!弥彦!!」



        たしなめるような、薫の大声が響いた。
        伝えるべき言葉を伝えないまま、そこで目が覚めた。








        ★








        「・・・・・・だから、あなたまで一緒に騒いでどうするの」


        剣心の包帯を巻き直しながら、恵はそれに手を貸す薫の顔を軽く睨んだ。
        「騒いでいないもん。わたしは弥彦を叱っただけだもん」
        すこし拗ねた口調で薫が言い返すと、襖に寄りかかって手当ての様子を見ていた弥彦も口を尖らせる。

        「なんで俺が叱られなきゃいけねーんだよ。俺を追いかけ回してたのは操だぜ?」
        「あんたが操ちゃんに変なこと言うからでしょうが!」
        「何でもいいから、怪我人の前で喧嘩するのはおやめなさいね」
        そう言って、恵は小さくため息をついた。





        志々雄との闘いが終わり、満身創痍となった剣心は「白べこ」に居を借りて治療に専念している。
        薫と弥彦、それに住まいがものの見事に破壊されてしまった葵屋の面々も同様に居候となったため、現在白べこは相当に賑やかなことになっていた。

        そんな中、つい先程弥彦が操のことを冗談のつもりでからかった。
        今朝も早くから、蒼紫は禅寺へと出かけてしまった。彼は志々雄側から御庭番衆のもとに戻ってきたものの毎日修行僧のように寺にこもりきりで、操はそ
        れを「寂しい」「せっかく戻ってきてくれたのに」と嘆いている。
        その彼女に向かって弥彦は「今度戻ってきたときは、頭まるめて坊主になってるんじゃねーか?」と軽口を叩いた。当然操はぶち切れて、制裁を加えるべ
        く弥彦を追いかけ回して―――

        さっきの夢の中で聞こえた足音と、薫が弥彦を叱りつけた声はそういうわけだったのか、と剣心は納得する。
        きっと、騒動の音が眠っている耳に届いて、夢の幕切れがあんなふうになったのだろう。


        「拙者なら、構わないでござるよ。現に今の今までよく寝ていたわけだし」
        剣心は鷹揚に笑ってそう言ったが、恵は「そうは言いましても、剣さん結局うるさくて目が覚めてしまったんじゃないですか」と返した。
        それは確かにそうなのだが、しかし―――

        「いや、本当に。あれくらい全然気にならないから大丈夫でござるよ」
        剣心の言葉に、恵に責められるばかりだった薫はほっとしたような顔になった。が、そのすぐ後に、剣心はうっかり余計な一言を付け加えてしまった。



        「まぁ、確かに薫殿の声は、ひときわよく聞こえるでござるが」



        ほっとした薫の表情が、一転して固いものになる。
        「・・・・・・どうせ、わたしの声はひときわうるさいわよ」

        ふてくされた声に、剣心はきょとんとする。
        それから、自分の台詞の所為で薫が気分を害したことに一拍遅れて気がついて、助けを求めるように恵と弥彦の顔を順に見る。
        しかし彼らは、処置なしというふうに揃って剣心から目を逸らした。





        剣心の包帯を取り替えたのち、薫は「ちょっと出かけてきます」と言って白べこを後にした。
        行ってきますの声を聞きながら、弥彦は「剣心って、なんていうか薫に対しては不器用だよな」としみじみ子供らしからぬ口調で言う。
        恵はそれに頷き、「わたしとしては、それが羨ましいんだけれど」と肩をすくめた。








        ★








        つい先日まで昏睡状態だった剣心は、今も恵から絶対安静を言い渡されている。なので、包帯を替えて朝食を食べた後も、大人しく布団に横になった。
        相当に痛めつけられた身体は相応の休養を欲しているのか、昏睡から覚めた現在も剣心は一日の大半を寝て過ごしている。まるで数年分まとめて眠っ
        ているみたいだな、と自分でも呆れてしまうくらいだ。


        しかし―――どうしたんだろう、何故か今日は落ち着かない。


        枕に頭を乗せて、目を閉じる。
        すぐに眠気が襲ってくるかなと思ったけれど、なんだか頭が冴え渡っている。

        目を瞑っている所為か、耳に流れこんで聞こえてくる音がより鮮明に感じられる。
        午前中の、往来の喧騒。街の人々が動き出す気配。階下にいる、弥彦や操、翁や冴たちの声―――



        薫殿の声がしないな、と思った。



        そういえば、先程「行ってきます」と言っている彼女の声がした。と、いうことは外出中だ。こんな朝から、何の用事だろう。
        眠れなくて、寝返りをうつ。傷が痛んで、さらに眠気が遠のく。


        「・・・・・・まぁ、原因はわかっているが」


        眠れないことに、傷の痛みは関係ない。
        さっき、不用意な一言で薫を怒らせてしまったことが、気になって落ち着かないからだ。

        いや、怒らせただけではなく、傷つけてしまったかもしれない。
        でも、あれは―――薫の声がひときわよく聴こえるというのは、「ひときわうるさい」という意味で言ったわけではないのだ。
        彼女は、すっかりそう捉えてしまっていたが。


        言い訳をしたかった。しかし、弥彦と恵の前では憚られた。
        だって、俺が「よく聴こえる」と言った意味は、つまり―――


        剣心は横になったまま、深くため息をついた。
        彼女に対しては、どうも上手いこと言葉を操ることができない自分が、我ながら恨めしい。

        半分開けたままにされている窓から流れこんでくる風に乗って、風鈴の音が聞こえた。
        それはとても涼やかで心地よい音色だったけれど、それより、薫殿の声が聴きたいな、と素直な感想が胸に浮かぶ。薫の声が聞こえないことも、今こうし
        て眠れないでいる一因だろう。

        小さなざわめきの中、耳を澄まして探しても、彼女の声がみつからない。
        あの声がそばで聴こえていれば、そこに薫がいると感じることができれば、それだけで安心してよく眠れるのに。



        こんなの、子供みたいだ。
        まるで、母親の子守唄がないと眠れない小さな子供と同じじゃないか。



        剣心は、もう一度頭を枕の上に仰向けに落ち着けて、目蓋の裏に薫の姿を思い浮かべた。
        先程の夢の中、「夢なら言っても許される」と思ったけれど―――わかっている、本当はそうじゃない。
        伝えるべき言葉は現実でこそ、ちゃんと言わなくてはいけないのだ。




        彼女は、いつ帰ってくるのだろうか。




        剣心は薫が白べこに戻ってくるのを待ちながら、頭の中で言うべき言葉の予行演習を、何度も何度も繰り返した。














        後編 へ続く。