後編









        「・・・・・・剣心、起きてる?」




        遠慮がちに細く開かれた襖の向こうから、薫の小さな声がした。
        いつもより音量が抑え気味なのは、先程恵に注意されたのと、剣心からのひとことを気にしているからであろう。

        「起きているでござるよ」
        その声をずっと待っていた剣心は、すぐに返事をする。
        「どこかに、出かけていたのでござるか?」
        「うん・・・・・・あのね、これを借りに行ってたの」

        そう言いながら、薫はからりと襖を開ける。
        身体を起こしてそちらを見やった剣心は、廊下に膝をついた薫の隣にある物を見て、目をみはった。



        「朝顔・・・・・・でござるか?」



        小さな植木鉢に、いきいきと茂る緑の葉。
        その真ん中に一輪、紅色の花が誇らしげに咲いている。

        東京で春に見た蓮華草の色を、さらにぎゅっと濃くしたような、鮮やかな色。
        薫が注意深く鉢植えを畳の上に移動させると、途端に部屋の中の明るさが、一段増したように見えた。


        「あのね、此処からちょっと歩いたところに、沢山育てているお婆さんがいてね、昨日あたりから咲き始めたところだったの」
        数日前、店のお使いに出た薫はこの鉢を育てている家の前を通りかかり、そろそろ咲く頃だなぁと思いながら緑の葉を眺めていた。その時、鉢植えの世
        話をしていた老婦人と立ち話をして、顔見知りになったのだという。
        「今どうしても家から出られない人がいるから、見せてあげたいから一鉢借りられないだろうかって、頼みに行ったの。そうしたら、これを貸してくれて」
        しゃんと背の伸びた上品な雰囲気の老婦人は、柔らかな京訛りでどうぞどうぞと言いながら、丹精した鉢をひとつ薫に持たせてくれた。

        「ほんとは、こういう時に鉢植えっていけないんだけど・・・・・・こんなに綺麗なんだから、特別ってことにしておいてね」
        「え? いけないって、どうしてでござる?」
        「ほら、鉢植えって根っこがついているから、『根つく』が『寝つく』につながるっていうから」
        「ああ、そういう事でござるか」


        確かに、そういう験かつぎの意味から、鉢植えは見舞いの品には避けるべきと聞いたことがある。剣心は薫の気遣いに目を細め、「そんなの、全然気にし
        ないでござるよ」と首を横に振った。
        「まだ当分外は出歩けないと思っていたから、嬉しいでござるよ。ありがとう、薫殿」
        剣心が頬をほころばせるのを見て、薫もぱっと笑顔になる。そして「今朝は、起こしちゃってごめんね」と、小さな声で付け加えた。

        その謝罪に、剣心は慌てた。どうやらこの朝顔には「外に出られないから、せめて花でも見て気を紛らわせるために」という配慮の他、「騒がしくしてしまっ
        たお詫び」も含まれているらしい。しかし、そうではなくて―――実際は、まったく逆なのだ。


        「いや、薫殿、誤解でござる」
        「え?」
        「さっき、薫殿の声がとりわけよく聴こえると言ったのは、声が大きいとかいう意味ではなくて、つまり―――」

        頭の中で練習を繰り返したはずなのに、肝心なところでまた躊躇する。
        中途半端に口をひらいたまま言葉が途切れた剣心に、薫は怪訝そうに首を傾げた。


        どちらかというと、自分は弁が立つほうだと思う。
        子供の事から師匠には「剣よりよっぽど口のほうが達者だ」と揶揄されてきたし、つい先頃蒼紫と闘ったときも奴の説得に長広舌をぶってしまったし。
        しかし薫に限っては、どうもいけない。彼女を前にするといちばん伝えなくてはいけないことを、上手く口にすることができなくなる。
        そうなってしまう理由は―――自分でも、よくわかっているのだけれど。

        でも、どんなに拙くてもしどろもどろになったとしても、伝えるべきことは言葉にして伝えなくては。
        さっきみたいに彼女を怒らせたり、傷つけてしまうのは、嫌だ。




        「薫殿の声は、特別なんでござるよ」




        「つまり」の後に、それはもうたっぷりの間を置いて、剣心はそれだけを言った。
        「・・・・・・とくべつ?」
        しかし薫は困惑気味に眉を寄せ、喉に手をあてる。
        「わたしの声って、そんなに変わってる?」
        「いや!そうではなくて!・・・・・・拙者にとって、特別という意味で」
        「・・・・・・え?」
        「その・・・・・・なんというか、聴こえてしまうんでござるよ」

        布団の脇に座っている薫の顔をまともに見るのが気恥ずかしくて、視線を泳がせる。
        そして、ちょうど泳がせたその先にあった朝顔の花に目線を定めながら、剣心は続けた。


        「なんというか・・・・・・人混みの中のどんなに騒がしいなかでも、薫殿の声ならすぐにみつけられるというか聞き取れるというか、ここの階下で大勢の声がし
        ていてもすぐに判るし・・・・・・いや、きっとそれは、拙者が薫殿の声を探してしまう所為だと思うのだが」

        まったくもって、洗練されていない「解説」だったけれど。それでも剣心は必死に言葉を紡いだ。
        すぐそばにいる薫は驚いたように目を大きくして剣心を見つめていたが、彼女の反応を窺う余裕などまったく残ってはいなかった。


        「どうして、探してしまうのかというと、その・・・・・・なんというか、聴いていて嬉しくなるんでござるよ。薫殿の声は」

        ひばりが歌うような笑い声を聴くと、それだけでこちらも楽しくなって。歯切れのよいお喋りは、胸がすくように気持ちよく耳に届いて。
        名前を呼ばれたら、もう一度繰り返し呼んでほしいと、思わずにはいられなくて。



        もっともっと聴きたくて―――君の声を、いつも探してしまう。



        「薫殿の声を聴くと嬉しくなるし、元気づけられるときもあるし・・・・・・ええと、心地よく感じるというか、安らぐなぁと思うときもあるし」
        「・・・・・・ねぇ、剣心」
        「つまりうるさいどころかむしろ安心して眠れるというか、なのでさっきまでは薫殿の声が聴こえなかった所為でどうも落ち着かなくて眠れなくて―――」
        「剣心」

        いつしか語るのに夢中になっていた剣心を、まさに語られる対象である「声」が遮る。
        とても、柔らかな響きで。

        「こっち、見て」
        「・・・・・・あー、いや、でも」
        「朝顔じゃなくて、ちゃんとわたしを見て」
        それはもっともな要求だったので―――剣心はぎこちなく首を動かし、薫の方を見た。



        薫は、笑っていた。
        ふんわりと桜色に染めた頬をほころばせ、それはとても暖かな笑顔だった。



        「それって、自惚れてもいいのかな・・・・・・?」
        「・・・・・・え?」
        「剣心は、わたしの声が好きなんだって・・・・・・そう自惚れても、いいのかな」


        あんまり可愛い笑顔だったので、剣心は一瞬見とれて言葉を失う。
        あんまり可愛くて、とても、嬉しそうで―――なんだ、こんな顔をするのならもっと早く言えば良かったと、今更ながら後悔をする。

        いや、違うか。君と出逢っていつしか恋をして、そして君を諦めようとして。それから様々な出来事を経て、やっぱりどうしても俺は君を好きなことを諦めき
        れないんだと―――漸く気づいた今だからこそ、こんな台詞が言えたんだ。随分と、たどたどしくではあったけれど。


        「・・・・・・自惚れなどではなく、そのとおりでござるよ」
        「・・・・・・ありがとう・・・・・・嬉しい」

        えへへと照れくさそうに笑う顔がまた愛らしくて、剣心は自分の頬にも血が上るのを自覚する。この、ひとまわり年下の少女の前では、初めて恋を知った
        少年のようにしか振舞えなくなる自分が、我ながら滑稽だと思う。気のきいた言葉を操って喜ばせることもできなくて、むしろ言葉足らずで怒らせたり傷つ
        けたりしてしまうばかりで。

        でも、だからこそ、ちゃんと言葉にしなくては。
        少し前までは、俺はいつか君のもとを去るものだと思いながら、君に接してきた。けれど、今は違う。君が俺の帰る場所なんだと、この闘いを経てようやく
        気づいたから。



        これからも俺は、君のそばにいたい。
        そして、これから長い時間を一緒に過ごしてゆけるのならば、君には誠実な言葉だけを捧げたい。

        気がつくとこんなにも募ってしまった想いを、言葉で表しても到底追いつかないかもしれないけれど。
        でも、言葉にしなくては何も伝わらないし、何も始まらない。



        「薫殿」
        「なぁに?」
        「朝顔の種、植えられなくて、済まなかった」

        今朝の夢でも見たけれど、四月に貰った朝顔の種を、結局薫は蒔きそびれてしまっていた。なにせ五月に入ってから実に色々な事があったのだし、たと
        え種を蒔いたとしても、その後神谷道場の住人はこぞって京都に向かったのだから、きちんと育てることもできなかっただろう。しかし薫にしてみればその
        剣心の発言は思いがけないもので―――大きな目が驚きにまるくなった。

        「え。やだ剣心、その話覚えてたの?」
        「そりゃあ、薫殿が言ったことだから、忘れないでござるよ」
        薫は頬をますます赤くして、先程の剣心に倣って慌てて視線を横の朝顔へと移した。言った方の剣心も似たり寄ったりな有様で、やはり首を動かして朝顔
        の花を見る。実のところ、結構勇気を出して言ったひとことだった。


        「じゃあ・・・・・・来年こそは、種から植えてみましょうね」
        「うん、何色の花が咲くでござるかな」
        ふいに、窓から吹き込んだ涼風が、朝顔の葉を揺らした。それを合図にしたように、剣心と薫は視線を互いへと戻し、照れくさげに笑いあった。






        ★






        「お昼まで、もう少し眠る?」
        「うん、そうするでござるかな。きっと今度はよく眠れると思うが」
        「子守唄でも、歌ってあげましょうか?」
        「ああ、それはありがたいでござる」
        「・・・・・・え、本気で・・・・・・?」

        冗談のつもりだったのに、と言いながらも、薫は小さく咳払いをして「ちょっとだけね」と前置いてから、唇を動かした。
        柔らかく紡がれる、小さな歌声。
        剣心は目を閉じて、やっぱり、この声が好きだなぁと思った。


        耳に優しく響く、君の声。
        でも、声だけではなくて、君の笑顔も好きだよ、と。
        笑顔だけではなくて、君のすべてが好きなんだ、と―――





        いつか必ずそう伝えなくてはと胸に誓いながら、剣心は子守唄に導かれるように、眠りの海へと意識を沈めた。

















        
了。






                                                                                       2014.06.07










        モドル。