自分の妻が、異性に人気があることは知っている。
睫毛の長い大きな瞳に、意思の強さを表す形の良い眉。すっと通った鼻筋に、紅をさす必要もないような珊瑚色の唇。
愛らしい顔立ちと、くるくる変わる表情と明るい笑顔は、自然と人目を惹きつける。
更には、彼女は評判の「剣術小町」だ。並みの男以上に剣の腕が立ち、同年代の若者にも何ら臆することなく稽古をつける。
幼い頃から少年達と一緒になって剣術を学んできたからだろう、はきはきとした物言いで誰とでも気さくに話をして、子供みたいに声をあげて笑ったりす
る。それは薫にしてみればごく自然の振る舞いだ。しかし剣術道場に通う若者たちにしてみると、気取りのない言動は容姿と相まって、さぞ魅力的に映る
ことだろう。
彼女がそんな「人気者」であることは夫婦になる前から承知していたから、例えば出稽古先で青年たちがあからさまに憧憬の目を薫に向けているのを見
たりしても、いちいち悋気を感じたりはしていない。むしろ、彼女の誰からも好かれる人柄は、自分にとっても誇らしいものだ。
それなのに―――今日は一体どうしたことだろう。
明らかに無理のある口実を作って、薫に会いに来ているという、庄吉の兄とやら。
彼が薫と楽しげに談笑しているのを遠目に眺めるのは―――なんというか、面白くなかった。
何故かは判らないけれど、とても、面白くなかった。
★
「風邪、大丈夫でござるか?」
弥彦や門下生たちが帰った後、剣心は自室に戻った薫に訊いてみた。薫は「過保護!」と言って笑い、道着の上に着ていた羽織をするりと脱ぐ。
「風邪気味ですらない、って言ったでしょう?稽古をつけていたらすっかり気にならなくなっちゃったわよ。動いたので却って調子がよくなったみたい」
ぐん、と力瘤を作るように腕を曲げて見せた薫に、剣心は「それはよかった」と目を細める。
「剣心こそ、お洗濯で冷えちゃったんじゃないの?ほら」
薫は剣心の両手をとると、自分の小さな手のひらで包み込むように触れる。案の定冷たくなってしまった大きな手を、体温を分け与えるように擦ってやる。
「任せちゃってごめんね、ありがとう」
柔らかな手の感触を心地よいなと思いながら、剣心は「金柑が、どうかしたのでござるか?」と尋ねた。薫は「あ、聞こえていたの?」と顔を上げる。
「あのね、さっき庄吉くんのお兄さんがお迎えに来ていたんだけれど、そのとき『風邪が流行っていますね』って話になって・・・・・・」
風邪の予防には金柑がいいですよ、と庄吉の兄が言った。
そしてつい先日、彼らの母親が金柑の甘煮を大量にこしらえたらしい。そこで、「沢山あるから、お裾分けしますよ」という流れになった。
「後で届けますよ、って言っていたわ。ありがたいわよねー」
薫は素直に感謝の意をこめてそう言ったが、剣心は更に面白くなくなった。そうか、また後で来るのか―――と心の中で反芻し、そして、気づいた。
どうして、今日に限って特別「面白くない」と感じるのか。
それは、ここが神谷道場だから―――自分たちの家だからだ。
「・・・・・・成程、そうか」と小さく呟くと、薫が「なぁに?」と首を傾げる。剣心は何でもないよと微笑んで受け流しつつ、ごく自然な動作で薫の手の中から自
分の手をすっと引き抜いた。そのまま、反対に彼女の細い指をきゅっと握る。
「金柑の甘煮でござるか、美味しそうでござるな」
「でしょう?楽しみね」
そう言って、薫は無邪気に笑う。この笑顔を、さっき彼にも向けたのだろうかと思うと、腹立たしかった。
自分の妻が、異性に人気があることは知っている。
時折、彼女の出稽古について行く事がある。前川道場をはじめ先方の道場主に請われてのことだが―――曰く、自分が顔を見せるのは門下生たちの励
みになるらしい。そう言われるのはなんとも面映いが、薫に憧れている青年たちを牽制したいこともあって、時々は同行するようにしている。
そうすると必然的に、出稽古先で彼女が他流の若者たちと楽しそうに会話をしていたり、少年たちから熱い視線を注がれている場面を目にすることにな
る。気にならないと言ったら嘘になるが、しかし普段はそういう事にいちいち目くじらを立てたりはしない。
なのに、今日に限ってこんなに気持ちが騒ぐのは、ここが神谷道場だからだ。
自分と薫が生活をしている場所。あの若者は自分たちの暮らす領域に立ち入り、彼女に近づいてきた。
そして薫もごく自然に、彼に対して親しげな笑顔を向けた。
その事が―――とても腹立たしくて、とても嫌だった。
「・・・・・・風邪なら、拙者も早く治す方法なら知っているが」
「え?どうやって?」
「薫殿は、今は元気なのでござろう?」
「そうだけど、これからどんどん寒くなるんだし、知っておきたいわよ」
だから教えて、と。薫は小さく首を傾ける。まっすぐ見つめてくる瞳にはなにひとつ疑いの色などなくて、剣心の胸の奥がざわざわと騒いだ。
これから何をされるのかを知ったら―――君は一体どんな顔をするのだろう。
「やってみても、いいでござるか?」
「いいわよ?でも、やるって何を・・・・・・」
言質は取ったので、彼女に最後まで喋らせずに、実行に移す。
掴んだ両手を引き寄せて、ぶつかるようにして唇を合わせた。
「・・・・・・っ?!」
驚きと、困惑の気配。それを無視して、ぐいっと彼女の身体を下に向かって引っ張る。抱き寄せて、そのまま膝を曲げると、薫の膝も崩れた。
「剣、心っ・・・・・・?!」
あっけなく押し倒された彼女を組み敷き、深く口づける。逃げられないように、袴の脚の間に膝を割り込ませて動けなくする。
「人に伝染すと、早く治るというでござろう?」
唇の上で囁くと、薫は目を見開いて、覆い被さる身体を押し返そうと慌てて腕を動かした。それを払い除けて、剣心は白い首筋に吸いつく。
「やっ・・・・・・やだやだ剣心っ!やめて・・・・・・っ!」
「どうして?」
「どうしてって・・・・・・あ、汗かいてるし、まだ、明るいし・・・・・・」
「構わないでござるよ」
「わたしが構うのー!」
道着の袷に手をかけて押し広げると、薫は防御するように、ばっと両手を胸の上で交差させた。剣心はくすりと笑うと、華奢な手首を捕まえる。
強い力がこもっているのがわかる。でも、こんなのは彼女の本気ではない。剣心は胸の上から小さな手を引き剥がすと、そのまま両手首を畳の上に押し
つけた。
「・・・・・・これっぽっちの力で、抵抗しているつもりでござるか?」
さっと、薫の頬に朱がのぼる。剣心は、彼女を見下ろしながら口の端を上げた。
怯えたように揺れる瞳。けれど、拒絶の色はない。むしろ、すがりつくような目だった。
じっと見つめると、やがて根負けしたように薫は目蓋を閉じた。
剣心は身を屈めると、晒の上から豊かな胸の膨らみに噛みついた。
★
「・・・・・・あ」
僅かに、空気に違和感を感じて、剣心は身体を起こした。
「な・・・・・・に?」
最初は抵抗していたが、今は少しでも離れることを嫌がるように、薫の細い腕が剣心を追って下から伸ばされる。
「誰か、来たみたいだ」
玄関の方に、人の気配を感じた。耳を澄ますと、微かに訪う声も聞こえる。
その若い男性の声は薫の耳にも届いたようで、彼女の指が中空でぴくりと震えた。
「・・・・・・庄吉くんの、お兄さんだわ」
そういえば、彼は「また来る」と言っていたのだった。薫は伸ばした手を引っ込めて、半ば反射的に裸の胸を覆い隠した。玄関からこの部屋が透かして見
えるわけでもなかろうに、と。剣心は口許を緩める。
「ど、どうしよう・・・・・・」
「なに、返事がないとわかれば、留守だと思ってそのうち帰るでござろう」
「でも、せっかく来てくれたのよ?金柑、届けに来たんじゃ・・・・・・」
剣心は、その言葉に微妙に眉をひそめる。
薫の言う「せっかく」は、「わざわざ足を運んでくれたのに申し訳ない」という意味合いなのだろう。別に、「せっかく来てくれたのに会えなくて残念」とかいう
意味ではない。それは判っているけれど、今のこの状況で彼女が他の異性のことを考えているだけで、どうにも気にくわない。
「や・・・・・・剣心、何っ・・・・・・?!」
絡まった身体を一度離して、剣心は薫をうつ伏せにさせた。上気した頬を受け止めたのは畳ではなく、先程剥ぎ取られて放り出されたままの道着だった。
「だ、駄目っ!声、聞こえちゃう・・・・・・」
後ろから腰を持ち上げられるのを感じて、薫は声を潜めながらも抗議する。構わずに再び身体を重ねると、汗に濡れた背中がびくりと震えた。
「噛みついていなよ」
深く、彼女のなかに沈みこみながら、剣心が囁いた。
それが頭の下にある道着を指していることを、薫はくらくらする頭でなんとか理解する。
言われるままに口を動かして、道着の端を必死に噛んだ。
こらえた声のかわりに涙がこぼれて、くしゃくしゃになった道着を静かに濡らした。
3 へ続く。