3








        晩秋の、夕方である。


        陽が大分短くなったため、この時間でも既に部屋の中は薄暗い。とはいえ、まだ床につく時間でもない。
        しかし薫は髪を解いて寝間着に身を包んで、剣心が敷いた布団にくるまって横になっていた。
        玄関のほうから近づいてきた気配に、薫は頭を少し動かす。襖が開いて、剣心が入ってくるのが見えた。





        「大丈夫でござるか?」
        袴を履かずに、普段着を着流した剣心の手には小ぶりの壷があった。薫は横になったまま剣心を見上げると、しかめっ面を作ってみせる。

        「病人を襲うなんて、ひどいわ」
        「元気だと言ったのは、薫殿でござろう?」
        それは確かに事実なのだが何だか揚げ足をとられたような気がして、薫は眉間に皺を寄せて「うー」と唸り声をあげた。剣心は壷を畳の上に置いて自身も
        薫の傍に腰をおろすと、「いや、すまない」と笑いながら謝る。


        「夕飯は、拙者が何か作るでござるよ。今日はこのままのんびり休んでいるといい」
        その言葉には素直に甘えることにして、薫は剣心が持っていた壷が気になった。見覚えのない壷で、つまりは我が家にあった物ではない筈だ。
        「・・・・・・それは?」
        「ああ、玄関に置いてあったでござるよ。庄吉の兄上殿からでござるな」
        剣心は壷の蓋をとって、薫に中身が見えるように傾けた。中には、金柑の甘煮がぎっしりと詰まっている。
        先程、剣心と薫が居留守をきめこんだため、彼はそのまま壷だけを置いて帰ったらしい。
        「ちゃんと持ってきてくれたのね。悪いことしちゃったなぁ・・・・・・」

        橙色の皮が半透明になるまでしっかり煮込んだ金柑は、つやつやと蜜をまとって硝子細工のようにきらめいている。薫が「綺麗ねぇ」とため息をつき、剣心
        はその中から一粒をつまんで自分の口の中に放り込む。
        「うん、美味しいでござる」
        「ね、わたしも食べたい」
        薫は身体を起こすと、あーんと口を開けてみせた。
        剣心はもう一粒を取って薫の方へ指を動かしたが―――直前で方向転換をして、ぱくっと自分の口に入れてしまう。


        「あー!」と、憤慨の声をあげた薫の首に手を回し、抱き寄せる。
        唇を重ねて、そのまま彼女の口の中に金柑の甘煮を押し込んだ。

        小さな、柔らかい甘い塊が、口移しで与えられる。
        薫は驚いて身を硬くしたが、きつく目を閉じると舌を動かして、ぎこちなく金柑を受け止めた。


        「・・・・・・美味しい?」
        唇を離した剣心から問われたが、はっきり言ってまともに味わっている余裕などなかった。ごくんと飲み込みながら「よく、わからない・・・・・・」と掠れた声で
        答えると、剣心は楽しそうに「じゃあ、もう一個」と笑った。

        もう一粒口にして、同様に薫の口へそれを運ぶ。
        歯で噛まなくとも食べられるくらい柔らかく煮られた小さい実が、舌の上で潰れる。
        とろとろと流れ込んでくる、甘い味。絡まる舌の所為で、これは金柑の味なのか剣心の味なのか判らなくなる。
        判らないまま、薫は殆ど無意識のうちに「・・・・・・おいしい」と呟いていた。

        薫がふたつめの実を飲み込んだのを確認して、剣心は顔を離す。彼女の上気した頬とすっかり潤んだ瞳を見て、愉しげににっこり笑う。
        そのまま、蜜の絡んだ指を彼女の口許に差し出すと、薫は一瞬困ったような顔で剣心を見上げた。ほんの少しの躊躇いの後、薫は舌を出して子猫のよう
        にそれを舐めとる。指先に感じるくすぐったさに目を細めながら、剣心はもう片方の手で薫の髪を撫でた。



        「・・・・・・自分があげた金柑を、薫殿がこんな風に食べているとは、兄上殿は夢にも思わないでござろうな」



        ごく普通の、いつもどおりの優しい口調でそんな事を言われて、薫の顔が更に赤くなる。
        剣心はきれいになった指で小さな顎を捕まえると、彼女の唇に残った金柑の汁をぺろりと舐めた。
        薫は目を閉じて、大人しくされるがままになっていたが、ふいに唇を動かすと「・・・・・・わたしもよ」と呟いた。

        「うん?」
        「わたしも・・・・・・剣心がこんな風にやきもちをやく人だったなんて、夢にも思わなかったわ」
        剣心は薫から顔を離すと、きょとんとした面持ちで聞き返した。
        「やきもち・・・・・・でござるか」
        「そうよ、違うの?」
        薫はぼそぼそと口の中で「ここまで妬かれるような程の事をしたつもりはないけれど」と付け加えたが、剣心はそれは耳に入っていない様子で―――何と
        いうか、新しい発見をしたような思いでうんうんと頷いた。
        「いや、薫殿の言うとおり、妬いていたでござるよ。と、いうか・・・・・・」

        やきもちを焼いている、という自覚はあった。それが、かなり身勝手で我侭な部類の嫉妬であることも判っていた。
        けれど、彼女の言葉で、改めて気づかされた。こんなにも無軌道な独占欲に駆られることなんて、これまでの自分にはなかったことだ。


        ずっと旅暮らしで、ひとりきりで生きてきた。誰とも深くかかわりを持つことなく、体ひとつで。
        執着を持つことなく、想いを傾けることなく生きてきたのに。それが自分にとっては普通のことだったのに。

        それなのに、今の自分はこんなにも彼女のことを求めている。こんなにも狂おしく、俺だけのものにしてしまいたいと欲している。
        明らかに―――自分は、「変わった」と言えるだろう。



        「拙者も、自分がこんな風に嫉妬するようになるなんて、夢にも思わなかったでござる」



        真顔で言われて、薫は驚いたように目を大きくする。束の間ふたりは無言で見つめあったが、先に口を開いたのは薫だった。
        「自分でも・・・・・・驚いているの?」

        薫としても、度々驚かされてはいたのだ。
        だって剣心はわたしよりずっと人間的に大人で、自分に厳しくて誰に対しても公平に優しい「人格者」で。だから、そんな彼が今日のように過剰と言っても
        よいくらいの悋気を露わにする度、「剣心にもこんな一面があったのか」と驚いていたのだが―――

        「うん・・・・・・そうだ、薫殿と一緒になってからでござるな。拙者がこんなになってしまったのは」
        今更ながらに自覚した、とばかりに頷く剣心をまじまじと見つめていた薫は、ふと、むずむずと口角が震えるような感覚に気づいて、慌てて唇を指で押さえ
        た。どうしよう、身体の奥から笑みがこみ上げてきて、勝手に口許がゆるんでしまう。


        「・・・・・・薫殿?」
        黙ってしまった薫に、剣心が気遣わしげに声をかける。
        薫は首を前に倒し、ことんと剣心の肩先に頭を預け、「・・・・・・嬉しい」と囁いた。

        わたしが生姜のお茶を美味しいと言ったことを「嬉しい」と言った剣心。
        さっきは、彼があんな事で喜んでいる理由がいまいち理解できなかったのだけれど―――今、わかった。
        ひとの心や内面を、動かしたり変化させたりするのは簡単なことではない。それどころか、国の仕組みを変えるより難しい場合もあるかもしれない。



        剣心を、彼自身も驚くような方向に変化させたのがわたしだというのなら―――どうしよう、その事実がこんなにも嬉しいだなんて。



        「いい方向に変わったとは言い難いでござるよ? このとおり、たちの悪いやきもち焼きになってしまったのだから」
        「いいの、やきもち焼きはわたしも一緒だもん、お互い様よ」
        「それは、拙者の所為で?」
        「・・・・・・そうかも」
        「成程、お互い様だ」
        剣心は頷くと、薫の肩に手をかけた。ぐい、と力がこもって、傾けられた薫の身体は布団の上に沈んだ。

        「・・・・・・剣心?」
        「もうちょっとだけ」
        「休んでていいって、言ったのに・・・・・・」
        「仕方ない、薫殿の所為でござるよ」




        ―――そうだ、俺をこんなにも我儘で貪欲に変えてしまったのは、間違いなく君だ。




        薫の上に覆いかぶさり、口づける。
        再び絡まった舌は、やはり甘い。


        後で、生姜茶を淹れてやろう。
        そんなことを思いながら、剣心は薫の寝間着の帯を解いた。















        了。






                                                                                      2014.12.12







        モドル。