「剣心?ここにいたの?」



        縁側で風にあたっていたら、薫がひょこっと顔を出した。
        「皆は?」
        「もう、すっかり出来上がっちゃって大変よー。疲れてるところにお酒を入れたんだから、思ったとおりって感じだけど」
        そう言って笑う彼女に、剣心も笑顔を返した。






   cerisier セリシール







        志々雄真実の一件が落着し、剣心たちは三ヶ月ぶりに東京に戻ってきた。道場では妙と燕、玄斎らが出迎えてくれ、長旅を終えた一行をねぎらう為に、
        食事も用意しておいてくれた。赤べこ謹製の料理に舌鼓を打っているうちに、せっかくだからと酒もつき―――そんなこんなで、まだ明るい時間ではあるが
        ちょっとした宴会が始まった。久々に顔をあわせた友人たちと笑い合い酒を酌み交わしながら、剣心たちは改めて、帰るべき場所に帰ってきたことをしみじ
        みと実感した。


        「さっきまで歩きどおしだったというのに、元気でござるなぁ」
        「それでも、皆くたびれていることにかわりはないもの。酔いつぶれるのは時間の問題でしょうねぇ」
        肩をすくめた薫が、剣心の隣に腰をおろす。
        「ねぇ、今度ね、河原で花火があがるんですって」
        「花火?」
        「うん、妙さんが教えてくれたの。それで左之助が、みんなで見に行こうって」

        五月に東京を発ってから、季節はひとつ進んで夏が来た。
        この三ヶ月間は慌ただしく張りつめた日々が続いたものだから、「気がつくとすっかり暑くなっていた」という具合で、季節の変化を感じる暇など無いに等し
        かった。しかしそれではあまりに風情がない。だからせめて、ここから残りの夏は力の限り夏らしいことを楽しもう―――というのが左之助の言らしい。
        「左之の口から風情という言葉が出るとはな・・・・・・しかし、それはもっともでござるな。みんなで行こうか」
        「うんっ、楽しみね」
        にこにこと嬉しそうに頷く薫を見ていたら、彼女を花火見物に誘った左之助に対して少なからず嫉妬の感情がわきあがった。と、いっても彼は薫ひとりを対
        象にしたわけではなく「皆で行こう」と言ったわけなのだが―――我ながら器が小さいなと内心で苦笑しながら、対抗するように剣心もひとつ提案をする。

        「花火もだが、鬼灯も買いに行きたいでござるな」
        「あ、そうよね!もうそんな季節よね」
        薫の顔がぱあっと輝く。そしてすぐさま頬に指をあてて「ほおずき市ってこれからだったかしら・・・・・・」と呟く様子が可愛らしくて、剣心は口許を緩めた。
        「剣心、『笛』作ってくれる約束だったわよね?作り方、教えてくれるんでしょう?」
        「うん、とはいえ、子供の頃に作ったきりだから・・・・・・ちょっと怪しいでござるがな」
        数ヶ月前にふたりで、鬼灯の実で作る笛の話をしたことがあった。あの頃はまだ春で―――鬼灯の実が赤く色づく頃には、自分は此処にはいないのかも
        しれないな、と。そんなことを考えていた頃だ。


        だからこそ、こうして彼女と一緒に夏を過ごしていることが、奇跡のように思える。
        一度、さよならを告げた薫が、今もとなりで笑っていることが。


        「夏は楽しいことがいっぱいあって忙しいわよね・・・・・・縁日がたってたら行きたいなぁ」
        「ああ、それも楽しそうでござるなぁ・・・・・・しかし、あんまり忙しくしているとすぐに秋がきてしまいそうでござるな」
        「あら、秋は秋で楽しいわよ。紅葉がきれいだし、食べ物がおいしくなるし、お月見したり、お庭で落ち葉焚きをしたり・・・・・・あ、そうだ!前川道場でね、毎
        年干し柿を作るのよ」
        「道場で?」
        「ええ、門下生みんなで作業するの。今年は剣心と弥彦も手伝うことになるでしょうね」
        「そういうことなら、喜んで・・・・・・では、冬は?」
        「冬は、雪合戦に、雪見酒に、お餅搗きにでしょ?あと、お正月の準備をするのって、なんだかわくわくするわよね」

        正月か、と。剣心は目を細める。
        新しい時代になってから十回は新年を迎えている筈だが、その間一度も「正月の準備」などしたことはなかった。ずっと旅暮らしだったからそれが当然なの
        だが―――これからは、違うのだろう。


        「お正月がきて、春が近づいてくると、もうそれだけで心が弾むでしょう?雪がとけて、春が来て・・・・・・」
        「春は、桜でござるな」


        今年の、春がまだ浅い頃、薫とふたりで早咲きの桜を見たことを思い出す。
        あの時俺は桜を眺めながら「この花が満開になる頃にもまだここにいられるのかな」と思っていたのだが―――我ながら、どこまで後ろ向きな性格なんだ
        ろうと呆れてしまう。今にして思えば、花がほころんだことを純粋に喜んでいた薫に対して、失礼な話ではないか。

        「春が来たら・・・・・・桜を見に行こうか」
        「そうね、お弁当つくって、みんなでお花見しましょうね」
        実は結構勇気を出して言ったひとことに、無邪気な声が返ってくる。「いやそうではなくて拙者と薫殿とふたりで」と訂正する勇気もなくて―――剣心はた
        だ曖昧に笑ってみせて、はっきりものが言えない自分に内心でひっそりと落ち込んだ。


        「でも、来年の話よりも、まずは現実を見なきゃだわ」
        そう言って、薫は正面に視線を移す。そこにあるのは見慣れた道場の庭、と言いたいところだったが、残念ながら見慣れたものとは少々異なった眺めにな
        ってしまっている。
        留守にしていた三ヶ月の間、妙や燕が時折足を運んでは家が埃まみれにならないよう掃除をしておいてくれた。しかしながら外までは手がまわらなく、現
        在、庭では夏の太陽を浴びてすくすく育った雑草たちが元気に自己主張をしている。

        「まずは、草むしりでござるな」
        「ええ、明日にでもとりかかりましょ・・・・・・あーあ、夢の中ではきれいな庭のままだったのにな」
        「夢?」
        「あ・・・・・・うん。京都に向かってる途中でね、夢を見たの。ここに座って庭を眺めている夢で、剣心も出てきてくれたわ」
        その言葉に、剣心は目をみはる。なんとなれば、自分も同じような夢を見たことがあったからで―――
        「拙者も見たでござるよ。縁側で、薫殿が横にいたでござる」
        「うそ、ほんとに・・・・・・?!」
        「同じような夢を見たんでござるな」
        「そうね・・・・・・似てるわね」
        ふたりは顔を見合わせ、揃って頬に血をのぼらせる。
        どんな夢なのか、互いに気になったが―――それを訊いたら自分が見たたいそう気恥ずかしい、そして甘ったるい夢の内容も話さねばならない。だから、
        互いにそれは訊かずにおいた。そのかわりに、薫はこう尋ねてみる。


        「ねぇ」
        「うん?」
        「夢に見てくれたくらいだから・・・・・・剣心、時々はわたしのこと、思い出したりしたの?」
        剣心は「それは・・・・・・」と開いた口を、いったん閉じる。
        何か考えるように瞳を動かして、そして改めて、薫の目を見つめながら言った。
        「・・・・・・思い出さなかったでござる」
        そんな否定的な答えが返ってくるとは思わなかったのだろう、薫の目が驚いたように大きくなった。
        しかし剣心は、彼女の顔が悲しげに曇る前に、大事なことを付け加える。

        「そもそも、忘れることがなかったから」
        今度は、不可解そうに形のきれいな眉が寄る。くるくる変わる表情が可愛くて、自然と剣心の頬がほころんだ。



        「『思い出す』ためには、まず忘れなくてはならないでござろう?でも、拙者は薫殿のことを、忘れることなどできなかったから」



        独り旅立った、五月のあの夜。
        この地でに暮らしを、いとおしく思っていた。出会った人々との縁を、貴重なものと思っていた。だからこそ、離れなくては思った。
        これから自分が身を投じる闘いに、皆を巻き込んで傷つけるわけにはいかない。だから、別れようとした。忘れようとした。

        けれど―――忘れようとすればするほどに、君の面影が脳裏に浮かんだ。
        忘れるどころか、君への想いは募るばかりで。
        君と離れたことで、君の存在がどれほど俺のなかで大きく育っていたのかを思い知らされて。


        「忘れなかったから・・・・・・だから、思い出さなかった、でござるよ」
        「・・・・・・変なの。なんだか、理屈っぽいわ」
        薫はそう言ってくすくす笑ったが、赤く染まった目許には涙が滲みそうになっていた。剣心はそれに気づかないふりをして、「薫殿は?」と尋ね返す。薫は
        そっと指先で目尻を拭ってから、澄ました顔で「思い出さなかったわ」と答えた。
        「それは、拙者と同じ理屈でござろうか」
        「さあ、どうかしら?」
        「意地悪でござるなぁ」
        「剣心こそ」
        そしてふたりは、やわらかく微笑みをかわす。


        わかっている。こんなふうに軽口を叩けるのは、帰ってきたからだ。
        そして―――もうどこにも行かないと、そう思っているからだ。

        冬の終わりに、君と出逢ったあの頃。
        いつも心のどこかで別れを意識していたあの頃とは、今はまったく違う想いで、ここにいるから。


        膝の上にあった手を、縁側の、床の上におろす。
        そろりと彼女の方へ手を這わすようにすると、薫も小さな手を同じように床に乗せた。
        つん、と指先が触れ合う。
        照れくさそうに、くすぐったそうに君が笑う。
        そのかわいい表情の変化をもっともっと見せてほしくて。もう少し指を伸ばして白い手を握ろうとしたところで―――

        「よっ御両人!こんな所で逢引きかぁ?!」
        賑やかな左之助の声が降ってきて、ふたりはばばっと手を引っ込めた。

        「ななななななにいってるのよ!別に逢引してるわけじゃないもんっ!」
        「だったらお前らもこっちに来いよー、無事に戻れた祝杯あげようぜー」
        いい感じに酔いがまわっているらしい左之助が、いささか怪しい呂律でそう言うと、これまた危なっかしい足取りで皆のいる宴席へと戻ってゆく。
        剣心は肩をすくめると立ち上がり、薫に向かって手を差し出した。今しがたの左之助のからかいの所為で真っ赤に頬を染めた薫は、驚いたように剣心の顔
        と彼の手とを交互に眺め―――「ありがとう」と、その手に甘える。


        今は、例えばこんなふうに「手を貸す」とかの理由がないと君に触れることができないけれど。いつかもっと自然に、君と手を繋いで歩けるようになりたい。
        そしてたくさんの記憶を共有したい。夏の花火に、秋の紅葉、冬には新年を迎える支度をして、春には桜の花を見に行って―――

        そうやって、君のことを一瞬たりとも忘れる暇なんてないくらい、君と一緒にすごせたらどんなに素敵だろうか。
        これから過ごす日々を、歩む未来を、ずっと共に。



        そのためには、「ふたりで桜を見に行こう」という台詞くらい、ちゃんと言えるようにならなくては。
        いやその前に、もっと肝心なことをちゃんと君に言わなくてはならないわけで―――



        「剣心?どうしたの?」
        突然、何か考えこんだふうな剣心に、薫は首を傾げる。
        剣心は「何でもないでござるよ」と笑ってみせて薫の手をひいて立たせたが、頬には少しばかり血がのぼっていた。






        まずは君に、ちゃんと「好きだ」と言わなくては。
        すべては、それからだ。










        
フランスでの、桜(cerisier)の花言葉・・・・・・「わたしを忘れないで」






        了。







                                                                                        2016.03.26







        モドル。