夢を見た。
夢の中で俺は狼になって、野原を歩く小さなうさぎを、身を潜めながら狙っていた。
可愛いな、美味しそうだな。
白くて小さくてふわふわで、捕まえたらきっとあたたかくてやわらかい。
がぶりと咬みついたら、どんな声で鳴くのかな。どんな甘い味がするのかな。
そろりと近づいて、飛びかかる。が、すんでのところで気づかれて、かわされる。
逃げ出したうさぎを、追いかける。懸命に走っているようだが、そんな速さじゃ逃げられるわけがなく、距離はすぐに縮まる。
さあ、あとちょっとで小さな背中に爪が届く。
あとちょっとでふわふわな身体を捕まえられる。あとちょっとで、可愛いうさぎを俺のものにしてしまえる―――そう思ったところで、目が覚めた。
Catch me.
「ごめんね、起こしちゃった?」
一足早く、布団でうとうとしていた剣心の隣に潜り込もうとしていた薫は、彼の目が開いたのに気づいて謝罪する。
それには答えずに、剣心はじいっと薫の顔を見つめ、「あとちょっとだったのに・・・・・・」とため息をつく。
「なんのこと?」と尋ねられて、剣心はたった今見ていた夢の内容を話す。ふんふんと耳を傾けていた薫は、「うさぎを、追いかけていたの?」と、確認する
ように聞いた。
「ああ、追いかけていた」
「いいなぁ・・・・・・」
「え?」
思いがけない反応に、剣心は目を大きくする。
「追いかけるのが、でござるか?」
「ううん、追いかけられるのが」
「・・・・・・追いかけられたいのでござるか?」
薫は返事をしなかった。しかし、ふわりと口許をほころばせると、横になっていた身を起こす。
隣にあったぬくもりが遠ざかるのに、剣心はほとんど反射的に手を伸ばした。
すると彼女は、すっと身をかわして、その手は空を掴む。
数秒間、ふたりは無言で見つめあう。
言葉を交わさぬまま、互いの顔には楽しげな笑みが浮かぶ。
そろり、と。薫は後退り、布団から完全に抜け出した。一拍遅れて、剣心も身体を起こす。
ぱっと立ち上がった薫が、寝室から飛び出した。白い寝間着の後ろ姿が襖の向こうに消えたのを確認してから、剣心は薫を追いかけるべく畳を蹴った。
★
夢の中、うさぎを追いかけたのは、うさぎが逃げたからだ。
待って、行かないで、逃げないで。
君と一緒にいたいんだ。君のそばにいたいんだ。
そう思って、逃げるうさぎを追いかけた。
ああ、そうだ。
君もこんなふうに、俺を追いかけてくれたことがあったっけ。
さよならを告げた俺のことを、君は追いかけてくれた。
ただ、会いたい、そばにいたいという想いひとつで追いかけてきてくれた。
あのとき俺は、そのことがとてもとても嬉しかった。
だから―――君の「追いかけられたい」という気持ちは、理解できるような気がした。
★
追いかけっこは、すぐに終結した。
寝室を飛び出した薫は廊下や客間へと逃げ回ったが、剣心が彼女の足に追いつけないわけがない。居間に駆け込んだところで肩に手がかかり、がばっ
と覆い被さるように抱きつかれて、薫は悲鳴をあげた。多分に笑い声のまじった悲鳴ではあったが。
畳の上に引き倒して、仰向けに押さえつけて、唇に頬にいくつも口づけを落とす。「くすぐったい」と笑って拘束から逃れようと身をよじるのを、首の付け根
に噛みついて動きを封じる。
「・・・・・・捕まっちゃった」
うっとり呟く薫に、剣心は首筋に唇を這わせながら、「食べてしまって、いいでござるか?」と尋ねる。
「ここで?」
「うん」
「・・・・・・お布団がいい」
「では、あちらで食べてしんぜよう」
おどけた調子でそう言うと、剣心は薫の身体をひょいと抱き上げた。狼が、捕らえたうさぎをくわえて軽々と持ち運ぶように。
「・・・・・・追いかけてもらうには、まずはわたしのほうから離れなきゃいけないのよね、剣心と」
剣心の首に腕を絡めた薫が、ため息とともにそう言った。甘えるように、顔をすりつけながら。
「追いかけてはほしいけれど、あなたと離れるのはもう嫌だし。だから、追いかけられるのって、憧れるの」
贅沢な話よね、と薫は笑った。しかし、彼女が追いかけてきてくれて、再会できたときの嬉しさを知っている剣心は「いや、わかるでござるよ」と真面目な顔
で頷いた。
「でも、気持ちの上では、いつも追いかけているつもりでござるが―――・薫殿のことを」
「え?」
「だから、あんな夢を見たのでござろうな」
夢の中で、俺は狼だった。
小さく可愛いうさぎは、間違いなく君だ。
君が欲しくて、一緒にいたくて、全力で君を追いかけた。
「わたし、ちゃんと此処にいるわよ?」
しがみつく腕に、少しばかり力がこもったのを感じて、剣心は「苦しいでござるよ」と笑った。
そう、君はちゃんと此処にいる。心も身体も、ぴったりと寄り添って。
君はここにいるのに、互いに想いを交わしているのに、それでもなお、貪欲に君を求めてしまう。
君の目が見つめるものが俺だけならいいのに。君の頭の中が俺だけでいっぱいになればいいのに。
いつもいつでも抱き合って寄り添って、ふたりだけで過ごせたらいいのに。
いっそのこと―――君をぺろりときれいに食べてしまって、完全にひとつになってしまいたいのに。
「・・・・・・だから、あんな夢を見たのでござろうな」
寝間着のしごきをほどいてやりながら、剣心は胸のうちを口にした。そして「怖い?」と薫に訊いてみた。愛情に、目に見える量などないけれど、もし量れる
としたら俺が君に注ぐこの想いは、過剰に大きくてずっしり重いに違いない。ともすれば、受け止める側が辟易するほどに―――でも。
「怖いどころか、嬉しいって言ったら、わたしが怖い?」
まっすぐな瞳で、そう言われて、剣心は頬を緩めた。
実のところ、薫にそう返されることは、少しばかり予想していた。
「拙者は狼でござるから、うさぎが怖いわけがないよ」
「わたしだって、狼なんか怖くないわ」
だから食べて、と。薫は白い腕を差し出した。
追いかけて捕まえて、すべてを俺のものにしてしまいたいくらい、君が好きで。
追いかけられて捕まえられて、すべてを捧げてしまいたいくらい、あなたが好きで。
きっと互いに、注ぎあう想いの量は均等で。互いに貪欲に、狂おしく求めあう。
なんという僥倖だろう。
そんな相手に出逢えて、結ばれたことは。
「・・・・・・いただきます」
捕まえた白い身体を組み敷いて、ゆっくりと味わうように愛撫して。ふかく牙を立てるようになかに押し入ると、あたたかくてやわらかくて、きもちいい。
乱されるままにあげる甘い泣き声に、剣心は「ああ、うさぎはこんなに可愛く鳴くのだな」と目を細めた。
心はいつも君を求めて、君のことを追いかける。
幾度でも君を捕まえて、幾度でも優しく食べてあげよう。
君と、ひとつになるために。
了。
2018.04.01
モドル。