「・・・・・・剣心?」
小さな、ほんとうに小さな声で、襖の向こうへと呼びかける。
返事はないし、空気が動く気配もない。薫は襖の取手に指をかけると、音をたてないよう注意しながら、横に引いた。
剣心は、眠っていた。
枕元に近寄って、呼吸を窺う。苦しげな様子はなく、健やかなリズムの寝息。
顔色も、かなり良くなっているし、ひどく汗をかいていたりもしない。
―――うん、調子は良さそうだ。
心の中でひとりごちて、薫はふわりと頬を緩める。
志々雄真実との闘いの後、満身創痍で昏睡状態に陥った剣心。しかし、目覚めてからの経過は良好だった。
ここ数日の彼は一日の大半を眠って過ごしているが、東京から駆けつけた恵によると「眠っている間こそ、身体は快復しようとがんばっているのよ」というこ
とらしい。
―――早く、みんなで東京に帰れるといいな。
剣心の寝顔を眺めながら、そんなことを考える。
これも恵曰く、剣心は「実に優秀な怪我人」だそうで、薫はその意味について「ちゃんと安静にしているってこと?」と訊いてみた。
「それもあるけれど、ちゃんと『治ろう』って強く願っているところよ」
つまりは、「病は気から」と同じ理屈である。早く治ろう、絶対に良くなろうと念じているのといないのとでは、快復の速さがまったく違ってくるらしい。その話
を聞いた剣心は、「早く、帰りたいでござるからな」と照れくさそうに笑った。彼がそう思ってくれたことが、そう言ってくれたことが、薫はとても嬉しかった。
ともあれ、現在剣心は苦しそうな様子もなくすやすやと眠っている。
起きていたら何かしてほしいことはないかと聞くつもりだったが、これはこのまま寝かせておくのが一番だろう。
とりあえず、水差しの水だけ換えておこう。今日は結構暑いから、きっとぬるくなっている筈だから―――
そう思って、枕元の水差しに手を伸ばしたところで、剣心の唇が動いた。
「・・・・・・る」
起こしてしまったか、と薫は肩をすくめたが、剣心の目は閉じられたままだ。どうやら、寝言らしい。
―――何か、夢でも見ているのかしら。
薫は、なんとなく口許をゆるめながら、剣心の寝顔を覗きこんだ。また、小さく唇が震えて、呼吸とともにかすかな声がこぼれ落ちる。
「・・・・・・かおる・・・・・・」
ばたばたと慌てたような足音が階下に近づいてきて、恵は振り向いた。
「剣さんの様子はどうだった?」と尋ねるつもりだったのだが、薫の顔を見て質問の内容を変える。
「どうしたの?獅子舞が酔っぱらったみたいな顔色よ」
つまりは、真っ赤だと言いたいのだろう。多分に憎まれ口の成分が含まれたその物言いに、しかし薫は文句を返す余裕もなかった。
「あ・・・・・・うん、大丈夫・・・・・・剣心も、変わった様子はない、です・・・・・・」
耳まで赤くしながらぼそぼそ答える薫に、恵は怪訝そうに眉をひそめた。
「ちょっと、あなた剣さんに何か変なことしたんじゃないでしょうね?」
「・・・・・・それは、ない」
ふるふると首を振る薫に、恵はまだ不審の目を向けていたが、薫は「お水、換えなきゃ・・・・・・」と言ってきびすを返した。
あの、頭の中が剣心の声でいっぱいになってしまった飽和状態のなか、よく水差しを持ってこられたものだと、薫は我ながら感心した。
何か、なんて。そんなことわたしはしていない。むしろ何かされたのは、わたしのほうだ。
いや、ただ寝言で名前を呼ばれただけなのだが―――頭の中では、いつもわたしの事を、あんなふうに呼んでいるんだろうか。
わたしのことを、あんなふうに―――「薫」と。
冷たい水を汲んで、また彼の部屋に持っていかなくては。
そう思いながら、薫は剣心がもうしばらく眠っていてくれることを切に願った。
もしも目を覚ましていたら、どんな顔を彼にあわせたらよいのか―――まるで見当がつかなかったから。
了。
2016.07.16
次は、誰の名前を。