「じゃあ、このお部屋を使ってね」
そう言って通されたのは、調度品は小さな文机がひとつの簡素な部屋だった。
きっちりと掃除が行き届いており、清しい空気が流れている。朝になったら、ぴんと張られた障子越しに、柔らかな日の光が射し込むことだろう。
当然のことながら、「自分の部屋」というものを持つのは、旅暮らしを始めてからはじめての事である。
剣心はなんとなくくすぐったい思いにかられて、目を細めた。
「後からお布団も持ってくるわね。あ、寝間着は父さんのお古なんだけど・・・・・・」
「いや、ありがたいでござるよ。かたじけない」
「人斬り抜刀斎」であることを知ってもなお、薫は剣心を引き止めた。
その言葉に甘えてしまったことに、剣心は内心かなり驚いていた。
―――彼女のことを「危なっかしい」と思ったからだろうか。
ひとりきりで亡父の遺した流派を守ろうとしている彼女の事を、心配に思ったからだろうか。お人好しな彼女の事を、放っておけないと感じたからだろうか。
そのすべてが正当な理由になっている筈だけれど、でも。
もっと、こう。言葉では説明のできない何かが、自分の中で動いたような―――そんな気がするのだが。
その感情の正体が何なのか、剣心はまだ、気づいていなかった。
それはまだ、生まれたばかりのとても微かなきざしだったから。
「お風呂、入るでしょ?今準備してくるわね」
「ああ、拙者がやるでござるよ」
「え、でも・・・・・・」
「これからしばらく世話になるのだから、家のことはちゃんと手伝わせてほしいでござる」
薫は剣心の言葉に、睫毛の長い瞳を何度か瞬きさせて―――ふわりと、表情を緩めた。
「それじゃあ、お願いしちゃうわね。ありがとう、剣心」
薫はそう言って笑うと、踵を返し、長い髪を揺らして部屋を出てゆく。
その後ろ姿を、剣心は驚きに大きくした目で、見送った。
―――名前を、呼ばれたのは久しぶりだ。
いや、久しぶりどころか―――何年ぶり、くらいかもしれない。
旅を続けてゆくなか、誰かと知り合ったとしても、大抵はその縁は一瞬のものだったから。出会ったひとに、名乗らずそのまま別れてしまう事が殆どだった
から。考えてみれば、流浪人になってから名前を呼ばれたことなど、数える程しかなかったような気がする。
彼女が口にした「剣心」という呼び声は、耳を伝って胸に届いて、優しいぬくもりになった。
そうか―――知らなかった。
名前を呼ばれるということは、嬉しいことなのか。
思いがけない「発見」がなんだかくすぐったくて、自然と口許が緩む。
襷があったら貸してもらおう。そう思いながら剣心は逆刃刀を置いて、風呂の支度へ向かった。
他の誰でもなく、彼女に呼ばれたからより嬉しかったんだということに剣心が気づくのには―――それから、暫くの時間を要した。
了。
次は、誰の名前を。
2016.07.03