「それじゃあ、明日はよろしくお願いします!」
そう言って薫が深々と頭を下げ、剣心もそれに倣った。
「こちらこそよろしくお願いします。明日楽しみにしてるわよー」
「薫ちゃんの花嫁姿、綺麗やろうねぇ」
また明日ねと口々に言いながら、妙や近所の主婦たちは笑顔で神谷道場を後にした。剣心と薫は並んで彼女らの後ろ姿を見送る。
「いよいよ明日、かぁ・・・・・・」
つぶやいた薫の声は小さかったが、そこには確かな喜びの響きがあって、剣心は頬を緩ませた。
明日、緋村剣心と神谷薫は、祝言を挙げる。
僕の名前を 前編
明日は妙をはじめとした女性陣が台所を預かることとなり、今日はその打ち合わせであった。
と、言ってもあらかじめ準備ができた食材やらを運び込み、ざっくりと段取りを決めるのはすぐに終了し、後はひたすら茶を飲み菓子をつまみながらのお喋
りの時間となった。
「あのお転婆な薫ちゃんが奥さんになるなんて、感慨深いわねぇ」「覚えてる?小さい頃いじめっ子の餓鬼大将に立ち向かっていったとき・・・・・・」などな
ど、武勇伝を中心とした薫の子供の頃の思い出話に花が咲き、女の子にしては勇ましすぎる昔話がつぎつぎと飛び出した。薫は赤面して身を縮こまらせ
たが、剣心は女性たちの話にうんうんと繰り返し頷いていた。
自分の知らない、小さかった頃の薫の話を聞くのは楽しくて、そしてその頃の薫と一緒に過ごしていた彼女たちを羨ましく思った。相槌を打ちながら、思わ
ずぼそりと「かわいかったでござろうなぁ」と呟いてしまい全力で女性陣からひやかされたが、それが本心だから仕方なかった。
「お料理はこれで大丈夫でしょ?お衣装の着付けは馨さんと加納屋の方たちが来てくれるし・・・・・・」
「蒼紫と操殿の宿は千鳥荘が引き受けてくれたし、臼と杵と餅米も準備したでござるな」
お茶会の後片付けをしながら、剣心と薫は指を折って「明日の確認」をしてゆく。新郎新婦の晴れの衣装は、先頃薫の友人となった呉服屋のお嬢様が厚
意で誂えてくれた。明日到着予定の蒼紫と操からは先に手紙が届いており、祝いの言葉とともに手数だが近場に宿をとっておいてはくれないかと書き添
えてあった。「祝言直後の新婚夫婦の家に泊まるなんて、そんな野暮な真似はできない」という気遣いらしい。これもやはり、とある事件を通して縁が出来
た旅籠が融通してくれた。
そして、このあたりの剣術道場での婚礼は、餅つきが恒例となっている。薫の両親の祝言でも、庭先に臼を据えて当時の門下生が皆でかわるがわる搗
いたそうだ。
「そこが心配なのよねぇ、餅米、あれで足りるかしら?」
「大丈夫でござろう、念のため多めに用意したのだし」
「でも、暮れに餅搗きしたときの弥彦の食べっぷり、凄かったじゃない?あの子の他にも、食べ盛りの男の子たちが何人も来るだろうし・・・・・・」
「なに、万一足りなくなった時は、拙者が米屋にひとっ走りするでござるよ」
「それは駄目よー!途中で買い出しに行く新郎なんて聞いたことないわよ?!」
慌てる薫の腕を掴んで抱き寄せながら、剣心は「冗談でござるよ」と笑った。きっと明日の今頃、俺は買い出しにゆくどころか一瞬たりとも君のそばを離れ
たくないと思ってるに違いない。ぎゅうっと抱きしめられた薫は、とりあえず後片付けは後回しにすることにして、身体の力を抜いて剣心の腕に身を任せ
た。
「・・・・・・いよいよ、明日なのね」
「ああ、明日でござるな」
「どうしよう、今からもう、凄くすごく嬉しいの」
「ああ・・・・・・それは拙者もだ」
嬉しかった。
君と一緒に人生を歩んでゆく、その証を立てられることが嬉しくて仕方がなかった。
君が明日を待ちわびていたこと、俺と同じ想いでいてくれたことも、当然のことながら嬉しい。
そして、先程妙が話していたとおり、君の花嫁姿はどんなに綺麗なことだろうか。それを想像するとまた嬉しくなって。
色々なひとが祝言のために力を貸してくれて、明日を楽しみにしてくれていることも、また嬉しくて―――
「なんだか、不思議でござるよ」
「え、何が?」
「こんなに嬉しいことが、自分の身に起きるものなんだな、と思って」
君と出逢う前、流浪人だった頃。諸国を旅するなか、婚礼の場面を目にすることが幾度もあった。
ある時は、穏やかな喜びの気配に包まれた、花嫁行列とすれ違った。純白の綿帽子を重たげに被った新婦と、彼女を守るように歩む縁者たち。そして子
供たちが無邪気な歓声をあげて、彼らを追いかけていた。
またある時は、通りかかった小さな村で、賑やかな宴席に引っぱりこまれた。ひとりでも多くのひとに祝福してほしいからといわれ、新郎新婦に祝いの言
葉を贈った。次々注がれる酒に新郎は顔を真っ赤にしながら皆に礼を繰り返し、新婦がまとった晴れの衣装は質素なものだったが、幸せに彩られた笑顔
が彼女をそれは美しく輝かせていた。
「そういう場面を見るのが―――とても、好きだったんでござるよ」
旅の途中で行き会った婚礼は、いずれも喜びに満ちていて、新たに生まれたばかりの夫婦も、彼らを祝う人々も、皆見事に笑顔ばかりで。そんな場面を
目にするたび、自分もとても幸せな気持ちになったものだった。
明日には自分がその席の、「祝われる側」に着くのだと思うと嬉しくて、あまりに嬉しすぎて―――こんなに嬉しいことが、自分の身に起きるものだろうか
と、なんだか不思議な気分になる。
「祝言って、見ず知らずのひとたちのでも、祝福せずにはいられないわよね」
剣心の思い出話に耳を傾けていた薫は、彼が目にしてきた光景を想像してふんわりと微笑む。
「うん、末永く幸せにと、願わずにはいられなかったな」
偶然行き会った、名も知らぬ新郎新婦。彼らの未来に幸多からん事を、祈らずにはいられなかった。いつまでも幸せに、いつまでも、笑顔でいられるよう
に、と。
そんなふうに、皆が幸せに笑っていられる世の中を―――俺はつくりたかったのだから。
ふと、薫は抱きしめられる腕に力がこもったのを感じて、まばたきをした。
彼の肩先に頬をすり寄せるようにしながら、顔を上げてじっと剣心の目をのぞきこむ。
「・・・・・・ねぇ、剣心」
「うん?」
「わたしね、祝言って・・・・・・自分たちのために挙げるものではないと思うの」
ふいに、腕の中の薫が口にした言葉に、剣心は首をかしげた。
「え、でも、明日の主役は薫殿でござろう?」
「剣心だって主役でしょう」
「それはそうかもしれぬが、祝言の新郎はおまけみたいなものでござろう。皆間違いなく、薫殿の晴れ姿に期待しているでござるよ」
そう言って「綺麗だろうなぁ」としみじみ呟く剣心の胸を、薫は赤面しながら小突いた。
「・・・・・・ありがと、それは嬉しいんだけれど・・・・・・やっぱり祝言って、来てくれる皆のためのものだと思うの」
「皆の、でござるか?」
「うん、だって祝言って、問答無用におめでたいものでしょ」
その表現が面白くて剣心は笑ったが、成程たしかにそのとおりだ。その場にはただ喜びしかなくて、訪れた者もそのひとときは、ただただめでたい空気の
中で過ごすわけで。問答無用という言い方は、ある意味ぴったりかもしれない。
「だからね、来てくれるひとたちは、おめでたい空気に浸るのを楽しみにしていると思うの。そういう瞬間って、そうそうあるわけじゃないでしょう?」
「うん、それはそうでござるな」
祝言という晴れの日は、日常を離れた特別な日だ。それは主役の新郎新婦だけではなく、足を運ぶ参列者にとってもそうだろう。自分も流浪人時代、そん
な「特別な日」に出くわすたび幸せな気持ちになれたから、薫の言いたいことは成程と理解できた。
「それに、祝言って『これから夫婦になります』っていう報告をみんなにする為のものだし・・・・・・来てくれたひとたちに、改めて『お世話になっています、これ
からもよろしく』って挨拶する為のものだし」
「いつもありがとう、と感謝を伝える為でもあるでござるな」
同意してくれたことが嬉しいのか、薫は剣心の言葉に「そうそう」と笑顔で頷く。確かに、そういう意味では祝言は来てくれるひとのために挙げるもので、そ
もそも参列者がいないと成り立たないもので―――
「だからね、剣心」
「うん」
「みんな楽しみにしているんだから、あなたは堂々と祝われていいし、『申し訳ない』とか思わなくても、いいんだからね?」
その台詞は、まったくもって予想外で。
剣心は、驚きに目を大きくして言葉を失った。
その台詞が予想外だったことと、そして――――彼女に、心のうちを見透かされたことに、驚いた。
誰もが自由に、笑顔で暮らせる国を作りたかった。そのために、同志とともに戦った。
しかし、あの時振るった剣は―――結果として幾つもの不幸も生んでしまった。幾つもの命を奪って、結ばれる筈だった絆を引き裂いた。
幕末、国の情勢が目まぐるしく変わるなか、かつて巴と挙げた祝言。彼女を失ってから知った事実。本来ならば、祝言の席の彼女の隣には、俺ではなく別
のひとが居る筈だった。ずっとずっと想いあっていたふたりの幸せな未来を、壊してしまったのは俺だった。
本来ならば―――彼らこそが、皆からの祝福を受けながら、幸せな夫婦になる筈だったのに。
そして俺は彼らのほかにも、幾つもの絆を断ち切ったことだろう。
あの頃奪った命、そのひとりひとりに、家族がいたはずなのに。愛するひとが、いたはずなのに。
理屈ではわかっている。あれは国を変える為の戦争だった。皆が信念をもって、命をかけて戦っていた。その結果流れた血であった。
そうだと頭で理解はしていても、感情は追いつかなかった。だから俺は、不殺の誓いをたてた。だから、流浪人になった。
償う道を探して旅をして、そして答えにたどり着いて。
もう、迷うことはないけれど―――それでも、消せずに残る感情はある。
「・・・・・・薫殿」
「はい」
「薫殿は、拙者の心が読めるんでござるか?それとも未来から来たから拙者のことは何もかもお見通しとか」
「未来から来た人間が、明日の餅米の量のことで悩むと思う?」
それもそうだなと納得しながら、それでも彼女に心を見透かされたことは、驚きだった。
それは、信念と誇りを持ちながら生きそして逝った相手に対して、むしろ失礼な想いなのかもしれない。
けれど―――俺のような男に、こんなに幸せな日が訪れることに、「申し訳ない」という感情が湧いたのは、事実だった。
「心は読めないし未来からも来ていないけれど、剣心の考えることなら、少しくらいはわかるわよ。あなたのことだから、『拙者ばかりが幸せな思いをして、
すまないでござるー』とか、そんな事考えてたんでしょ?」
殊更に、可笑しげに口真似をする薫に、剣心は頬をほころばせた。彼女にしてみれば「踏み込みづらい」であろう域に、そうやって触れてくれる心遣いが嬉
しくて、健気な優しさが、いとおしかった。
「薫殿にこそ、申し訳ないでござるなぁ・・・・・・こんな、面倒くさい男が伴侶になるのでござるから」
お返しに、おどけた口調でそう答えると、薫は「いいの、あなたのそういうところも好きなんだから」と、くすくす笑った。
「そういうふうに思うのは、あなたが優しくて、いつも他人のことを考えているからだもの。剣心のそういうところも、わたしは好きなの」
言ってから、恥ずかしくなったのだろう。薫は剣心の視線から逃れるように、彼の肩先に顔を埋めた。
本当に―――君は未来からきたんじゃないかと思ってしまう。
君はまるで、最初から知っていたみたいに、俺の心の痛いところを見つけるのだから。
そして、「大丈夫」というようにそこに手をあてて微笑んで、そうして癒してくれるのだから。
こんな面倒な、過去やら思い出やら後悔だらけの俺のことを、君は笑って抱きしめてくれる。
悩んで傷ついて涙を流した末に、それでも俺の全部を、君は好きでいてくれる。
「・・・・・・薫殿」
「なぁに?」
まだ顔を隠したまま、剣心の着物に口を押しつけたままもごもごと返事をした薫に、剣心は「お願いが、あるのだが・・・・・・」と続けた。
後編へ続く。