「・・・・・・せっかくなら、ちゃんとしたのを見てもらいたいんだけどなぁ」



        照れくささと、不本意さとが混じったような薫の声音。しかし剣心は「お願い」を曲げようとはしなかった。
        「勿論、明日きちんと着たのも楽しみにしているでござるよ。だから、ちょっとだけ」
        「んー・・・・・・明日まで待てないの?」
        「待てない」
        「・・・・・・ほんとに、ちょっとだけ、羽織るだけよ?」

        衣装掛けにあった白い打ち掛けを外すと、薫はしぶしぶというふうに、今着ている着物の上から肩にかける。
        それは、明日彼女が身にまとう花嫁衣装。



        剣心の「お願い」は、「少しだけ、その衣装をまとった姿を見せてほしい」というものだった。









      後編









        「・・・・・・綺麗でござるなぁ」
        「ほんとねぇ、馨さんに感謝しなくちゃ。分不相応にいい着物をいただいちゃって」
        「着物ではなくて、薫殿が綺麗だと言ったんでござるよ」
        「・・・・・・ねぇ剣心、今日はどうしちゃったの?」

        花嫁衣装を羽織ってほしいとねだったり、直接的に嬉しすぎる台詞をくれたり。それはとても有難いことなのだけれどどうにも照れくさくて、薫は居心地悪
        そうに肩を縮こまらせる。


        「祝言の前日でござるからな。嬉しくて、浮かれているんでござるよ」
        剣心は指を伸ばして、打掛の袷をかき合わせてやる。そうしながら、明日髪を結って唇に紅をさして、この白打掛を身につけた薫の姿を想像して、目を細
        めた。
        「・・・・・・浮かれちゃうくらい、嬉しいの?」
        「薫殿でも、そこまでお見通しという訳ではないのでござるな」

        剣心は楽しげに笑うと、そっと薫の肩に手を乗せた。促されて、薫はその場に腰を下ろす。白無垢の裾が畳の上に広がる様子は、大輪の白芙蓉が咲いた
        ようだった。
        「嬉しいし、楽しみでござるよ。さっき薫殿は『申し訳ない』と言っていたが・・・・・・それよりも嬉しい気持ちのほうが、比べ物にならない程大きいのだから」


        俺のような男に、こんなに幸せな日が訪れることに対して、「申し訳ない」という感情が湧いたのは事実だ。
        しかし―――こんなに幸せな日を迎えることへの喜びの感情のほうが、それをずっとずっと上回って余りある。

        「そうだな、わかりやすく表現すると・・・・・・拙者のほうが薫殿よりも、明日を楽しみにしているでござるよ」
        「え?!やだ勝手に決めつけないでよ、わたしの方が剣心よりもずっと楽しみにしているわ!」
        「いーや、拙者のほうが勝ってるでござるな」
        「いーえ、そんなことないもん、わたしのほうが勝ってます!」
        競い合いが犬も食わないような喧嘩に発展しかけたところで、薫は我に返って吹き出す。そんな彼女を見て、剣心も笑った。
        「・・・・・・うん、わかったわ、とにかくそのくらい待ち遠しいって事ね?」
        「うん、わかればよいのでござるよ」
        仰々しく頷いてみせながら、剣心は薫の肩からするりと手をおろした。なめらかな質感の、絹の打掛の袖を指でたどって、その先にある小さな手を握る。


        「・・・・・・嬉しいんだ。やっと明日、薫殿と夫婦になることを、皆の前で誓えることが」
        じっと、瞳を見つめながら言う剣心の声から、おどける色はもう消えていた。


        君のことがずっと好きだった。
        きっと、出逢って間もない頃から、この気持ちは始まっていたのだろう。

        恋をしては、いけない筈だった。俺のような男に、誰かを愛する資格なんてないと思っていた。誰かを好きになって、その所為で不幸が生まれることを恐れ
        ていた。いつかは君のもとを去らなくてはと思っていた。そしてその時は訪れた。


        ―――でも、君は俺に逢いにきてくれた。
        追いかけて探して見つけてくれて、また俺の名前を呼んでくれた。
        知られるのが怖くて言えなかった、過去のすべてを告げても―――それでも君は、何度も、何度も、俺の名前を。

        だから君には、ただ感謝の念しかなくて。いくつ「ありがとう」を重ねてもとても足りなくて追いつかなくて。
        足りないぶんを、これからの俺の時間の全部を使って伝えてゆきたくて―――


        「だから、残りの全部は薫殿にあげるから」
        「・・・・・・え?」
        「前にも一度、そんな話をしたでござるな。あの時は、薫殿からだったが」


        それは、ふたりで京都に行った日の夜。
        互いにはじめて、好きだと言って想いを口にして。はじめて、口づけを交わした夜。
        薫はそのとき剣心に、「わたしの未来を、あなたにあげる」と言った。

        いつか剣心が過去を語ってくれた、そのお返しに、と。
        それは剣心にとって相当の勇気を要する告白だったから、だから薫は「過去」を語ってくれたお返しに、「未来」をあげると言ったのだった。

        これから先の未来を、いつもいつまでも一緒にいることを、君は約束してくれた。
        そして俺も、未来のすべてを、君に捧げることを誓った。



        「改めて、また誓うでござるよ。これからの拙者の未来は―――全部、薫殿のものだ」



        祝言は、明日に迫っているけれど。明日には皆の前で、結婚の誓いを交わすのだけれど。
        それより先に、誰よりも薫自身に誓っておきたかった。彼女本人にこの約束を捧げたくて、想いをそのまま口にした。

        手を取られて、まっすぐに目を見つめられたまま、薫はすぐには言葉を発することができなかった。
        そして、頬にみるみるうちに血がのぼり、大きな瞳に涙がふくらむ。ああ、子供みたいに可愛いなぁと剣心はのんきに思ったが、薫にしてみればそれどころ
        ではなかった。


        「〜剣心、手!手!」
        「おろ?」
        「ちょっと一回はなしてー!」
        その要求に剣心が反応するよりも先に、薫はみずからぶんぶんと手を振って握った指から逃れた。そしてそのまま手のひらで泣き顔を隠す。
        「も〜!泣かせないでよ今日のうちから!明日が祝言なのに、目が腫れちゃったらどうするの!」
        「腫れたって、薫殿の花嫁姿は絶対に綺麗でござるよ」
        「だーかーらー!」
        そう叫んでやたらと首を横に振る様子もやっぱり子供みたいで可愛くて、剣心はぎゅっと薫を抱きしめた。泣き顔が見えなくなるように、肩口に顔を押しつ
        けさせるようにしてやると、薫は大人しくそれに従った。

        「そんな、嬉しすぎることいっぺんに言わないで・・・・・・」
        剣心にしっかりすがりつきながら、ぐす、と薫は涙で声を詰まらせる。
        「そんなに次々と、すごい言葉貰っちゃったら・・・・・・もう、嬉しすぎてわたし、壊れちゃいそうよ・・・・・・」
        「壊れるのは困るでござるなぁ、明日は祝言なのに」
        剣心は、幼子をなだめるように、薫の背を優しく撫でる。上質の絹の手触りは指に心地よく、ああこの白無垢をきちんと身にまとった明日の薫はどんなに
        美しいことだろうか、と。剣心はまた想像して目尻を下げる。



        ―――「嬉しすぎる」と君は言ったけれど、そんなに特別なことを口にしたわけではないのにな。
        ただ、自分の素直な気持ちをそのまま言葉にして、君に誓っただけだ。だって、今の俺があるのは、大袈裟じゃなく君のおかげなんだから。



        過去と後悔と犯した罪とを、ずっと背負って生きてきた俺は、罪人だ。そしてそれは一生変わることがない事実だ。
        幾つもの命を奪ったこの腕を、この剣を、残りの人生を助けることに使おうと思った。それが、俺にできる唯一の償いだと思った。

        旅を続けるなか、ひとりでも多くのひとを笑顔にできたなら、と思った。ひとりでも多くの笑顔に会いたかった。けれど、ひととの関わりに、深く踏み込んでは
        いけないと思っていた。
        この剣で、ひとを助けることはできる。でも、俺はひとを幸せにすることはできない。
        それどころか、俺はきっと関わったひとを不幸にしてしまう。もう二度と、誰かを不幸せにはしたくないと思っていた。


        それなのに、君に出逢って君を好きになって、君には幸せになってほしいと思った。
        こともあろうに、「俺が君を幸せにしたい」と思ってしまった。
        過去も後悔も犯した罪も捨てずに背負ったままで―――それでも、君を諦めたくない、と強く思った。

        驚きだった。
        少し前―――ほんの一年前には、想像もつかなかったことだ。



        こんなにもまっすぐ、ひとを好きになれるなんて。
        こんなにも強く、誰かとともに生きていきたいと思えるなんて。

        俺を、こんなふうに変えてくれたのは、間違いなく君だ。
        大袈裟じゃなく―――今の俺があるのは、君のおかげなんだ。



        甘い香りのする髪に、剣心は頬をすり寄せる。
        感謝の念を、まだまだ彼女に伝えたいところだけれど、胸にある想いをそのまま言葉に換えて口にしたら、薫の涙はますます止まらなくなるのだろう。
        たとえ目がぱんぱんに腫れていたとしても、剣心は薫を「綺麗だ」と言い切れる自信はあったが、そんな事態は花嫁本人が許さないだろう。人生最良の晴
        れの日は、いちばん綺麗な姿で迎えたいというのが、当然の女心だ。

        ―――どちらにしろ、こんなに大きな感謝の気持ちは、いっぺんには伝えきれないから。
        だから、これからの俺の時間のすべてを使って、一生かけて伝えてゆこう。これからの俺の時間は、すべて君のものだ。



        「薫殿、泣き止んだでござるかー?」
        わざと、おどけた調子で尋ねてみると、薫は「誰の所為よ」とむくれた声を出した。
        「・・・・・・でも」
        「うん?」
        「でも、嬉しい・・・・・・ありがとう、剣心」

        顔を上げた薫は、目尻を赤く染めながらも、笑顔だった。
        明日の君もまた、こんなふうに喜びの涙を瞳にたたえて、笑うのだろう。美しい、花嫁の姿で。





        「明日が・・・・・・楽しみでござるなぁ」





        駆けつけてくれる皆の前で、誓おう。
        君をかならず、幸せにすると。





        君いわく「問答無用でおめでたい日」は、もう目の前だ。













        僕の名前を 了。







                                                                                         2017.04.28








        モドル。