襖の前に、誰かいるなと思った。



        開けるか開けまいか、逡巡しているような気配。
        部屋に入るか否かを迷っているように、行ったり来たりを繰り返す小さな足音。
        その足音で「誰か」の見当はついたので、どうしたのだろうと思いつつこちらから声をかけてみる。

        「・・・・・・薫殿?」
        読みは、正解だった。足音が止まり、一拍間を置いてから襖が開く。隙間から顔を見せたのはやはり彼女だった。
        「どうか、したのでござるか?」
        いつもの彼女なら、用があれば迷わずするりと襖を開くだろうに、何があったのだろうと不思議に思いながら訊いてみる。
        薫は何と切り出すべきか迷うように目をあちこちに動かしたが、やがて思い切ったように視線を剣心に定めると、口を開いた。


        「ご飯、わたしもここで一緒に食べてもいい?」


        剣心は少しばかり驚いたように、何度か瞬きをした。
        それから、ふっと口許を緩めると、「大歓迎でござるよ」と答えた。







      Beautiful life       前編







        小さく握った塩むすびに、小芋の煮付けと野菜の浅漬けには楊枝を添えて。牛串は妙が見舞いに持ってきてくれたものだ。
        寝間着姿で布団の上に座る剣心の右腕は、三角巾に吊るされている。
        「片腕でも食べられるように」と配慮された献立だったが、薫もそれに付き合うらしく彼女の膳にも同じものが乗っていた。


        雪代縁との闘いで剣心は傷を負ったが、恵曰く「腕はしばらく不便でしょうけれど、それ以外は京都のときよりよっぽど軽症ですよ」という事だった。今日は
        日がな一日自室で安静に過ごしたが、明日には起き出して皆と一緒に食事もできるだろうと思っていたのだが―――

        「そうね、それがいいわよ!ひとりでご飯を食べるのって、やっぱり味気ないものね」
        煮付けをつつきながら大きく頷く薫を見て、剣心は首を傾げる。
        一晩ひとりで食事をすることくらい何ということもないと剣心は思っていたのだが、「それでは寂しいだろう」と気遣って、薫は同席してくれた。とはいえ、自
        分からそう切り出すのは彼女としては気恥ずかしかったそうで、先程は襖の前で躊躇してしまったそうだが―――剣心としては薫と差し向かいというのは
        素直に嬉しかったので、ありがたくその厚意に甘えた。
        けれど、今の台詞から察するに―――ひょっとすると薫自身も、少し前まで同じ「味気ない」思いをしていたのではないだろうか。


        「島では、ひとりで食事をしていたのでござるか?」
        縁によって孤島に連れていかれた薫は、いわば「人質」であった。確かに、そんな状況ならば当然食事時はひとりだった事は想像に難くないが、なんと
        なく剣心はそう尋ねてみる。

        「うん、そうなの。いつもは剣心や弥彦と一緒でしょう?だから、どうも久々にひとりでご飯っていうのが変な感じで・・・・・・だからといって、雪代縁と食べる
        のは絶対に嫌だったし・・・・・・」
        そこで、薫の台詞が途切れる。どうしたんだろうと彼女の顔を見ると、眉間にはぐっと深い皺が刻み込まれて、目は恨めしげに据わっている。まさか、捕ら
        えられている時に奴に何か酷いことをされたのでは―――と瞬時に剣心の全身から血の気が引いたが、次に薫が口にしたのは予想外の言葉だった。


        「だいたい・・・・・・あのひと、わたしの作ったご飯は『不味い』って言ってたし」


        薫は実に憎々しげに吐き捨てたが、剣心は一瞬呆気にとられた後、悪いと思いつつも笑ってしまった。彼の反応を、薫も予想していたのだろう。憮然とし
        た様子ながら、剣心を咎めはしなかった。
        「い・・・・・・いや、すまない。縁のぶんも薫殿が作っていたのでござるか?」
        「だって、勝手に作って勝手に食べろって言うから、それならひとりぶんもふたりぶんも作る手間は同じでしょ?でも・・・・・・何だか、敵に塩を送っちゃったみ
        たいよね、ごめんなさい」
        「いや、むしろ・・・・・・それは有難いくらいでござるよ。かたじけない」

        もし、今回の事で縁が薫に危害を加えていたなら、彼は剣心の仇となったことだろう。実際、彼女が道場から拉致される直前、剣心が縁に対して爆発させ
        た感情は間違いなく怒りだった。
        けれども―――彼は、かつて妻だったひとが、大切に慈しんできた弟なのだ。薫が無事ならば、縁は剣心にとって憎悪の対象にはなり得ない。それどころ
        か、剣心こそが赦しを乞わなくてはならない側だった。


        「島で、縁とは何か話をしたのでござるか?」
        「うーん、そんなには・・・・・・軟禁状態だったし、同じ家でも別の場所にいたら殆ど姿も見ないし、とてもじゃないけど友好的な雰囲気じゃなかったし、でも」
        薫は、時折目にした縁の姿を思い返してみる。
        と、いっても、まともに顔を見る機会といえば食事を持って行く時くらいのものだったが―――

        彼の視界にわたしの姿は入っていた筈だけれど、でも、その目はわたしを通り越して違う誰かを見ているようだった。
        透明な狂気の膜を透かした瞳に映っていたのは、彼が誰より愛した肉親の姿だったのだろう。

        「なんだか、いつも・・・・・・『誰か』に語りかけているみたいな、そんな感じだった」
        その相手が誰なのかは、剣心はすぐに理解できたし、薫にしてもそれは同じだった。
        「不味いって言いながらも、わたしのご飯を食べていたのも・・・・・・巴さんが食事を作ってくれていた事を、思い出していたのかな」
        薫は一度、狂言などではなく本当に殺されかけた。確実に殺気を感じたし、首にかかった手の力にも容赦はなかった。でも―――薫が巴と同じ年頃の女
        性であるという理由だけで、縁は薫を殺せなかった。それほどまでに、彼の姉に対する思慕は深いものなのだろう。しかし。

        「・・・・・・それにしても、毎回毎回必ず残すのよ?!一度も完食しなかったんだから、やっぱり腹立たしいわ!」
        どこまでも陽性な薫の怒りに、剣心はまた笑った。そして、自分と縁の確執もこんなものならよかったのに、と思う。
        もし、運命の歯車の噛み合わせが少しだけ異なっていれば、彼とはごく普通の―――巴を介しての、義理の兄弟になっていただろうに、と。



        「結局、縁には、許してはもらえぬままだったな」
        塩むすびをひとつ食べ終えたところで、剣心はぽつりと言った。

        この度の闘いは、薫を取り戻すための闘いだった。
        そして同時に、これから自分がどう生きてゆくか―――みずからの贖罪の「答え」を出すための闘いでもあった。
        それらは、果たすことができた。薫は無事に帰ってきて、こうして今も傍にいる。「答え」も、既に自分の中にある。
        しかし、縁は―――いずれ彼自身をも壊してしまいかねない程の憎悪の念は、ぎりぎりのところで押しとどめることはできた。けれども、彼が剣心を「許し
        た」かというと、それはまた別の話なのだ。


        「あの日記を読めば・・・・・・きっと、何かが変わるわ」
        そっと、労わるように薫が声をかける。

        「あれを読めば、あのひとにも巴さんの気持ちは伝わる筈だもの。今すぐは無理だとしても、もし何年か経ってまた再会することがあったとしたら、きっとそ
        の時には・・・・・・」
        懸命に言葉を紡ぐ彼女がいじらしくて、剣心はふわりと笑みをこぼした。つられるように、薫も肩から力を抜いて微笑む。



        「ふたりとも・・・・・・悲しかったのは、同じなのにね」



        それは、まるで独り言のように、小さく漏らした一言だった。
        しかし、それを剣心は聞き逃さなかった。
        「同じ、とは?」
        呟きの意味がわからず、剣心は尋ねた。聞き返されるとは思っていなかったのだろう、薫はなんと説明しようか、と少し頭の中で言葉を整理するように瞳を
        動かして、そしてゆっくりと唇を動かした。

        「大切なひとを突然失って、悲しかったって事は・・・・・・あなたも雪代縁も、同じでしょう?」
        「・・・・・・え?」
        「あのひとは、お姉さんを失ったけれど、剣心だって奥さんを亡くしたんだもの・・・・・・ふたりとも、同じくらい悲しかっただろうなって、そう、思って・・・・・・」
        剣心は、驚いたように目を大きくして、まじまじと薫の顔を見つめた。薫は「そんなに変な事を言ってしまっただろうか」と不安げに瞳を揺らしたが、剣心は、
        そんな彼女に対してすぐに言葉を返せないでいた。



        あの、雪の日。
        盾になるように自分の前に身を躍らせた、巴を斬った。

        何が起きたのか、直ぐには理解できなかった。
        驚愕と、そして悲しみに襲われながら、もう二度と目を開けることのない彼女の骸を抱いて、泣いた。
        そして、あの日記を読んで、彼女が抱えていた本当の想いを知って―――



        「・・・・・・ああ、悲しかった」



        剣心が、のろのろと口を開く。
        自分の中にある思いを整理しながら喋るように、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

        「あの時は、あまりに突然、巴を失って・・・・・・確かに、悲しかった。気が狂いそうになる程悲しくて・・・・・・けれど、それから先は・・・・・・憎くなった、恨めし
        く、なったんだ」
        そう言って目を伏せた剣心を、薫はじっと見つめる。泣いている子供に声をかけるように、彼女は優しい声音で尋ねた。


        「・・・・・・誰のことが・・・・・・?」
        剣心は、膝の上に置いた左手をぎゅっと強く握る。手のひらに爪が食い込んでしまう程に。






        「拙者自身が・・・・・・でござるよ」















        後編 へ続く。