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        「薫殿ーーーー!!!」





        彼の足の速さは人並みはずれている。
        あっという間に懐に飛び込まれそうに距離が縮まり、薫は慌てて手元にあった紐の包みを袂に仕舞った。

        「薫殿、ただいまでござる」
        土煙があがりそうな速度で走ってきた剣心は、薫の手前で―――互いのつまさきがぶつかりそうな近さに肉薄したところで、急停止する。
        「お、かえりなさい・・・・・・あの、剣心、何かあったの?」
        近すぎる間合いにおろおろしながら、薫は尋ねた。くりかえし大声で薫の名前を呼んでいたことといい、闘いの最中にしか見せないような速さで走ってきた
        ことといい、尋常な様子ではない。何か、変事が起こったとしか考えられなかった。
        がしっ、と。両手で二の腕のあたりを掴まれて、薫は「ひゃっ」と声をあげる。


        「薫殿、話があるでござる」
        「な、なぁに・・・・・・?」

        秀麗な顔をぐっと近づけられ、薫は首をすくめる。
        近い距離にときめきつつも、切羽つまった剣心の表情に、「これはただ事ではなさそうだ」と薫も真剣な瞳になって、彼を見つめ返す。


        「さっき、道端で酔っぱらい数人に囲まれているご婦人がいて」
        「うん」
        「明らかに困っている様子だったから、酔っぱらいを叩きのめして助けたんでござるよ」
        「うん」
        それはいかにも剣心らしい行動だなぁと思いつつ、薫は相槌をうつ。
        「ちなみにその女性は、左之の言葉を借りると『ちょっと年はいってるが婀娜っぽい美人』で」
        「・・・・・・うん」
        「飲み屋だか小料理屋だかの女将をやっているそうで、お礼にこれから店に来ないかと誘われたんでござる」
        「・・・・・・・・・うん」
        それはいかにもありそうな展開だなぁと思いつつ、しかしそれは大変面白くない展開でもあるなと思い、薫の眉間に半ば反射的に皺が寄った。が―――

        「だから、『それには及ばない』と言って、断ったでござる」
        ―――ああ、なんだ断ったのか。そうよね、だから剣心は今ここにいるのよね。そう思って、薫はふっと表情を緩ませる。
        彼女の眉間がやわらいだのを確認し、剣心もほっとした様子で肩から力を抜いた。


        「・・・・・・うん、それで?」
        「え?」
        「断って、それで?」
        「それだけでござるよ」
        剣心の手が、腕から離れる。なんだかわけがわからなくて、薫はただただ混乱する。

        「え、だって剣心、話があるって」
        「うん、だから、今のがその話でござるよ」
        「・・・・・・?」


        だって剣心、今ものすごい勢いで走ってきたのに。
        あんなに必死な様子でわたしの名前を繰り返し呼んで、いかにも一大事という感じだったのに。
        なのに彼は、ただ「困っていた女性を助けました」というごくありがちな内容を伝えるためだけに、全速力で帰ってきたというのだろうか。

        「もう少しちゃんと話して」と要求すべきかしら、と薫は首を傾げたが、彼女がそれを口にする前に「薫さーん!」という操の声が聞こえた。
        道の向こうを見ると、操と左之助が剣心に負けず劣らずの勢いで走ってくるのが見えた。その後ろには、弥彦と蒼紫もいるようだ。
        ああそうだった、彼らは一緒に街に出ていたのだったと薫は思い出す。ふと、傍らにいる剣心の顔を見ると、何故か彼は闘うべき敵を迎え撃つときのよう
        な、厳しい表情を浮かべていた。


        「薫さん、たっだいまー!」
        「お、おかえりなさい、操ちゃん」
        先程の剣心を再現するかのように、操は薫の懐に飛び込むようにして足を止める。半拍遅れて左之助も道場の前に到着したが、何故か彼らの顔には、い
        ささかひとの悪い笑顔が貼り付いていた。

        「あのね、薫さん聞いて聞いて!さっき、道端で酔っぱらい数人に囲まれている女のひとがいて」
        「それが明らかに困っている様子だったから、剣心が酔っぱらいを叩きのめして助けてやったんだよな」
        「・・・・・・うん」
        操と左之助がかわるがわる喋り出した話は、今しがた剣心が話した内容とどうやら同じもののようだ。薫はその重複する話に、しかし律儀に相槌を打つ。
        「で、その助けた女のひとがー、結構キレイなお姉さんだったのよねー」
        「そうそう、ちょっとばかり年増だったけどよ、なんつーか、婀娜っぽいっていうの?こう、色香が溢れる美人でよー」
        「・・・・・・うん」
        頷きながら、薫はちらりと剣心のほうへ視線を走らせる。なんだか彼ははらはらと落ち着かない表情でこちらを見ていた。

        「その女のひとが、飲み屋だか小料理屋だかの女将をやっているっていうのね。で、お礼にこれから店に来ないかって、緋村のことを誘いはじめてー」
        「こう、手を握って、しなだれかかる勢いでなー。ありゃ見物だったな、さっきまで絡まれて困っていたのが、一転して獲物を狩る側に早変わりってか?」
        「熱っぽい視線を緋村に送ってー、それがなんとも色気たっぷりでー、端から見てるこっちがどきどきしちゃうくらいだったんだけど、でも緋村はー・・・・・・」
        「でも!!! 断ったんでござるよ!!! もう薫殿には拙者からそう言ったでござる!!!」


        普段の生活では基本的に穏やかな人柄で通っている剣心が、珍しく声を荒げて二人の放言を遮った。


        「んだよ、別にいいじゃねーかお前ぇの悪口言ってるわけじゃねぇし。むしろ俺達ゃ褒めてるんだぜ?」
        「そーよそーよ、第三者からの客観的視点で薫さんに語ってるだけだもん、それの何が悪いのよ」
        「それのどこが客観的でござるか・・・・・・悪意しか感じられないでござるよ」
        剣心は額に手を当てながら首を横に振ると、ふいっと玄関のほうへと足をむけた。
        「茶菓子を買ってきたから、お茶の用意をするでござるよ」
        「あ、手伝うわ」

        薫は小走りに剣心の後を追う。左之助と操はとりあえずはそれ以上の追及はせず、にやにや笑って彼らの背中を見送った。








        ★








        「・・・・・・つまり、あのふたりにからかわれるより先に、わたしに経緯を話そうと思った・・・・・・ってこと?」



        台所にて、ふたりきりになったところで薫は剣心に訊いた。
        剣心は湯を沸かしながら、「そういう事でござるよ」と、憮然とした様子で頷いた。拗ねたような態度がなんだか可愛くて、薫は思わず口許を緩める。

        道端で、酔っぱらいに絡まれていた女性を助けた剣心。
        しかし、その「ちょっと年増ではあるが色っぽい美女」が、助けてくれたお礼にと言いつつ剣心に秋波を送ってきた。
        当然剣心は辟易し、他の面々はその様子を面白がって眺めていて―――結局剣心は、美女の誘いを振り切ってきたわけだが、左之助と操は「これはか
        らかうネタになる」とふんだのだろう。「嬢ちゃんにも報告しないとな」「微に入り細に入り伝えてあげなきゃね」と盛り上がる彼らに対し剣心がとった行動
        は、「おもむろに駆け出す」というものだった。


        「とにかく、一番に拙者の口から薫殿に、何があったのか事実を伝えたかったんでござるよ。でないと左之も操殿も、あることないこと付け足して、面白お
        かしく脚色して語るに違いないと思ってな」

        まず一番に自分の口から伝えようとして、あの全力疾走となったらしい。本気で走った剣心の足には、まず左之助も操も追いつけない。はたして彼は、道
        場の前で先に薫を捕捉することに成功した。
        確かに、先程薫は剣心から今日の出来事の「報告」を受けて、彼の口からでも「美人を助けた」という箇所に「それは少々面白くない」と思ってしまったくら
        いだ。左之助あたりから脚色つきで語られたら「ちょっと、剣心何やってるの?!」と角を出してしまったことだろう。


        「そんなわけで、拙者は清廉潔白でござる。やましいことは何もしていないでござるよ」
        きっぱり言い切る剣心に、薫は今度こそ笑ってしまった。やっぱり彼はどこまでも生真面目で、そんなところも好きだなぁと思った。
        「でも・・・・・・どうせならその場で口止めしちゃえばよかったんじゃないの?剣心が本気で『言うな』って凄んだら、なんだかんだで左之助も操ちゃんも黙って
        いてくれたでしょうに」
        くすくす笑う薫に、つられて剣心も頬をゆるめる。そして薫の顔をじっと見つめながら、「いや、それはできないでござるよ」と小さく首を横に振った。
        「でも、ほんとに嫌がったなのなら、いくらあのふたりでもそんな意地悪はしないでしょ」
        「いや、そういう事ではなくて、拙者は・・・・・・」
        剣心は、なにか言いにくそうに目線を足許に落とす。薫がもの問い気に首を傾げると、彼はすっと息をひとつ深く吸い込んでから、言った。


        「薫殿に、隠し事をするのは嫌でござるから」


        思いがけない返答に、薫は目を丸くする。剣心は、鉄瓶のほうに視線を動かした。湯が沸くのを気にしていたら落ち着いて話せないと思ったのだろう、いっ
        たん鉄瓶を火からおろす。
        「隠し事って・・・・・・こんなの、別にたいした隠し事でもないじゃない」
        きれいな女性に迫られたものの、結局断ったわけだし。この出来事を黙っていたとしても、それがいつか露見したとしても、いずれにしろたいした波風が立
        つような秘密ではないと思うのだが―――




        「だとしても・・・・・・もう、薫殿に秘密を作るのは嫌なんでござるよ」





        真剣な声音に、薫ははっとする。
        その「秘密」が、彼の過去についてを指していることは、口調からして明白だった。












        3 へ続く。