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        「そんなの・・・・・・わたし前に言ったじゃない。誰にだって、語りたくない過去くらいあるって。だから、わたしは・・・・・・」
        「うん、拙者はそれに、甘えてしまっていたから」


        ひとの過去にはこだわらないと、薫が言ってくれたから。そう言って、引き止めてくれたことが嬉しくて、何も語らぬまま過ごしてきた。
        いつかは語らねばならないことと知っていながら、そのいつかを先のばしにして。
        「でも・・・・・・すぐに話さなかっただけで、いつかは言おうと思っていたんでしょう?じゃあそんなの、秘密でもなんでもないわよ。たまたま、話すのがあの機
        会になっただけで・・・・・・」
        「薫殿は、優しいでござるなぁ」
        剣心はそう言って目を細めると、自然な動作で薫に歩み寄った。手をのばして、そっと両のてのひらで、薫の頬をはさみこむ。

        あの時語った過去は、まだ十代の少女が受け止めるには苛烈すぎる、重すぎるものだった。
        けれど薫は、それをすべて抱きとめて受け入れて、以前と変わらず笑ってくれた。そのことに、俺はどれほど救われただろうか。
        「でも・・・・・・理屈ではなく、ただ薫殿には正直でいたいだけなんでござるよ。これから、ずっと一緒にいるのだから・・・・・・秘密など作らないにこしたことは
        ないでござろう?」


        君に俺は救われた。だから、誠実さをもって俺は君に誓いたい。
        もう決して君を傷つけないことを。苦しめないことを。
        ずっと―――君を守り、愛することを。


        てのひらで挟む頬の温度が、高くなってゆくのがわかる。ほんのり赤く染まった顔がかわいくて、剣心は微笑みを深くする。
        「・・・・・・ずっと?」
        「そう、ずっと」
        「・・・・・・ありがとう」
        薫の唇が、優しくほころぶ。誘われるように、剣心は顔を近づける。
        そのままふたりは、口づけを交わそうとしたのが―――



        「緋村、まだ内緒にしてる」



        すぐ近くで操の声がして、剣心と薫は揃ってびくっと肩を跳ね上げた。
        「みみみみ操ちゃんっ?!」
        「操殿いつからそこに・・・・・・って、悪趣味でござろう!」
        普段は気配に敏い剣心も、この度は先程の騒ぎの余韻もあってか、操が覗いていたのに不覚にも気づかなかった。あわてて距離をとる剣心と薫に、操は
        「気にしないで、続けてもいいのにぃ」と笑う。
        「ってゆーか、肝心なこと秘密にしている緋村のほうが悪趣味なんじゃないのかなぁ」
        「・・・・・・え?」

        操の発言に、薫は勿論反応する。
        「肝心なこと」とは―――いったい何のことだろう?

        「いや、それは別に秘密にするというわけではなくて、それこそわざわざ言う必要のないことでござるから、だから・・・・・・」
        「あたしは、それこそが薫さんが聞くべきことだと思うもん。あのね薫さん、緋村ってばさっき例の女のひとに誘われたとき―――もががががっ!」
        剣心は素早く操の背後にまわって三つ編みの付け根を捕まえると、もう片方の手で口を塞いだ。薫の頬に触れたときとはうってかわっての粗雑な扱い
        に、操は手のひらの下からもごもごと「扱いに差がありすぎるー!」と苦情を申し立てているようだが、くぐもった声は意味を成す言葉には聞こえない。薫は
        呆気にとられながらふたりの攻防を眺めていたが、とりあえず剣心に操を放すようにと言おうとして口を開きかけ―――
        しかし、薫が喋る前に、低く抑揚の少ない声が台所に響いた。



        「『拙者には心に決めたひとがいるから、そういう誘いは受けられないでござる』、だそうだ」



        明らかに剣心のものではないその声に、薫は驚いて振り向く。
        そこに立っていたのは、蒼紫だった。

        「茶菓子だ。さっき買ってきた」
        「あ・・・・・・ありがとうございます」
        長い腕をにゅっと突き出して、蒼紫は薫に菓子の包みを渡す。受け取った薫が剣心のほうに目をやると、彼の頬にみるみるうちに血がのぼってゆくところ
        だった。
        「そうなのよー!緋村にまとわりついてきたあの女のひと、結構しつこくてなかなか離れなかったんだけど、あの一言は効いたよね!あんぐり口あけてつ
        い緋村のこと離しちゃったんだもんね!」
        「ありゃあ面白かったよなぁ。言ってることの意味はわかるし、誘いに乗れない理由としちゃごもっともなんだけどよ、あの場面であんな大真面目に吐く台
        詞じゃねーよなー」
        どこから聞いていたのか、左之助がひょいと顔を出して操の尻馬に乗る。



        そして薫は理解した。
        剣心が「からかわれるのが嫌だ」と言っていたのは、美女に誘われたことについてではなく―――

        むしろ、この発言をからかわれるのを恐れていたのだ。



        「もう秘密を作りたくないって言うなら、あんな大事な台詞こそ、ちゃんと伝えておかなきゃでしょー」
        「おう、的確っちゃあ的確な答えなんだが、あの場面で言うには妙に的外れで、それがまた面白かったよなぁ」
        「・・・・・・操殿、いつから覗いてたんでござるか・・・・・・だいたい、面白いのは左之たちだけで、拙者はあの時はそれどころではなくて・・・・・・」
        剣心の手から逃れた操と左之助とが交互に彼をはやしたてたが、対抗する剣心の声は情けなく弱々しくて。剣心には申し訳ないけれど、薫はそれが可笑
        しくて、うつむいて口許を手で覆った。剣心はそれを見て何を勘違いしたのか、「薫殿、違うんでござるよ、拙者、秘密を作らないというのは本当に本心から
        で―――」となだめにかかってきた。その所為でまた笑いに拍車がかかり、薫は菓子包みを蒼紫に押しつけると身を翻して台所を飛び出した。

        「ちょ・・・・・・薫殿ー!!!」
        あわをくった剣心が、後ろ姿を追いかける。それを見て左之助と操が大爆笑し、蒼紫は包みを手に小さく息をつく。
        「なー、腹減ったんだけど。お茶とおやつまだか?」
        今度は弥彦が、ひょこっと台所に顔を出す。
        操は「ごめんごめん、いますぐ用意するから」と鉄瓶を改めて火にかけた。


        たっぷりからかってしまったぶん、美味しいお茶を淹れてやろうと思いながら。








        ★








        「・・・・・・薫殿?」


        自室に逃げこんだ薫の背中に、剣心はおそるおそる声をかける。
        「その・・・・・・すまない。言ったそばから信用を無くしてしまったのはわかっているが、でも、あの言葉は今回のことを報告するのには特に必要のないもの
        だと思って・・・・・・」

        薫が「嘆いている」と思いこんだ剣心は、必死で弁明を続ける。しかし薫としてはそれがまた嬉しくて、そして可笑しくて更に笑いが止まらなくなってしまう。
        「いや!もちろん『心に決めたひとが』という言葉は、軽々しく使ったわけではないでござるよ?!薫殿も承知であろうが、拙者は薫殿のことがいちば
        ん・・・・・・ええと、その、心に決めたというのはちゃんと、将来のことも考えて・・・・・・」
        もう駄目限界、と思った薫は、くるっと振り向いて勢いよく剣心の懐に飛びこんだ。演説の途中だった剣心は、無防備な胸に受けた突然の衝撃に「げふっ」
        と変な息をもらす。


        「・・・・・・嘘つき」
        「・・・・・・お、おろ?」
        「秘密は作らないって言ったくせに、肝心なこと言わないなんて・・・・・・嘘つき」


        すがりついてそう言う薫の声は、明らかに笑い声で。細い肩も、爆発しそうな笑いを抑えようとしてぷるぷる震えていて。
        そこでようやく剣心は、薫が悲しんで泣いていたわけではないことを理解して、ついでに今の「嘘つき」にこもったからかいの色にも気づいて―――

        「・・・・・・どっちが嘘つきでござるかっ!」
        「きゃーっ!やだーっ!ごめんなさいー!」
        思いきりくすぐられて、薫は悲鳴をあげた。とはいえあまり騒がしくすると他の皆にも聞こえてしまうので報復はほどほどにして、かわりに剣心は薫をぎゅう
        っと抱きしめる。腕のなかにきつく閉じ込められて、薫は心地よさげにため息をこぼした。
        「まったく・・・・・・心臓に悪いでござるよ。てっきり、薫殿に嫌われてしまったかと思ったでござる」
        「やだ、こんなことで嫌いになるわけないじゃない」
        「・・・・・・前にもしたでござるな、こんなやりとり」
        言いながら剣心は薫の頬に唇を押しつける。彼から与えられる熱っぽい感覚にはまだまだ慣れることができなくて、薫は鼓動が速さを増すのを感じながら
        目を閉じた。



        ・・・・・・ああ、そうだわ。
        剣心が隠しておきたかった気恥ずかしい台詞と、わたしが言わないでおこうと決めた、彼の着物の色の紐。
        これらはどちらも、同じ種類の「秘密」なのかもしれない。

        ただ、照れくさいからという理由で内緒にしておきたい、ささやかな秘密。
        もし、相手にばれてしまっても傷つくことはない、むしろ、ばれると嬉しくなるような秘密。

        今も袂に入っている、剣心の着物と同じ色の、赤い紐。
        あなたの目の届かないところで、あなたに隠れて使うけれど―――いつか、ばれてしまったとき、あなたはどんな反応をするのかしら。妙さんが言っていた
        ように、ひそやかな「お揃い」を喜んでくれるのかしら。



        しかしながら、腰紐を目にするには、当然帯をほどかなくてはならないわけで。
        帯をほどくということは、つまり―――



        「薫殿、真っ赤」
        すっかり血がのぼった顔を見て、剣心は笑った。頬への口づけの所為だと彼は思ったようだが、そこはあえて訂正することでもないので薫は黙っていること
        にした。
        「ねぇ、そろそろ皆のところに戻りましょうよ。お茶にしましょう?」
        あんまり長くふたりきりでいると、またしてもからかわれてしまうに違いない。剣心は薫の言葉に頷きながらも、「もうちょっと。さっき出来なかったから」と言
        って薫の唇に自分のそれを重ねた。

        いつか、あなたのために帯をほどくそのときにも、あなたはこんなふうに、強く優しく抱きしめてくれるのかしら。
        薫は口づけを受けながら、熱く麻痺してしまいそうな頭でそんなことを考える。






        「お茶がはいったよー!おやつにしようよー!」という操の声が、遠くからふたりを呼んでいた。











        あなたに内緒で 了。
          (もしくは、「艶色反応」掲載 「色は、匂へど。」へ続く)





                                                                                          2016.03.13








        モドル。