その反物の絹の手触りはうっとりする程心地よく、触れている指を離すのが惜しかった。



        地のところどころに奥ゆかしく咲くのは、白い桜。
        控えめに散らされた小さな愛らしい花柄もまた、薫の好みの意匠である。
        そして、一番惹きつけられたのは―――その、色だ。




        「剣心はんの着物と、おんなじ色やねぇ」




        隣に並んだ妙の言葉に、薫はこくこくと頷いた。








     あなたに内緒で     1








        その日は、神谷道場に滞在中の蒼紫と操、加えていつもの面々で東京の街に繰り出した。
        剣心と薫のふたりが京都から戻ってきて、剣心の腕の包帯も先日外れた。そのタイミングを見計らい、「みんなで遊びに行こう」と言い出したのは、勿論操
        である。
        よい天気の昼下がり、一同は葵屋の皆への土産の買い物と東京散策とを楽しんでいたが―――その途中、偶然妙と行きあった。

        「羽鳥屋さんに制服を頼みに行くところやねんけど、よかったら、薫ちゃんたちも一緒に見に行かへん?」
        羽鳥屋とは妙が贔屓にしている呉服屋で、剣心と薫も足を運んだことがある。ただし、それなりに値の張る良いものを扱う店なので、買い物をしたのは売
        り出しのときのみだった。
        呉服屋は若い娘にとっては胸がときめく場所ではあるが、ひやかしは少々心苦しい。しかし、新しい制服を注文するという妙のお供ならば、ぐっと敷居が
        低くなる。


        そんなわけで、一行は途中で二組に分かれることにした。妙と羽鳥屋に同行するのは、薫と燕。操はうんうん悩んだ結果、「蒼紫様と東京見物できる機会
        はなかなかないから」と、散策組を選択した。そして女性三名が向かった羽鳥屋にて妙が番頭と話をしている間、薫と燕は「よかったらご覧ください」と勧
        められた反物の数々を眺めて娘らしいため息をついていたのだが―――その中でひとつ、薫の心をとらえたのが、赤い絹地の反物だった。

        つややかな手触りと、地にちらほらと散った桜の小花模様。薫がその反物を膝の上に引き寄せてまじまじと見ていると、いつの間にか隣に来ていた妙が
        「剣心はんの着物と、おんなじ色やねぇ」と、少し驚いたような口調で言った。



        そう、反物の赤は、薫のだいすきなひとがよく身につけている着物と、そっくり同じ赤だった。



        赤、といっても様々な色合いの赤があるが、剣心の赤い着物は、夕焼け空の一番濃く染まったところを、さらに凝縮させたようなあたたかな赤だ。
        あるいは、秋の紅葉が見頃を迎えた頃の赤。くっきり鮮やかだけれど、大地の優しさも感じる、そんな赤。

        薫は剣心の姿と一緒に夕陽や紅葉のあざやかな様を思い浮かべながら、いやそんなふうに感じるのはさすがに惚れた欲目というものかしら―――と、ほ
        んのり頬に朱をのぼらせた。
        道場に居ついてからの剣心は薫の亡父の着物も身につけているが、自前の赤い着物との付き合いも流浪人の頃からずっと続いている。年季は入ってい
        るもののまだ生地は草臥れていないし色も鮮やかだし、今日の外出にだって彼はあの着物を着ていたし、つまり―――



        「これで着物を作ったら、剣心さんとお揃いになりますね」



        燕の声に、薫の胸がとくんと高鳴った。
        彼の着物は木綿で、こちらの反物は絹。素材ゆえの質感の違いはあるが、それでもふたつの色はそっくりだ。

        この反物で仕立てた着物を着たら、どんな感じだろうか。
        袖を通せば、常に目に入る彼の色。いや、視界に入るだけではなく常に彼に包まれているように感じるのだろうか。
        それに、お揃いとはなんとも心ときめく言葉である。夫婦茶碗や湯呑みのように揃いのものを互いに身近に使うのは、余程近しい間柄でなければできない
        ことだ。


        「この色、薫ちゃんにも似合いそうやねぇ。夫婦でお揃いを着て歩くなんて、素敵やないの」
        薫は、妙の言葉に頷きながらうっとりとその様子を脳裏に描いてみる。
        剣心とわたしと、京都でそうしてもらったように彼に手をひかれて。並んで歩くふたりは、そっくり同じ色の着物を身にまとって―――
        「・・・・・・って、ちょっと待って妙さん!それってかなり恥ずかしくないですか?!だいたい、わたしたちまだ夫婦になったわけじゃ・・・・・・」
        「まだってことは、じきになるってことやないの?」
        「こっ、言葉の綾です今のは!とにかく、この反物は素敵だけれど、恥ずかしいものは恥ずかしいわよー!」
        「でもほら、剣心はんってもてるわけやし、こういうところで牽制しておくにこしたことは・・・・・・」
        「嫌よそんな見せびらかすようなことー!それに第一・・・・・・」
        薫は、そこでばっと首を巡らせて、脇に控えていた番頭に「すみません!」と声をかけた。
        「こちらの着物、おいくらですか?!」
        薫の問いに、番頭は「はい、お仕立て代をいれて、このくらいかと」と、算盤をはじいて見せる。

        「ほらっ!」と薫が盤を指差すと、妙は「あらぁ・・・・・・」と感嘆の息を漏らし、燕は「ひゃっ!」と息を飲んだ。
        つまり、そのくらい立派な値段が、そこには示されていた。

        「ほらねっ、いくら素敵でも、わたしにこんな高価な着物は買えません!」
        ばしりと言い切った薫だったが、次の瞬間には「店の者を前にしてこれは失礼か」と気づき、慌ててすみませんと謝った。しかし番頭は気を悪くしたふうでも
        なく「とんでもないことです」と笑って算盤を引っ込める。



        「しかし、その色をお気に召されたなら、こういう品もありますよ」
        番頭は、そう言って別の「商品」を薫の前に差し出した。








        ★








        「ええ買い物やったやないのー」


        ありがとうございましたの声を背に、三人は羽鳥屋を後にした。妙はうふふと笑って、薫の肩をちょんとつつく。
        「本当に、あの反物とそっくりな色でしたね」
        まるで、自分がよい買い物をしたかのように嬉しそうな燕の声に、薫は照れくさげに肩をすくめる。



        薫の手元にあるのは、小さな包み。
        番頭にいかがでしょうかと勧められて思わず購入したそれは、あの反物と同じ色の、つまりは剣心の着物とそっくり同じ色の―――「紐」である。



        帯の下で着物を押さえる腰紐を、薫は買い求めた。それなりに値が張るものを多く扱う羽鳥屋でも、着物を身につける際の脇役である小物には、気軽に
        手を出せる値付けがされてた。
        やわらかな素材で作られたその紐は、腰紐にしてはめずらしいくっきりとした赤色で、それが三本組になって売られていた。と、いうことは、襦袢の腰を締
        めるのと、着物の腰に結ぶのと胸元を押さえるのと―――すべて色を揃えて着付けることができる。人の目には触れない箇所での、隠れた小さな「お洒
        落」といえよう。

        白い糸で、端にちいさく刺繍を入れようかな。お花とか、千鳥とか。
        包みを胸に押しあてながら、薫はうきうきとそんなことを思っていた―――が。
        「お揃いなんて、剣心はんも喜ぶやろうねぇ・・・・・・紐やから、使うのは見えないところやけど」
        「え・・・・・・?」
        妙の言葉に、薫は大きな目をぱちくりと瞬きさせ、そして「やだっ、剣心には内緒にするに決まってるじゃない!」と慌てて首を横に振る。
        「え、言わないんですか?剣心さんに」
        「言わないわよー!だってなんか・・・・・・なんか、恥ずかしいもん・・・・・・」
        しゅわしゅわと顔に血を上らせて、視線をつま先のあたりに落とした薫を見て、妙と燕もすこし考えてみる。そして―――「それもそうか」とうんうん頷いた。



        他人の目が決して触れないところに、好きな相手の色をまとう。
        襦袢の上に、腰に胸元にこっそりと。でもほどけないよう、しっかりと。
        それはまるで、好きなひとの腕が袖が、常にそこにあるような。いつもその腕で包まれているような。

        この紐を身につけると、きっとふとしたことでそんな想像をしてしまうだろう。
        そんなことを、彼に知られてしまうのは―――はっきり言って、恥ずかしい。



        「内緒にしておいたほうが、よさそうですね・・・・・・」
        「でしょう?」
        「そうやね、剣心はんかて秘密があったんやし・・・・・・薫ちゃんがそんな可愛い内緒ごとのひとつくらい作っても、バチはあたらへんよ」

        燕の台詞に続いて、妙はごく自然な調子でさらりと言った。
        だから薫も普通に頷きそうになったが、ふと、秘密という単語が耳にひっかかった。
        隣を歩く妙を見上げると、彼女は「しまった」というふうに口に指を当てている。
        「あの、堪忍ね薫ちゃん。今のは、特に深い意味はなくて・・・・・・」
        「・・・・・・え?いえ、あの・・・・・・秘密って、何が?」
        剣心の何を指して秘密というのかがわからなくて、また妙の謝罪の意味もわからなくて、薫は首を傾げる。妙は薫の素直な質問に困ったように視線を動か
        したが―――結局、ごまかしきれずに、言いづらそうに口を動かした。


        「その、剣心はん・・・・・・秘密にしてはったやろ?薫ちゃんに、昔あったことを」


        薫はぱちぱちと睫毛を上下させ、ああ、その事かと納得する。
        「確かに・・・・・・それにくらべたら、こんな秘密可愛いものよね」
        そう答えた薫の声は明るくて表情は曇りのない笑顔で、妙はほっとしたように肩の力を抜く。そこを狙ったように、薫は「次にご飯食べに行ったときは、豆
        茶をおまけにつけてほしいなぁ」と悪戯っぽくつけ加えた。妙はむしろそれに救われたように、「牛乳もたっぷり入れとくわ」と頷いた。












        じゃあまたと言って妙と燕と別れたのち、薫はあらためて、先程の妙の台詞を頭のなかで反芻する。


        昔あったことを、「秘密」にしていた剣心。
        いや、しかしあれを秘密と呼べるのだろうか?ただ、昔あったことを、なかなか皆に告げられなかったというだけで。だって、あの過去は告白するほうもされ
        るほうも、相当の覚悟を要する内容だったわけで。

        第一、ひとの過去にはこだわらないと最初に言ったのはわたしなのだし。
        言いたくない過去のひとつやふたつあっても当然と、剣心に逢って間もない頃。ほんとうに間もない頃に、そう言った。


        その頃のことを思い出して、薫はひとり道を歩きながらふんわりと頬をゆるませる。出逢ったばかりのあの頃に比べて今は、剣心にずっと近い存在になっ
        ていることが、くすぐったくて嬉しかった。
        そうだ、彼の過去の話は、語るほうにも聞くほうにもかなりの覚悟と信頼が必要な話だった。そしてわたしは彼の過去を知った後も、変わらず彼のことが好
        きだった。他の皆も、彼から離れようとは考えなかった。

        根拠はないけれど、もし雪代縁の一件が起きなかったとしても、剣心はいずれ折を見て、自分の過去について話してくれたような気がする。
        何故だと問われても困るけれど、剣心の生真面目な性格から想像するに、昔のことを話さないでわたしとずっと一緒に暮らしてゆく事は彼自身が許さない
        ような―――っていやいやいや、わたしはまだ剣心に求婚されたわけではないんだけれど。いやでもこの前京都で拙者の未来はぜんぶあげるって言って
        くれたしあれはどう考えても将来の約束というか―――




        「薫殿ーーーー!!!!!」




        と、突然名前を呼ばれて我に返る。

        頬にぽーっと血をのぼらせて、あれこれ考えるのに夢中になりながら歩いているうちに、いつの間にか薫の足は道場の門の前にさしかかっていた。呼ば
        れる声がなかったら、ぼうっと思索にふけったまま自宅の前を通り過ぎていたかもしれない。
        「よかった、剣心が声をかけてくれて」と感謝しつつ薫はふりむいた。薫のまわりであの敬称を使うのは彼しかいないし、薫が剣心の声を聞き間違えるわ
        けもない。ああ彼もちょうど今帰ってきたのねと思い「おかえりなさい」と言おうとして―――ぎょっとした。






        振り向いた薫の目に入ったのは、こちらにむかって凄い勢いで走ってくる―――いや、突進してくる剣心の姿だった。













        2 へ続く。