甘い夢を見ている
夢を、見てしまう。
君のそばにいると、許されるはずのない、甘い夢を。
歌声が、聞こえたような気がした。
弥彦と薫に続いて最後に風呂をつかった剣心は、居間の襖の前で、ふと足を止めて耳をすます。
ほんの僅かに耳に届いた、小さな、やさしい歌声。
今のは、きっと―――
「薫殿?」
襖を開けると、目に入ったのは、畳の上に大の字になった弥彦の姿。そして、その隣で肘枕をついている薫。
湯上りで、洗い髪をおろしたままの彼女は、悪戯めいた表情を浮かべながら、唇の前で人差し指を立てて見せる。
「・・・・・・眠ってしまったのでござるか?」
「うん、よっぽど疲れたのね」
「そうしていると、親子みたいでござるなぁ」
「えぇ? やめてよー、いくらなんでもこんな大きい子供はないわよー」
せめて姉弟みたいって言ってよね、と薫は苦笑する。その彼女に倣って、剣心も弥彦の隣に肘をついて横になった。
今日、弥彦は薫の出稽古先について行ったあと、そのまま向こうの道場の子供達と川遊びに出かけた。
日が落ちる頃、袴の裾をびしょびしょにして芯まで冷えきって帰ってきた弥彦は、「風邪をひいたらどうするの」と、呆れ声の薫によって風呂に放り込ま
れた。そうしてすっかり温まった後、夕飯にありついて腹がいっぱいになったら、今度は睡魔が襲ってきたらしい。
「普段は憎たらしいことばっかり言ってる子だけど・・・・・・こうして見てると、かわいい顔で寝るものねぇ」
「年相応、といったところでござるな」
剣心と薫は、顔を見合わせて笑う。
弥彦を起こさないように、こっそりと。
「でも、よかった」
「ん?」
「弥彦、もっと同じ年頃の子と遊んでもいいと思わない?」
「ああ、それは同感でござる」
早くに父を亡くし、母とも死に別れた弥彦は、独りで生きるため急いで大人にならなくてはいけなかった。
悪い大人たちに囲まれていた頃は、他人の懐中を狙って生活をしていた。
しかし今、弥彦の周りにいる大人たちは、皆きちんと弥彦を叱ったり心配したりしてくれる者たちばかりだ。だからもう弥彦は、無理をして大人になること
はない。友達を作って沢山遊んで、そんなふうに子供らしい時間を取り戻すのに、遅すぎるということはないだろう。
「由太郎くんが外国に行っちゃったのは残念だけれど・・・・・・こうして他の道場の子とも、どんどん仲良くなってくれるといいな」
遊び疲れて寝ちゃうくらいにね、と、薫は弥彦の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「薫殿」
「ん、なぁに?」
「さっきのは・・・・・・子守歌でござるか?」
そう、襖に手をかけようとしたら、すぐに消えてしまった、小さな歌声。
ほんの少ししか、聴くことはできなかったが―――
「やだ、聞こえてたの?」
薫は恥ずかしそうに俯いた。
「わたしがお風呂からあがってきたら、弥彦がうつらうつらしていたものだから・・・・・・面白半分に、歌ってあげようかって・・・・・・」
弥彦は「うざったい!」「赤ん坊じゃねーんだから」と迷惑がったが、はねつけるのも面倒なほど眠かったのだろう。薫が子守歌を口ずさみだしても、それ
以上文句は言わなかった。と、いうより歌いだすのとほとんど同時に、眠りに落ちてしまったのだ。
「やっぱり薫殿、お母さんみたいでござるな」
先程苦笑されてしまった感想をもう一度口にすると、薫は照れくさそうに「だから、違うってば」と、唇を尖らせた。
「そんなふうに言うんだったら、今のわたしたちこそ、親子みたいじゃないの」
「え?」
「ほら、子供を真ん中に、川の字になってる」
「あ」
「剣心が、お父さんね」
声を潜めるようにしてくすくす笑う薫に、剣心はくすぐったいような気持ちになる。
お父さん、だなんて。
そんなの、流浪人の自分には、とても縁のない呼称で。
「薫殿」
「んー?」
「歌って欲しいでござるな」
「え?」
「子守歌」
薫はぱちぱちと数回まばたきを繰り返して、そして慌てたように首を振った。
「や、やだやだっ! 却って弥彦が起きちゃうわよっ!」
「小さい声でなら大丈夫でござるよ、ほら」
ちゃんと聞こえるように、と、剣心は肘で歩くようにして薫にぐっと顔を近づけた。
「・・・・・・でも、別にそんなに上手なわけでもないし」
「弥彦には歌って聞かせたのに、拙者にはダメなんでござるか?」
「う」
思いがけず食い下がられて、薫は言葉に詰まる。
そして、観念したように息をついた。
「じゃあ・・・・・・ちょっとだけ、ね?」
「うん」
馴染みのない、近すぎる距離に剣心の顔があるのが気になって、薫は目を伏せる。
珊瑚色の唇が、小さく歌を紡ぎだす。
そっと、囁くような歌声。
扇の形を描く薫の睫を眺めながらそれを聴いていた剣心は、心地よさに思わず目を閉じた。
この距離でないと聞こえないくらいの、微かな声はとても優しくて。
耳朶に届いて、身体の奥までしんしんと染み入るようで。
このまま眠ってしまいたいな、と。ぼんやり考える。
このままこの歌を聴きながら眠れば、きっと良い夢が見られそうだ。
いや―――むしろ、もう夢なら見ている。
ここにいると、彼女の傍にいると、許されるはずのない、甘い夢を見てしまう。
旅暮らしに別れを告げて、この地から離れずに。彼女の傍でずっと過ごせたら―――と、いう夢。
過去にはこだわらないと言ってくれた薫。
実際、人斬りの顔を垣間見た後も彼女は、変わらず自分に笑いかけてくれた。
出来ることなら、何もかも打ち明けてしまいたい。
この少女に、過去のことを、何もかもを。
そして、いつか、彼女と・・・・・・
様々に思いを巡らせていると、やがて子守歌が耳から遠くなってゆく。
反比例するように、浮かび来るぼんやりとしたイメージ。
子守歌、「お父さん」、家族、彼女となら、ずっと、一緒に―――
がくん―――と、衝撃。
一瞬、何が起きたのか解らなかった。
目の前、というより視界の上のほうに、呆気にとられた薫の顔。
そして剣心は、自分が子守歌を聴きながらうっかり眠ってしまい―――肘枕を崩して、畳に頭をぶつけた事を理解する。
「・・・・・・・・・」
薫の肩がぷるぷると震えだす。
顔を隠すように背けているが、頬が真っ赤になっているのがわかる。
「・・・・・・薫殿、そんなに笑わなくても・・・・・・」
「だ、だって、まさか剣心、ほ、ほんとに寝ちゃうなんて・・・・・・」
畳に落っこちた姿がよっぽど間抜けだったのだろう。必死に堪えながらも笑い声が漏れ出てしまっている。
剣心は改めて肘を突きなおし、もう一度薫に顔を近づけた。
「薫殿・・・・・・あんまり賑やかに笑っていると、弥彦が起きるでござるよ?」
「あ、あははは、だって・・・・・・」
「薫殿」
すっ、と。剣心が手を伸ばす。
唇に触れられて、薫の笑い声が、途切れた。
「・・・・・・剣、心?」
「しーっ」
指先が、ゆっくりと唇をなぞる。
声をせき止めるように、押しつけて。
柔らかさを確かめるように、そっと撫でて。
「弥彦が、起きるといけないから・・・・・・黙って」
もう一度、念を押すように囁く。
唇をくすぐる指を、そのまま小さな頤に滑らせ、ほんの僅かに力をこめる。
笑うどころか声を出すことも忘れてしまったような薫が、剣心を見つめる。
前髪と前髪が触れあったのを合図にしたように、薫は目を閉じた。
その睫毛が震えているのを見て、剣心はああ可愛いなと心の中で呟く。
彼女の体温も吐息も心も、全てを直に感じたくて、そのまま、唇を重ねようとした、その時。
「う―――ん・・・・・・・・・」
川の字の真ん中に寝そべる弥彦が、突然、大きなうなり声をあげた。
ばっ、と。
驚いたふたりは、弾かれたように距離をとった。
「んー・・・・・・ははうえ・・・・・・」
そう、寝言をいいながら、弥彦はぱたりと寝返りをうつ。
ちょうど、剣心のお腹のあたりに、すがりつくような格好で。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
一瞬の、沈黙。
その後、先程の再現のように、またしても薫が肩を震わせはじめた。
「ふ、ふあ、あはははははは」
「・・・・・・かおるどの・・・・・・今度こそ弥彦が起きるでござるよ・・・・・・」
「ご、ごめん、だって弥彦ってば・・・・・・せめてわたしのほうに転がればいいのに、け、剣心に母上って・・・・・・」
甘やかな空気は瞬時に霧散して、薫は今度こそ我慢できないというふうに畳に突っ伏し、くつくつ笑い出す。
剣心はそんな彼女を眺めながら、大きくひとつ息をついた。
「・・・・・・寝かせてこようか」
「あ・・・・・・お、お願い。弥彦の部屋、さっき布団敷いてきておいたから・・・・・・」
「承知したでござる」
赤ん坊のように身体を丸めて眠る弥彦を肩に担ぎ上げて、薫の笑い声を背中に聞きながら、剣心は居間を後にする。
弥彦を部屋まで運んで、布団に寝かせて、そして。
「・・・・・・惜しかった」
廊下の壁に背中をついて、思わず独り言をこぼす。
惜しかった。
惜しかった。
惜しかった。
でも。
「いや、むしろ・・・・・・危なかった、か」
あのまま、触れてしまいたかった。
あのまま想いに任せて、唇に触れて、抱きしめてしまいたかった。
けれど、そうしたらきっと、もう歯止めはきかなくなる。
そうしたらきっと、もうこの場所から、彼女の傍から離れられなくなる。
「そんなの許されるはず、ないのにな」
わかっているはずなのに、夢を見てしまう。
罪咎人には許される筈のない、甘い夢を。
指先に残る、あたたかな唇の感触。
甘い余韻は痛みとなって、剣心の胸を苛んだ。
モドル。