こういうのを、「タガが外れる」と言うのだろうな、と思う。
その夜、おやすみなさいを言いに部屋に顔を出した薫を捕まえて、ひっぱりこんで抱きすくめて、そのまま布団の上に押し倒した。
彼女は素直に―――というか、何が起こったのかわからない様子で組み敷かれて口づけを受けていたが、深く求められながら薄い夜着を肩からずり下
ろされたところで流石にこちらの意図を理解したらしく、慌てたように下から胸を押し返してきた。
「ちょ・・・・・・剣心、だめ・・・・・・」
「どうして?」
「だって、今日は、弥彦が・・・・・・」
うん、確かに。
今日はふたりきりではない。同じ屋根の下には、横浜から帰ってきた弥彦がいる。彼女としては、それが気になるのだろうが、でも。
「もう寝ているでござろう、大丈夫、聞こえぬよ」
「でっ、でも!」
「嫌?」
途方にくれる彼女の耳に唇を押し当てる。呼吸で言葉を紡ぐように囁きながら、帯をゆるめて袷を開いた。
露になった素肌の白さに、つい見とれる。
改めて、綺麗だなと思う。
こんなに綺麗でやわらかで優しい存在が、自分のものになったんだな、と。
―――あの時、ふたりで過ごした京都の夜。片腕のまま彼女を抱くのは嫌だったから、治るまでは手を出さないと心に決めて。
しかし、いざ治ってもこの家ではなかなかふたりきりにはなれなくて―――ようやく先日、弥彦が訳あって横浜に向かった夜、初めて薫を抱いた。
そして、なんとなく予感はしていたが、一度触れてしまうと、それはもう簡単にタガは外れた。
一度触れてしまうと、一度彼女の甘さを柔らかさを知ってしまうと、もう我慢なんてできる筈がなかった。
遠慮なく注がれる視線に耐えかねてか、薫はぎゅっと瞳を閉じて、顔を背けるように首を横に倒す。
羞恥にみるみるうちに肌が桜色に染まってゆく様子は、初々しいのと同時に、ひどくなまめかしい。
「ぁ・・・・・・」
唇から零れる甘い声をもっともっと聞きたくて、彼女の感じるところを探りながら、肌にゆっくりと手のひらを這わせる。
はじめての夜に、その細さに驚いた腰の線をなぞり、耳朶を吐息でくすぐるように、もう一度問う。
「・・・・・・嫌?」
腿の内側に、指をすべりこませる。
いちばんやわらかいところに触れると、円い肩が怯えたようにびくりと震えた。
少し、顔を上げると、泣きそうに潤んだ瞳と目が合う。
「・・・・・・嫌じゃ、ないよ・・・・・・」
揺れる、声。
おずおずと下から手が伸ばされ、細い指にすがりつかれる。
恥じらいながら、躊躇いながらではあったが、それは確かな受諾のしるし。
そこから先は、まぁ何というか、我を忘れた。
★
朝、目が覚めて、軽く混乱した。
何故なら、そこが自分の部屋の布団の中だったからで―――いや、普段ならそれは当然のことなのだけれど。
でも、昨夜は。
おやすみなさいを言おうと思って剣心の部屋をのぞいたら突然捕まえられて、ひっぱりこまれて抱きすくめられて、そのまま布団の上に押し倒されて
―――そこから先を思い出し、頬にぼわっと血がのぼる。
い、いやいやいや、でも今こうして自分のお部屋にいるってことは、あれは夢だったのかしら?
そうよ、だって昨夜は弥彦もいたというのに、それをお構いなしに剣心があんなことをするわけが―――
そこまで考えてから、ふと、夜着の襟元に手をやってみた。
きっちり過ぎるくらい深く重ね合わされた袷に指をかけ、寛げる。
胸元に散った、赤い痕が目に入る。昨日まではなかった、彼につけられたしるしが。
―――夢じゃ、なかった。
それに確かに、目に見える痕以外にも、えーと、なんというか・・・・・・余韻が、身体に残っているし。
つまりは、夢じゃなく、あんなこと―――された、みたいだ。
きっと、昨夜あの後眠ってしまったわたしに、彼が寝間着を着せてくれて部屋まで運んでくれたのだろう。そうよね、だって、朝になってふたりで一緒の
部屋から出てくるところを弥彦に見られたりしたら、ちょっと・・・・・・うん、よくないわ。それはきっと教育上よくない。
そうなると、剣心に感謝しなくては。
まず、眠っているわたしに寝間着を着せるのだって、結構な手間だっただろうし。でも。
もう一度、視線を胸元に落とす。
昨夜、彼の唇がそこにあったことを示す赤いしるしを、指先で辿ってみる。
「いつから・・・・・・ひとりだったのかしら」
初めて抱かれた翌朝は、弥彦がいないのをいいことにふたりで朝寝を決めこんだ。と、いうか、いいかげん起き出そうとすると剣心が「もう少しこのまま
で」と言って脚を絡めてきて、身体全体で拘束されて動けなくされた。
ただ、何をするでもなく、身体をくっつけあったまま、ぼんやりと時が過ぎるのを感じていた。
ただ、そうしているのが、とてもとても幸せだった。
けれど今朝は、目が覚めたらひとりきり。
いつもなら、それは当たり前の朝なのだけれど、でも―――
★
わかっている、後悔をするくらいなら最初からあんなことしなければいいのだ。
それはわかってはいるのだが―――わかってはいても、情けないことに自分に歯止めをかけられなかった。
弥彦がいるから今日は駄目だと言われたのに、そこを押し切って彼女を抱いた。
最終的には「嫌じゃない」と言ってくれたものの、あれは半ばあの場の空気で自分がそう言わせたようなものだ。
そんなわけで―――翌朝、薫と顔を合わせるまでの緊張感といったらなかった。
「おはよう・・・・・・」
気もそぞろで朝食の支度をしていると、彼女が台所に入ってきた。挨拶の声が、いつもより若干控えめに聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。
こちらもつられて遠慮がちの音量で「おはようでござる」と答える。
「あの・・・・・・ありがとね、剣心」
「・・・・・・へ?」
続く声で礼を言われて、つい間の抜けた返答をする。いや、だってこちらとしては、昨夜の無体を怒られることを覚悟していたのに。
「わたしが寝ている間に、お部屋に運んでくれたんでしょ? だから、ありがとう」
手にした前掛けをもじもじと弄びながら言う彼女の頬は、既に赤くなっていた。
「ああいや、別に、そのくらいのことは・・・・・・」
そう、昨夜彼女が疲れきったように眠りに落ちてしまってから、我に返って。流石に、弥彦が家にいるというのに、翌朝同じ部屋から揃って出て行くのは
いかがなものかと思い、寝間着を着せて抱きかかえて自室へと運んでやった。
情事の余韻に、抱き上げた身体はまだ熱くて、睫毛に残った涙の粒が燈台のほのかな灯りにきらきら光って―――朝まで抱きしめていたいのが正直
なところではあったが、それは贅沢というものだろう。
何にせよ、彼女が怒っていなくて、よかった。でも―――
「それより、すまない、薫殿」
「え、何が?」
不思議そうに、首を傾げる。何故謝られたのか、本気で判らない様子で。
「いや・・・・・・弥彦がいるときに、あんなこと嫌だっただろうに、その、無理矢理・・・・・・すまなかった」
「あんなこと」の内容を思い出したのか、彼女の頬がますます赤くなる。しかし、紅潮した顔のまま、薫はぶんぶんと首を横に振った。
「い、嫌じゃないよっ! 昨夜も、嫌じゃないって・・・・・・わたし、言ったでしょ?」
そして彼女はちらりと後ろに視線を走らせる。弥彦の気配がないことを確認したらしい。そして、やはり前掛けを揉み絞るように指を動かしながら、ためら
いがちに続けた。
「そりゃ、弥彦がいる日にあんなことすると思わなかったからびっくりはしたけれど、嫌ってことはなくて、っていうか・・・・・・」
と、彼女は手の中で丸めたり引っぱったりしていた前掛けを取り落とした。ぱさりと床に落ちたそれを拾おうを半ば反射的に屈んだら、同様に膝を折った
薫と、前掛けの上で手が触れ合った。
少し前だったら、ふたり同時にぱっと手を退けたところだろうが、今日はそうはしなかった。触れた手を重ねて、細い指をそっと握る。
すると彼女は、下に落としていた視線をふっと上げた。
大きな瞳がこちらを見つめている。唇が、ふるりと動いた。
「あのね、わたし、まだ恥ずかしいし、どうしていいのかも、よくわからないんだけど・・・・・・ちょっとずつ覚えていく、から・・・・・・だから」
語尾はどんどん小さくなって、そして最後に消え入りそうな声で「・・・・・・よろしくおねがいします」と締めくくられた。
・・・・・・うわぁ。
彼女は別に誘っているわけでも何でもなく、むしろ本心からこちらを気遣って言っているんだろうけれど―――
あああ、もう。それこそ、弥彦がいなかったら朝食の支度など放り出して、このままこの手を引っ張って布団に逆戻りしているところだ。
そんな衝動を無理矢理抑え込み―――彼女の手を取って立たせ、しわくちゃになった前掛けを渡してやる。
「・・・・・・うん、承知つかまつったでござる」
返す言葉は、やはり何とも間が抜けていた。薫はほっとしたような表情になって、はにかみながら笑った。
その、迷いなく注いでくれる信頼に満ちた眼差しに甘えて―――きっと俺はまた、彼女をめちゃくちゃにしてしまうのだろう。
きっと―――また、今夜も。
★
流れは、昨夜とまったく同じだった。
少し違っていたのは、剣心もわたしの部屋に向かおうとしていたらしく、今夜は彼の部屋の前の廊下で捕まえられた。
抱きしめられた瞬間、殆ど反射的に身を硬くしてしまい―――だって、しょうがない。本当にまだこういうふうにされるのに、慣れていないのだから―――
それを感じた剣心が、やはり昨夜と同じように「嫌?」と囁いてきた。
「嫌、じゃない、けど・・・・・・でも」
「でも?」
こうされるのは、嫌じゃない。
そりゃ、まだめちゃくちゃ恥ずかしいし、一体どんなふうに振舞えばいいのかもよくわからないし、もう全く痛くないといったら嘘になるけど―――でも、そ
ういうことは全然嫌じゃない。それどころか―――すごく、嬉しい。
だって、剣心に抱かれている間って、ずっと彼から「好きだ」と語りかけられているみたいに感じるんだもの。
なんていうのか、言葉以上の、何かで。
ひょっとしてこういうのが「愛されている」っていう事なのかなぁって、そう思う。
剣心にも同じ様に、わたしの「好き」が伝わるといいなって思うから。だから、彼に求められるぶん、わたしもちゃんと、応えたいなって思う。
でも―――
「でも、何でござる?」
「・・・・・・ううん、なんでもないの、たいした事じゃないのよ」
「気になるでござるよ」
「ほんとになんでもないから・・・・・・ね、お部屋、行きましょうよ」
あんまり長いこと廊下で喋っていたら、弥彦に聞こえてしまうかもしれない。
せっかく、今まであの子に気づかれないように気をつけてきたのに。それこそ、何度も「邪魔」に入られたお陰でかなり辛かった、なんて剣心も言ってい
たくらいで。その「努力」がここで水泡に帰すのもどうかと思って、わたしは剣心の腕を解いて自分から彼の部屋に向かおうとした。しかし、襖に手をかけ
るまえに、後ろから再び抱きすくめられる。
「剣心?!」
声が、揺れる。
彼の右手が、するりと寝間着の袷に滑り込んだ。
「やっ・・・・・・」
肌に、直に彼の指の感触。
こうされるのは、嫌じゃない。でも、こんなところでは、嫌だ。
「っ、あ!」
彼の指が胸の上で動いて、抑えられない声がこぼれる。
足から力が抜けそうになるのを堪えながら、必死に身を捩った。足元の床が軋んで、小さく音をたてる。
「剣心、だめ・・・・・・」
「駄目?」
「だって、こんなところじゃ・・・・・・弥彦に、聞こえちゃう・・・・・・」
「じゃあ、黙って」
「っ・・・・・・!」
ぐい、と身体を反転させられた、と思った途端、唇を塞がれる。
きしり、と。またひとつ床板が軋んだ。
もみ合っているうちに、いつの間にか寝間着の帯は緩んで―――このままでは、ここで裸にされかねない。
「お願い、ここじゃ、嫌っ・・・・・・」
唇を重ねたまま、必死で言葉を紡ぐ。
自分の声が、泣きそうになっているのにようやく気づく。
「ここじゃなければ、いい?」
「あっ、ま、待って・・・・・・!」
「ねぇ、薫」
襖に、身体を押しつけられる。彼はわたしを抱いたまま、片手で反対側の襖の持ち手を探った。
するりと半分だけ、襖が開いて、そこに押し込められる。足に、畳の感触。もう数歩後ずさると、布団を踏んだのがわかった。
「きゃ!」
ぐい、と下に引っ張られるようにして、膝が崩れる。そのまま、ふたりで布団の上に倒れこむ。
「ねえ」
はずみで閉じた瞳を開けると、すぐ近くに彼の顔があった。
「何が、嫌なの?」
問いながら、彼は身体を重ねてくる。もう殆ど役目を成していない寝間着の帯が、取り去られた。
わたしは彼の問いに答えるかわりに、腕をのばしてぎゅっと首に抱きついてやる。
露わにされた肌を、剣心の指が、舌が、唇が辿る。
だんだんと刺激が強くなる愛撫。きっと彼は、既に質問の答えを求める気は失せているだろう。
・・・・・・よかった。だって、こんなこと言えないわ。
朝、ひとりで目覚めるのが、寂しくて嫌―――だなんて。
それに、目覚めてひとりきりだと、前の夜にあったことはすべて夢だったんじゃないか、って思ってしまうし。
こんな、剣心にこうやって身体ごと愛されているってことが今でも信じられなくて。こうしている今でも夢みたいなんだもの。
でも、朝まで抱きしめていてほしい、なんていうのはきっと贅沢なお願いだわ。
そんなことして、もし弥彦に見咎められたりしたら―――
「力、抜いて」
「・・・・・・ぁ!」
そこから先は、何も考えられなくなった。
叫びに近い声があがりそうになった口を、剣心の手で塞がれる。
「本当は、声も聞きたいんだけどなぁ・・・・・・」
残念そうに呟く声は、かろうじてわたしの耳に届いた。
―――もういいや、明日の朝の寂しさとか夢かと疑う不安とか、そういうのはひとまず全部棚上げにしよう。
だってここから先はもう、彼のことしか考えられなくなって、彼のこと以外感じられなくなるのだから。
今はただ、このまま。
ひとつになったままぜんぶ溶け合ってしまえるくらい―――思い切り彼に甘えよう。
おまけ 了。
モドル。 もしくは、「ひとりじゃないから」 へ 続く。
2013.05.31