7 そして、約束の続き









        実のところ、剣心が傍にいては着物を直すことはできないのだが、何かを言いたそうな彼と早くふたりきりになるために、一緒に部屋まで来てもらった。
        薫の判断は正しかったようで、襖が閉められて案内してくれた女中の姿が見えなくなるなり―――剣心は、薫に謝った。



        「・・・・・・すまない、薫殿」



        剣心の性格からいって、彼がこの場でこう言うであろうことは、なんとなく予想していた。
        けれど薫はあえて、「どうして剣心が謝るの?」と尋ねてみる。
        「拙者があんな近くにいながら、みすみす薫殿をあんな目に遭わせてしまって・・・・・・本当に、すまない」

        結局、薫と環は無事だったのだが、それでも剣心は忸怩たる思いを消せなかった。
        環の良人が目覚めたことに気を取られていたとはいえ、あれだけ近くにいながら、異変にすぐに気づかず薫が連れ去られるのを許してしまったのだ。薫
        に危害が加えられる前に、千鳥荘に駆けつけることができたからよかったものの、剣心は自分の油断を責めずにはいられなかった。

        薫に対する申し訳なさと、自分自身に対する口惜しさに剣心はうなだれる。
        薫はそんな彼を黙って見つめていたが、やがてゆっくりと彼に向かって手を伸ばし、そして、


        「こら」
        ぺち、と。軽く、その頬を叩いた。

        「見くびらないでよ、あなた、わたしを誰だと思っているの?」
        ため息混じりに言われ、剣心は目を白黒させる。薫はもう片方の手のひらも彼の頬に添え、ぐい、と顔を自分の方に向けさせた。


        「ちゃんと見えてる? わたしは誰?」
        「・・・・・・神谷薫、でござる」
        「そうよ、あなたの知っている神谷薫はそんなにやわな女の子? 違うでしょ、無鉄砲で乱暴者で、じゃじゃ馬で跳ねっ返りなのがわたしでしょ?」

        それは主に弥彦から投げつけられる悪口だったが、薫は自分から大真面目でそう言った。驚いたような顔で薫を見ていた剣心は、ふわりと表情をゆるま
        せて、彼女の台詞に付け加えた。
        「勇敢で芯が強くて、凛としているのが、薫殿でござる」
        薫は僅かに頬を染めつつ、「・・・・・・じゃあ、わかっていると思うけれど」と、続けた。

        「あなたが知っているわたしは、悪い奴に捕まっても、怯えて泣きながら助けを待っているだけの女の子じゃないでしょう? 思い出してみてよ、今までだ
        ってそうだったじゃない」
        「・・・・・・うん、そうでござった」


        そうだ、薫は、ただ助けられるばかりの娘ではない。なんとなれば、剣を取って自分の身を守れるし、誰かを守ることもできる娘だ。そしてこれまでも、薫
        はどんな敵の前でも常に気丈に振るまっていた。そんな健気な「強さ」も、剣心が彼女を好きな面のひとつだった。

        「でもね、わたしがそうやって『強く』いられるのは剣心のおかげなんだからね」
        「・・・・・・拙者の?」
        薫は大きく頷いて、剣心の頬を包んだ手をそっと撫でるように動かした。



        「どんな悪者に捕まったとしても、わたし、必ず剣心は助けに来てくれるってことを知っているもの。剣心が来てくれるから、絶対大丈夫だってわかってい
        るから、わたしは強くいられるの。今日だってそうよ、ちゃんと剣心、来てくれたでしょう?」



        真剣な口調に、剣心は素直に頷いた。薫はそんな剣心の瞳を、じっとのぞきこむ。
        「だからね、今日も剣心は最初から、わたしのことを助けてくれていたのよ。だから・・・・・・ありがとう、剣心」


        そう言って、薫は笑う。
        きらきらとした、眩しい笑顔に剣心は目を細め―――そのまま、細い身体を抱きしめた。
        着物が乱れたままの薫は慌てたが、構わずに強く掻き抱く。




        ―――ああ、どうしよう。
        こういうのを、「惚れ直す」というのだろうか。
        今のでまた、もっともっと、彼女を好きになってしまった。





        その後、宿の女中に襖越しに「帯締めをお持ちしました」と声をかけられるまで、ふたりはぴったり身体を重ねたままでいた。








        ★







        剣心たちが署長から改めて事件の全容を解説されたのは、翌日のことだった。



        数日前、弥太郎と環夫婦は商用で横浜から東京に出てきた。宿泊先は知人から紹介された「千鳥荘」である。
        宿に入る前にふたりはあちこちの店を見て歩き、例の香油も買い求めた。その直後、ふたりは賊に―――あの女と銀蔵に襲われた。

        賊は、夫婦が身なりの割には持ち合わせが少ないのを不審に思った。そして、夫妻を締め上げて「宿に、別に荷物が着いている」ことを白状させた。
        そこで賊は「この夫婦になりすまして宿に入りこみ、そちらもいただこう」と企んだ。夫妻を殴りつけ路傍に捨て置き、彼らはその足で千鳥荘へと向かった
        が―――その荷物、西洋鞄には、数字を合わせて開けるタイプの鍵がかかっていた。

        鍵も鞄も頑丈で、賊はしかたなく合う番号をひとつずつ試していった。じきにその筋の情報から、夫妻が死んではいなかったことを知ったが、ともに宿に
        乗り込んでこられる状態ではないことも知って安堵した。


        やがて鍵は開いたが、中にはもうひとつ、鍵がかかっている金庫があって―――



        「それで、鍵を求めて診療所にいる環殿を襲ったのでござるな」
        一同が集まったのは、環の良人、弥太郎の病室である。弥太郎は意識は戻ったものの、数日間寝たきりだったため、まだ玄斎から安静を言い渡されて
        いる。彼の枕元には、無事戻ってきた「金庫」が置かれていた。
        「商用っておっしゃいましたが、おふたりは何かご商売をやってらっしゃるんですか?」
        「はい、横浜で、宿屋を営んでおりますの」

        「福梅屋」という、千鳥荘並みの格式の旅籠で、洒落た内湯があるのが名物だという。夫妻は今回訪れた東京でたまたま見つけた香油がとてもよいも
        のだったので、「うちの宿でも扱いたい」と思い仕入れを決めた直後、あの災禍に遭った。

        「なるほど、確かに女のお客様なら、お風呂上がりに香油を楽しめるのは嬉しいですよね」
        「ところでさ、その錠前のついた金庫って、何が入っていたんだ?」
        好奇心に目を輝かせて身を乗り出す弥彦を、薫は肘で小突いた。環はくすりと笑って、髪にさしていた銀のかんざしをするりと抜く。


        「あ、ひょっとして・・・・・・」
        「そう、これが鍵なんですよ」

        髪に隠れていたかんざしの先は、錠前にぴったりはまる形に平たく打たれていた。
        環がその鍵を錠前に差し込むと、かちりと軽い音を立てて金庫が開く。

        「わぁ・・・・・・っ!」
        まず、声をあげたのは薫だった。次いで、他の面々も感嘆の息を漏らす。
        金庫に納まっていたのは、銀の細工にきらきらとした石をちりばめた、繊細なつくりの首飾りだった。


        「明治になったばかりのころ、こちらで―――東京で求めたものなんです。留め具が甘くなってしまったので、直していただこうと思って持ってきたんです
        わ」
        環はそっと指で首飾りを持ち上げて、懐かしげに微笑んだ。
        「いつか、和弥がお嫁さんをむかえたら、その方に贈ろうと思っていたんですよ。ようやくそんなお嬢さんが現れたところだったんです、盗られなくて本当
        によかった・・・・・・」
        「息子さんが、ですか?」
        そういえば環は、以前甘味屋で記憶を取り戻しかけたとき、「東京に来たのは、息子のために・・・・・・」という言葉を口にしていた。それは、この首飾りを
        直すことだったらしい。

        「和弥って、そんなに大きな息子だったのか?」
        弥彦が驚いた声をあげると、環は写真を差し出した。
        そこに写っているのは、弥彦によく似た面差しの―――彼を十歳ほど成長させたような容姿の青年だった。

        「御子息に似ているというのは、小さい頃の御子息に似ているということだったんでござるな」
        「ええ、おかげさまで、久しぶりに息子に甘えてもらったような気がして、とても嬉しかったですわ」
        弥彦はくすぐったそうに肩をすくめた。環はあの甘味屋で「息子とは長いこと、こんなふうに過ごしていない」と言っていたが―――二十歳を過ぎて、まも
        なく妻をむかえるような青年なら、それも当然のことだろう。


        「わたしたちが留守にしている間、宿のことは息子に任せています。先生からはあと数日は安静にと言われましたが、そうゆっくりもしていられませんの
        で、出来るだけ急いで帰るつもりですよ」
        「そんな、無理をしなくても・・・・・・あんな大変な目に遭ったんですから、もう少しのんびりしていってもいいんじゃないですか?」
        弥太郎の台詞に薫はそう勧めたが、彼は環と顔を見合わせて、そっと頷きあった。

        「わたしたちが戻ったら、息子が祝言を挙げることになっているんです」
        「あ、それは・・・・・・」

        署長を含め、一同は一斉に祝いの言葉を口にした。夫妻は幸せそうに頬をほころばせ、礼を返す。
        「皆様には、大変お世話になりまして・・・・・・わたしがあの有様だった間、妻によくしてくださって本当にありがとうございました」
        改めて、夫妻は皆に頭を下げて―――そして、幼い頃の息子によく似た弥彦のほうを向いて、続けた。




        「実は、ご迷惑をおかけついでに、もうひとつお願いがあるのですが―――」







        ★







        「弥彦ー? 準備はできたー?」


        薫が声をかけると、弥彦は部屋からひょいと顔を出して「とっくに終わってらぁ」と胸をはった。
        「忘れ物はない? じきに馬車が来るから、荷物は玄関に出しておきなさいよ」
        「へいへい。っても、たいした持ち物もないんだけどさぁ」
        「礼服はあちらで借りるのでござろう? 和弥殿の子供の時分のを」
        「あ! せっかくだから写真撮ってもらいなさいよ、写真」
        「えええー? 嫌なこったそんな大袈裟な・・・・・・」

        と、三人の会話に馬車の音が重なった。
        「ほらほら、もういらしたわよ!」と薫に急かされて、弥彦は玄関へと駆け出す。


        「ちわーっす!」
        「こんにちは。弥彦くん、この度はよろしくね」
        馬車から降り立った環と弥太郎は、弥彦と、遅れて中から出てきた剣心と薫にも挨拶をする。
        弥彦は今日から、横浜に帰る夫妻に同行するのだ。


        夫妻は祝言を控えている息子のため、早く横浜に帰りたいと玄斎に懇願した。玄斎は「無理はいかんよ」と諭したがふたりの気持ちが逸るのももっとも
        である。そこで、帰るのを認めるかわりに「目付役をひとり同行させよう」と、いうことになり―――白羽の矢が立ったのが、弥彦である。
        環は、幼い頃の息子によく似た孤児である弥彦と離れがたいところもあったのだろう。せっかくだから、祝言にも出て新郎新婦に祝いの酒を注いではく
        れないか、というのが夫妻の願いだった。

        「申し訳ありませんが、弥彦君を数日、お借りいたしますね」
        「どうぞどうぞ、歳の割には頑丈な子なんで、鞄持ちでもなんでもがんがん使っちゃってください」
        「人を物のように言うなよなー」
        薫を小突きながらも、弥彦の顔には嬉しさが見え隠れしていた。弥彦にしてみれば、京都に剣心を捜しに行ったことを別にすれば、純粋な「旅行」はこれ
        が生まれて初めてである。それは心も弾むというものだろう。


        「本当のことを言うと、おふたりにも是非お越しいただきたかったのですが」
        弥太郎は残念そうに言ったが、剣心と薫は「そんな、大勢で押しかける訳には」と首を横に振った。
        「出稽古もありますから、そんなに長く家を空けるわけにもいきませんし・・・・・・また、機会を作りますので、改めて伺わせてください」
        実際、薫は先の京都行きなど今年は思わぬ遠出が続いたので、これ以上出稽古先に無沙汰をするわけにもいかなかったのだ。

        「いつか必ず、いらしてくださいね。絶対ですよ?」
        環に念を押され、剣心と薫は「絶対行きます」と約束をする。
        話は尽きなかったが、夫妻の後ろで待っている馬車に繋がれた馬が、彼らを急かすようにぶるると首を震わせた。夫妻は名残を惜しみながらも馬車の
        中へと向かう。

        「じゃあなー! 行ってきますー!」
        窓から身を乗り出して手を振る弥彦を、剣心と薫は並んで見送る。走り出した馬車は、あっという間に見えなくなった。
        遠ざかる車輪の音を聞きながら、剣心と薫は家の中へと戻った。ゆっくりと引き戸を閉めて、沓脱ぎの前でふたりはなんとなく足を止める。


        「・・・・・・行っちゃったわね」
        「・・・・・・そうでござるな」


        互いの顔を見ないまま、呟くように言葉を交わす。
        今日から数日間、弥彦がいない。と、いうことは―――


        「ふたりっきり、なんだね」
        「うん、そうでござるな」
        「なんか、変な感じね。ちょっと前までは操ちゃんたちもうちに居て、あんなに賑やかだったのに」
        「ああ、そうでござるな」
        剣心の受け答えに、薫はくすりと笑いを漏らした。

        「剣心、さっきからそればっかり」
        「おろ? ああいや、すまない、ちゃんと聞いているでござるよ。ええと、ただ―――」
        「ただ?」

        薫は先を促すように、口ごもる剣心の顔をのぞきこんで小首を傾げた。
        剣心は次に続ける言葉を探しつつ目を泳がせたが、結局適当な文句は見つからなくて、だから―――


        「その、薫殿」
        「なぁに?」
        「・・・・・・薫」
        「・・・・・・はい」

        剣心は、長い睫毛に縁取られた薫の目を見つめる。その、深い色の瞳に吸い込まれるように、そっと頬に手をのばした。
        輪郭をなぞるようにそこに触れると、薫の目蓋が静かに閉じられる。
        そのまま、首をかたむけて、顔を近づけたところで―――


        がらがらがらと、何故か、近づいてくる馬車の音が聞こえてきた。
        ぱちり、と薫の目が開き、ふたりは顔を見合わせた。互いに一歩ずつ退いて、閉めたばかりの引き戸に目をやる。
        馬車は道場の門の前でとまり、ばたばたばたと駆け足の足音が近づいてくる。

        「忘れ物ー!」
        大きな声と同時に勢いよく戸が開けられる。


        「もうー! だから出る直前にも訊いたでしょー?! ちゃんと確認しなさいって!」
        「うわびっくりしたぁ! なんだよ何でお前ら玄関に突っ立ってるんだよ?」
        「・・・・・・どうだっていいでしょそんな事。で、何を忘れたの? とってきてあげるわよ」
        「俺が忘れたんじゃねーよ。環さんが、これを渡し忘れたんだってよ」
        「環殿が?」

        言うなり弥彦は、薫に小さな箱を押しつけた。
        「自分が渡したらお前が恐縮するだろうからってさ、だから俺が届けにきてやったんだよ。じゃーなっ、今度こそ行ってきまーす!」

        ぴしゃんと引き戸が閉められ、足音と馬車の音が再び遠ざかる。     
        こんなふうに邪魔が入るのは恒例のことだったから、もうふたりは驚いたり焦ったりはしなかった。
        ただ、無性に可笑しくなってきてしまい、くすくすと笑いがこみ上げてくる。揃ってひとしきり笑いに肩を震わせてから、剣心は薫に尋ねた。

        「何を貰ったのでござるか?」
        「ちょっと待って・・・・・・わ、凄いっ、綺麗!」
        環が薫に贈った箱の中には、華奢な鎖の首飾りが入っていた。小さな花飾りがひとつあしらわれていて、その花はあの香油瓶に描かれていた異国の
        花に似ている。添えられていた手紙には、「千鳥荘にて、貴女が居てくれてとても心強かったです」と一筆礼がしたためられていた。


        慣れない手つきで、薫は首飾りをつけてみる。
        控えめなそれは和服の襟元にも不思議に映えて、剣心の「似合うでござるよ」の一言に薫は頬をほころばせた。

        「・・・・・・そろそろ、お夕飯の支度しなくちゃね」
        「手伝うでござるよ」



        きっと―――邪魔が入るのは、今のが最後だろう。












        それからふたりは台所に並んで、ふたりぶんの食事を用意した。
        ふたりきり、差し向かいで食べる夕食は、なんだか妙に照れくさかった。


        やがて、夜が更けて。
        剣心は寝所でそっと薫の手をとって、尊いものに触れるかのように、静かに口づけた。



        「・・・・・・いい?」



        何を、とは言わなかった。ただ、それだけを訊いた。
        薫は、うっすら頬を染めながら、今まで剣心が見てきたなかでいちばん優しく微笑んで―――



        「・・・・・・いいよ」



        何も訊かず、ただ、それだけを答えた。







        剣心は、薫の夜着の帯をするりと解いた。
        そして、花よりも甘い彼女の香りを感じながら―――ありったけの想いをこめて、強く強く抱きしめた。














        甘い香りが遠すぎる 了。







        おまけ へ続く。






                                                                                         2013.05.28