「これ、持ってきてみたんですけど」
明けて翌日、剣心達は再び診療所を訪ねた。
今日はこの後、茜は例の香油を買った店の特定に立ち合う予定であるが、その前に何か思い出すきっかけにならないかと思って、薫は自分の香油瓶を
携えてきたのだ。深緑の硝子瓶を受け取りながら、茜は口元をほころばせる。
「ええ、ええ、覚えています。主人もこの香りをとても気に入って・・・・・・」
茜の瞳が嬉しそうに輝き、薫も剣心と弥彦と顔を合わせてうんうんと繰り返し頷いた。
「じゃあ、茜さんのために御主人が買い求めたんでしょうか」
「それもあったかと思いますが・・・・・・こういうものは若い娘さんも気に入るだろうと・・・・・・ええ、そんな話をいたしましたわ。そうでしたよね?」
茜は、傍らの寝台に眠る良人に話しかける。と、彼の目蓋がぴくりと震えた。
「あ! 動いた!」
弥彦が驚いて、枕元を覗きこむ。茜はにこにこと笑いながら弥彦の肩に手を添えた。
「今朝からこんな感じなんです。話しかけると、反応してくれるんですよ」
「これは、今にも目が覚めそうでござるなぁ」
そう言いながら剣心は、今の茜の台詞について考えていた。
特に意識せず口にしたようだったが、彼女は「若い娘さんも気に入る」と言った。と、いうことは、夫妻は茜にだけではなく、あの香油を誰かに贈るつもり
で購入したのだろうか。もしくは―――
「あら? 急患かしら」
ふいに、診療所の玄関のほうから聞こえた声に、薫は廊下のほうを見やる。声、というより、それは「叫び」といえるくらいの音量だった。
「何か、あったのでござるかな」
呟いて、剣心は玄関へと向かう。薫と弥彦もそれに続き、茜もつられるようにして立ち上がった。病室を出たところで、彼女は香油瓶を手にしたままだっ
たことに気づき、ちょっと考えたあと、そのまま瓶を袂にに入れた。
★
「先生、何事でござるか?」
「おお、緋村君いいところへ。ちょっと手を貸してくれ」
やはり、急患だったようで、診療所の入り口にはうずくまって動かないでいる大柄な男性と、その連れらしい若い女性がいた。
玄斎と、茜たち夫妻の護衛で診療所に詰めていた警官は、患者を両脇から支えて中に運びこもうとしていたのだが―――いかんせん、その男性は相
撲取り並の巨漢であった。警官はともかくとして、玄斎がこの体躯を支えるのは無理であろう。
「いや、緋村君がいてくれてよかった。でないと、診察の前にわしの腰のほうがぎっくり行くところじゃったよ」
剣心と警官がふたりがかりで大男の身体を起こすのを、連れの女性はおろおろと見守っていた。先程取り乱していた声の主は彼女だろうかと思い、薫
は「あの、あなたも大丈夫ですか?」と気遣わしげに尋ねる。
「ええ、すみません・・・・・・良人が突然倒れてしまったもので、もうどうしたらよいのかわからなくて・・・・・・」
どうやら彼女は大男の妻らしい。身につけている着物は商家の内儀のような落ち着いた物だったが、結わずに肩の上でばっさりと切りそろえた黒髪と、
どこか婀娜っぽい顔つきが印象的な美人だ。
「あの、先生・・・・・・良人はどうしてしまったんでしょうか?」
診療所に運び込まれる良人に付き添いながら、女は不安げにはらはらと涙をこぼす。
「まあ、奥さんも落ち着きなさい、まずは診察してみないことにはな。御主人には、何か持病はおありですかな?」
「いいえ、そういったものは何も。さっきまで普通に過ごしていたのですが・・・・・・ああ・・・・・・」
ふらり、と女の身体が揺れ、薫と茜が慌てて支える。それを見て玄斎は、ふむ、と眉を寄せた。
「いかんな、奥さんまで倒れてしまいそうだ。すまんが薫くん茜さん、あちらに空いている病室があるから、連れて行ってもらえるかの」
少し休んでいなさい、と言われ、女は朦朧としながらも頷く。薫と茜はふたりで彼女を横から抱きかかえるようにしながら病室へと運び、横になるよう勧
めた。女は恐縮しながら寝台に横たわり、深く息をつく。
「大丈夫ですよ、ここの先生の腕は確かですから、安心してくださいね」
薫に励まされ、女は小さな声で「ありがとう」と礼を言う。
「あの、申し訳ないのですが・・・・・・お水を一杯いただけないでしょうか?」
弱々しい声で頼まれて、薫は大きく頷く。
「茜さんすみません、ちょっと行ってきます」
黒髪とリボンを揺らして、薫は病室を後にする。茜は、女がぶるりと身を震わせたのを見て、布団を肩までかけてやろうとして手を延ばした。
―――ぱし、と。その手が捕まえられる。
何が起きたのか、一瞬茜はわからなかった。
女は、素早く身を起こして布団を身体の上からはねのけ、茜の腕を、ぐい、と引っぱった。
よろめいた茜の頬に、ひやりとした硬いものが触れる。
「・・・・・・すまないが、水よりも外の空気を吸いたくなったんでね。奥さん、すまないが裏口まで案内してくれるかい?」
今しがたの頼りなげな様子とは別人のような、凄みのある声と表情で。
女は手にした西洋風のナイフを茜の顔に押し当てながら、そう言った。
★
水差しを持って廊下を急ぎ足に歩いていた薫は、妙に騒がしい空気に気づき、立ち止まった。
何かあったのだろうかと首を傾げる。さっき運びこまれた大男の容態に変化があったのだろうか。それとも―――
薫は、少し考えて、茜の良人がいるほうの病室へと足を向けた。
はたして、そこでは玄斎が枕元に立ってしきりに彼に声をかけているのが見えた。
「剣心? どうしたの?」
やはり病室にした剣心に尋ねると、彼は明るい声で「たった今、目が覚めたようでござるよ」と答える。薫はぱっと顔を輝かせ、寝台に駆け寄った。
茜の良人はまだ意識が朦朧としている様子だったが、玄斎の問いかけに短い返事で答えている。今朝から、彼は茜の声に反応を示していたが、ひょっ
とすると今の急患が運びこまれた騒がしさも刺激となって、意識が呼び起こされたのかもしれない。
「先生、わたし茜さん呼んできますっ!」
「ああ、頼む薫くん。あと、弥彦くんにもうしばらく、さっきの患者の様子を見ておいてもらうよう伝えてくれ―――すまんが剣心くん、そこの水を取ってくれ
んかの」
あの大男は不調を訴えているものの、玄斎がざっと診たところ、一分一秒を争う病状ではないようだった。なので、病室には弥彦と警官を残して、何か
異変があったら呼ぶよう言い置いてあるらしい。
薫は玄斎の指示に頷いて、まずは茜がいる病室へと急いだ。今がまさに非常時の運びこまれた夫婦には申し訳ないが―――この知らせを聞いて茜は
どれほど喜ぶだろうかと思いながら。
「茜さん!・・・・・・あ、ら?」
しかし、女二人がいるはずの病室は、無人だった。
薫は、きょろきょろとあたりを見回したあと、先程女性が休んでいた寝台に視線を移す。めくれあがった掛け布団が今にも寝台からずり落ちそうになって
おり、薫はそこに何か不自然なものを感じた。手にしていた水差しを置いて、踵を返して病室を出る。
気分が治って、あの大男の病室に行ったのだろうか、とも考えたが―――なんだろう、よくない胸騒ぎを感じる。
と、物音が聞こえたような気がした。
音のした方向に、首を巡らす。廊下の先にあるのは、裏口だ。
薫は直感に従って、床を蹴って走り出した。
「茜さんっ?!」
戸を開け放つ。
そこには茜と、もうひとり―――彼女を乱暴に曳きたてている、あの大男の妻がいた。
「騒ぐんじゃないよ」
女は、薫の姿を認めるなり鋭く言い放った。
片手で、後ろ手に縛った茜の腕を捕まえ、もう片方の手に持ったナイフをこれ見よがしにちらつかせる。
「ああやだ、見つかっちゃったか・・・・・・出来るだけ穏便に済ませたかったのに、お嬢ちゃん、あんた面倒くさいことしてくれるねぇ」
大仰にため息をついてみせる女から目を離さないまま、薫は「あなた、何者なの」と問う。
「名乗る程のもんじゃないよ、ただちょっと、こちらの奥様に用があってね」
人を小馬鹿にしたような物言いだったが、それに腹を立てる余裕は薫にはなかった。軽い口調とは裏腹に、女の物腰には、隙がない。
「ねぇ環さん。伝え聞いたところによると、あんた記憶が無くなっちゃったんだって?」
薫も、そして茜も目を大きくする。
今、女は茜のことを「たまき」と呼んだ。それが―――茜の本当の名前なのか。
と、女は膝のあたりに感じた違和感に、ちらりと視線を下に落とす。そして、つい、と身を屈めて、茜―――いや、環の袂の中に手を滑り込ませる。
「困ったねぇ、あんたにはどうしても訊きたい事があるんだけど・・・・・・そうだね、例えばあの時と同じ目に遭ったら、思い出したりしないもんかねぇ」
女は、袂から何かを抜き取った。
その手にあったのは―――あの香油瓶。
「何をっ・・・・・・」
薫が制止の声をあげる間もなく、女はナイフを瓶に持ち替えて、高々と振り上げ―――環の頭に叩きつけた。
「・・・・・・!」
悲鳴もあげずに、環の身体がふたつに折れる。
「茜さんっ!」
駆け寄ろうとした薫に向かって、女が香油瓶を投げつける。薫は反射的に防御しようとしたが、女が狙ったのは薫ではなく、その手前の足元だった。
大きな音を立てて、瓶が割れる。
瞬時に強い芳香が立って、薫は袂で顔を覆った。
次の瞬間、頭に衝撃が走った。
「っあ・・・・・・!」
薫の膝が崩れる。
身体が地面に倒れるのを感じながら、薫は暗くなってゆく視界の中、自分を昏倒させた相手が誰なのかを知るべく、必死に瞳を動かした。
そして目の隅に入ったのは、相撲取りのように太い、頑丈そうな脚。
・・・・・・あの、大男?
そうか、この騒ぎは、この男女の狂言だったのね。
茜さん―――いえ、環さん夫婦を襲ったのも、きっと・・・・・・
遠のく意識の中、薫はそれを悟った。
そして、女に捕らわれたままぐったりとしていた環は、むせかえるような花の香りを感じて、目を大きく見開いた。
―――あの日と、同じ香り。
そう、あの日、この香油の香りを気に入って。
買い求めた店の主人と、良人とふたり遅くまで話しこんで。
その後、宿に戻る、その途中に―――
せき止められていた川が、堤を破って勢いよく流れ出すかのように、頭の奥に閉じこめられていた記憶が一気に溢れ出す。
「か、おる、さ・・・・・・」
思い出しました、と言おうとして弱々しく動かした口を、女は無造作に手で覆う。
「銀蔵」
「はい、姐さん!」
大男―――銀蔵は女に目で合図をされ、倒れていた薫の身体を軽々と持ち上げた。
★
おや、と剣心は小さく眉を動かした。
馬車の音が聞こえた。
いやに急いでいるふうな慌ただしい車両と蹄の音が―――遠ざかってゆく。
近づいてくる音は聞いていない。と、いうことは自分たちが診療所を訪ねる前から停車していたのだろうか。
しかし、表には馬車の姿などなかった。では、診療所の裏手か。あんな狭い道に、何の用で、何のために?
嫌な、感じがした。
剣心が病室から出て裏口を見に行こうとした時、一拍早く、がたんと近くで大きな音がした。
「弥彦?!」
驚いた剣心の声に、弥彦は返事をすることができなかった。なぜなら、弥彦の口には猿轡が噛まされ、手足も縛られている。その状態で、どうにかこう
にか這いずるようにしてこちらの病室まで辿りついたらしい。
「どうしたのでござる?! 一体何が・・・・・・」
問いながら猿轡を外してやると、弥彦は咳き込むよう息をしながら、大きな声でまくしたてた。
「あいつだよ! あの大男! ちくしょう、あの野郎仮病だったんだ!」
先程、茜の良人が目覚めたとき、剣心と玄斎は大男の病室から離れた。残されたのは、弥彦と護衛の警官だったが、剣心たちが出て行くなり、大男は
突如起き上がり警官と弥彦に襲いかかった。
彼に対して、まったく警戒をしていなかったふたりはあっさりとその手にかかり―――警官は昏倒させられ、弥彦も前もって懐に忍ばせていたらしい縄で
縛り上げられたのだった。
「きっとあいつ、もともと此処を襲うのが目的だったんだ・・・・・・って、剣心?!」
剣心は縄から自由になった弥彦を玄斎の手に預けて、ものも言わずに病室を飛び出した。
大男はこちらに来ていない。と、いうことは奴の狙いは―――
女性陣が居るはずの病室は、もぬけの殻だった。剣心は先程の「嫌な感じ」に従って、裏口に向かう。
戸は、開け放たれたままだった。
そこも、無人である。しかし、剣心の知っている香りが残っていた。
地面に散らばった、硝子の破片。割られたのはあの香油瓶だろう。
瓶は馬車に踏みつけられたらしく、香油の染みた車輪の跡が道路に残っている。
大男と連れの女性は、共謀して薫と茜を拉致した。道場ではなく診療所を狙ったということは、薫ではなく茜が目的だったのか。いずれにせよ、こんな近
くにいながら、易々と彼女らを連れ去られてしまった。
剣心は歯噛みする思いで車輪の跡が続く先を見た。手がかりは、この跡だけか。どこまで途切れず続いているかわからないが、早いほうがいい。追わ
なくては―――
「あー、緋村くん緋村くん」
と、駆け出そうとした瞬間、後ろから呼び止められた。今は一刻も惜しむ剣心がもどかしげに振り向くと、戸のところに玄斎が立っていた。
「まあ待ちなさい、茜さんの御主人が伝えたいことがあるそうだ。追いかけるのはそれからの方が良さそうだぞ」
「拙者に?」
★
「警察の・・・・・・方ですか?」
掠れた声を喉の奥から絞り出すようにして、茜の良人は尋ねた。
まだ、意識は混濁しているのだろう。服装を見ればそうでないことはすぐに判るのだが、霞む目で必死に訊いてくる彼に対し、説明するのも難しいので
剣心は「そのようなものでござる」と答えた。今の状況を打破しようとしている点では、警察がやっていることとかわりはないのだし。
「妻は・・・・・・環は、無事ですか・・・・・・? ふ、二人組の、男と女に、わたしたちは襲われて・・・・・・」
「男のほうは、大男でござったか?」
剣心の問いに、彼は頷くことで答えた。
「や・・・・・・奴らは、わたしたちの宿を・・・・・・宿を、訊いて・・・・・・」
「宿?」
「ち、千鳥荘に・・・・・・きっと、奴らは、そこに・・・・・・」
傍らで話を聞いていた玄斎が「旅籠じゃな。ここからはちと遠いが、緋村くんなら、走って行ける距離じゃろう」と呟いた。その旅籠なら剣心も知っている。
上等な客しか泊めないような、品のよい、それだけにそこそこ値も張る宿だ。
「た、環は・・・・・・無事、ですか・・・・・・?」
妻の居場所を捜すように、彼の手がふらふらと動く。「環」とは茜のことかと思いながら、剣心はその手をとった。
「すぐに、傍に連れてくるでござるよ」
つい、先程まで茜は―――環はここにいたのに。そして、薫までも―――
彼は剣心の言葉に安心したのか、再び目を閉じた。
数日ぶりに喋ったことに疲れたのだろう、もう一度、眠りに落ちる。
「長久弥太郎・環というのがふたりの名前だそうだ。聞いておいたよ」
剣心は玄斎の台詞に頷いて―――弥彦と玄斎に「行ってくるでござる」と言うが早いか、診療所を飛び出した。
千鳥荘に、奴らが居るかどうか、確証はない。
しかし、今ある手がかりは、それだけである。それに―――
千鳥荘を目指す剣心が走る道には、香油を踏みつけて出来た、例の馬車の車輪の跡が続いている。
それが何よりの道しるべのように思えて、剣心は走る速度を上げた。
6 「千鳥荘」 へ 続く。