「それが、例の香油でござるか」
薫の部屋を覗いた剣心は、鏡台の前で硝子瓶を弄んでいる彼女の背中に声をかけた。
薫は振り向いて頷き、深緑の瓶を剣心に示してみせる。
先程、甘味屋で茜はまたひとつ記憶を取り戻した。
あの後、一行が警察に向かい事情を説明すると、「夫妻が香油を求めた店で、ふたりの素性を知る手がかりが残されているかもしれない」ということで、
店に警官が聞き込みに行くことが決まった。聞き込み用に似顔絵も描いてもらったが、可能な限り茜本人も立ち合う予定である。まずは、同じ香油を
扱っている店が東京に何軒あるか調べるそうで、本格的な聞き込みは明日となった。
「茜殿は、着々と記憶が戻ってきているでござるな。この調子でいくと、明日あたりには何もかも思い出すかもしれぬよ」
剣心は薫の隣に腰を下ろし、彼女の手から香油の瓶をひょいと取り上げた。瓶には花の絵が描かれた紙片が貼られている。八重桜に似た、花びらの紅
色を更に深く濃くしたような、見たことのない異国の花の絵だった。
「そうね・・・・・・旦那さまも、今にも起き出しそうな顔色だったしね」
剣心は、おや、と思って薫の顔を見る。
会話の内容は明るいというのに、彼女の声音にはどこか屈託した色があった。
「何か、気になることでもあるのでござるか?」
尋ねられて、薫は少し迷うように目を泳がせたが、そのまま視線を下に落として、言った。
「あのね、弥彦のことなんだけど」
「弥彦が、何か?」
ここで彼の名前が出るとは思っていなかったため、剣心は首を傾げる。
「あの子、茜さんにすっごく懐いているじゃない? 昨日、初めて会ったばかりだっていうのに」
「それは・・・・・・そうでござるな」
剣心は、今日のふたりの様子を思い返してみる。確かに、ふたりの間には本当の親子のような親密な空気が流れていて、割って入るのがはばかられ
るくらいだった。
「わたしたちがあの子に初めて会ったときは、あんな感じじゃなかったじゃない。あの子、そりゃ根はいい子だけど、会った当時は今よりつっかかってくる
ことも多かったし」
それは、弥彦はあの頃、信用の置けない大人たちに囲まれて生きてきたからで、今よりはるかに強い防衛本能が働いていた所為では―――と剣心は
思ったが、そう口にする前に薫はひとつ大きなため息をついた。
「やっぱり・・・・・・わたしみたいな小娘じゃ、駄目なのかな。茜さんみたいな大人の女性のほうが、弥彦もいいのかな・・・・・・」
うつむいた薫の口からこぼれ落ちたその言葉に、剣心は何度か目をぱちぱちとさせた。
そして、手にしていた瓶を鏡台に置き、膝の上に手をついて、言った。
「薫殿」
「なあに?」
「その・・・・・・この場合、拙者は弥彦に妬けばいいのでござろうか?」
改まった調子で、そう訊かれて。
薫は、顔を上げてまじまじと剣心を見た。それから。
「や、やだやだやだ何言ってるの剣心ー! 気味悪いこと言わないでー!」
薫は悲鳴に近い声をあげた。
寒気をおさえるような仕草で自分の肩を両手で抱き、ぶんぶんぶんとやたらに首を左右に振る。
「・・・・・・いや、半分、冗談でござるよ」
本気でおののいている様子の薫を見て、剣心はくすくすと笑った。
「えええええ?! 何その半分って?! ああやだ見てよちょっと鳥肌立っちゃったじゃないの」
「茜殿のことは、気にすることはないでござるよ。弥彦は茜殿に『母親』を重ねて見ているのだから」
的を射る言葉に、薫ははっとする。
「薫殿も、弥彦の―――母親みたいになりたいのでござるか?」
薫は、少し考えてから、ゆっくりと唇を動かした。
「それは、ちょっと違う、けれど・・・・・・でも」
「でも?」
「あのふたりを見ていたら、なんだか、急に自信がなくなってきちゃって・・・・・・」
掏摸だった弥彦をこの家に迎え入れてから、薫は彼を門下生として鍛えてきた。
会って間もない頃は、弥彦は薫の剣の腕前を信用していなかったし、今よりもっと衝突することも多かった。まぁ、それは大抵がとるにたらない姉弟喧嘩
のような諍いだったのだが。
それでも、いつしか弥彦は薫の期待以上に熱心に稽古に打ちこむようになり、喧嘩をしつつも家族のような関係を築いてこられたと思っていた。
しかし、茜はたった一日で、本当の親子と見紛うくらい弥彦と打ち解けてしまった。
そんな彼らを見て―――薫は、自分の未熟さを痛感してしまったのだ。
「わかってるのよ。茜さんに比べると、わたしはまだまだ子供だってことは。弥彦にしてみれば、わたしが師匠で保護者っていうのは、頼りないところも多
いだろうし。そう、わかってはいても・・・・・・あんなにすんなりと茜さんに打ち解けるのを目の当たりにしちゃったら、なんか、わたしじゃ駄目なんだなぁっ
て、無性に情けなくなっちゃって」
剣心は、そっと身体を傾けて、肩を落として小さくなっている薫に顔を近づけた。
つくづく、彼女も真面目な娘だと思う。けれど、そんな真面目でいつも一所懸命なところも、彼女を好きな理由のひとつだった。
「茜殿は、薫殿と弥彦が、姉弟だと思っていたそうでござるよ」
「・・・・・・そうなの?」
「傍目にはそう見えるくらい、仲が良く見えているのだし、実際そうなんでござるよ。時折喧嘩をするところも含めてな」
忘れずに付け加えた一言に、薫の唇がかすかにほころんだ。それを見て、剣心も目を細める。
「それに、今の弥彦があるのは弥彦自身の頑張りもあるが、薫殿の教えがあったからでござろう?」
「・・・・・・あの子を最初に助けたのは剣心だし、わたしだけじゃなくて、いろんな人の背中を見てきたから、あの子はあんなに強くなったのよ」
「うん、薫殿もそうだし、拙者や左之や・・・・・・いろんな人間との関わりがあって、でござろうな」
彼が振るうべき剣の、道筋を示し、導く者。
こうありたい、と願う未来の姿を体現する者。
出会って、手をとって教えられて、叱られて諭されて、憧れる背中を見て。
様々な者から様々な影響を受けたからこそ、彼はここまで成長したのだ。
「薫殿は、薫殿らしく接していればいいんでござるよ。弥彦にとっては、薫殿からしか得られないものがあるのだから」
「・・・・・・うん」
「母親役までこなすことは、ないでござるよ。だいたい、年の頃からいっても、あんな大きな子供の母親なんて不自然でござろう?」
「うん、それは、確かに」
薫はようやく納得したように、繰り返し頷いた。そんな彼女を見て、剣心は大きくひとつ息をつく。
「弥彦は、幸せ者でござるな。こんなにしっかり薫殿に思ってもらえて」
「もう、ちょっとー、いいかげん気持ち悪いこと言うのはやめてよね?」
薫はぐぐっと眉間に皺を寄せたが、剣心は存外真剣だった。
「いや、ほんとに。半分くらい冗談ではないのだが」
「そりゃ、妬いて・・・・・・もらえるのは嬉しいんだけど。でも、相手があの子っていうのは、いくらなんでも・・・・・・」
言っているうちにだんだん恥ずかしくなってきたのか、語尾が次第に小さくなる。そんな薫に、剣心は言い訳をするように言葉を加えた。
「弥彦にというか、弥彦と茜殿に、かな」
「え?」
「その、薫殿が、ずいぶんとあのふたりのことを真剣に考えているから・・・・・・茜殿にも、親身になっているというか」
「そりゃ・・・・・・まぁ、茜さんのことは心配だし大変だなぁって思うもの。剣心だってそうでしょ?」
「うん、でも、弥彦のことも含めて、それだけ気にかけて貰えるのが羨ましいというか」
「・・・・・・え?」
「つまり、なんというか、薫殿があんまり彼らばかりに気をとられていると、拙者としては面白くない、というか・・・・・・」
やはり、言っているうちに恥ずかしくなってきて、剣心は口の中で呟くようにして結んだ。
先程、薫が見せた憂いた表情。
あの顔を見て―――睫毛を伏せて思い悩む姿もきれいだなと思った。
でも、その「悩み」が自分以外にむけられているのは―――あまり、面白いとはいえない。
特別、薫にないがしろにされたわけでもないのに。それでも薫の目が、違うところを見ているのは嫌だ、と。
つまりは「もっと自分のことも見てくれ」という、ただただ構ってほしい子供のような要求である。
わざわざ口に出さずともよかったのだが―――話の流れで、つい、言ってしまった。
ばつが悪そうに目を逸らせる剣心を、薫はきょとんとした顔で見ていたが、彼の言っている意味を理解して、ぽっと頬を染める。
「・・・・・・すまない、戯言でござるから、気にしないでくれ」
「う、ううんっ!」
薫は、ぶんぶんと勢いよく首を横にふる。
ふたりで京都に行ったのを境に剣心は、薫への好意を隠さないようになった。時にはこちらが赤面するような軽口を叩かれたり、くらくらするような優しい
言葉をかけられることもあるけれど―――今みたいな、ただただ、甘えているだけの台詞というのは、かなり珍しい。
うっかり薫は、ずっと年上の彼に対して、「可愛い」という感情を抱いてしまった。
それこそ、そんなことを口に出して言ったら剣心はつむじを曲げるかもしれないが―――
「あの・・・・・・ね、剣心」
「うん?」
「あのね、ごめんなさい。たしかにわたし、弥彦と茜さんにばっかり気をとられちゃってたと、思う」
「いや、ほんとに! これはただの拙者のわがままだから、薫殿は何も悪くな・・・・・・」
「だからね、えっと、おわびに・・・・・・襲っても、いいよ」
言いかけた台詞の途中で、剣心の口が固まる。
無言のまま、近い距離から、まじまじと薫を見つめた。
幾許かの沈黙のあと、剣心の手がのびて、薫の頬に触れた。
そのまま、その指が、耳を辿って―――
「・・・・・・薫殿」
「はい」
「・・・・・・出来ないとわかっていて言ってるでござろう?!」
「きゃーっ! きゃーっ! ごめんなさいごめんなさいー!」
剣心はがしっと薫の頭を掴み、抱え込んで自分の胸にぐりぐりと擦りつけた。珍しく荒っぽい扱いをされて、薫は笑い声のような悲鳴を上げる。
だって、今の時間はまだ夕方で陽も落ちきっていないくて、勿論同じ屋根の下には弥彦もいるわけで。剣心の発言があまりに可愛かったものだから、ち
ょっとからかうつもりで言った冗談だったのだが、剣心にとってはかなり酷な冗談である。せめてもの報復のつもりで、剣心は薫の身体に抱きついて思
いきりくすぐってやった。
「やっ・・・・・・やだやだ、だからごめんって・・・・・・きゃあっ!」
手から逃れようとじたばたする薫の声がまた、可愛らしいのが憎らしい。くすぐりながら剣心は、頬に額にと小さな口づけを幾つも落とす。子犬が甘噛み
をするように首筋に咬みついて、暴れる腕を捕まえて、手の甲にも唇を押し当てる。
小さな、薫の手。
指が細くて、爪が桜貝のようで。
竹刀を毎日握っているせいで、手のひらの皮はあちこち硬くなっているのに、そのくせ甲なんかすべすべで抜けるように色が白くて。
剣の腕前はその気になれば並の男を打ち負かせる程だというのに、こうして触れていると、やはり、女性の手なのだな、と思う。
唇を甲に伝わせて。
華奢な指先を、とらえて、そのまま口に含む。
「・・・・・・ゃ!」
指に、剣心の舌を感じて、薫は喉の奥で悲鳴をあげた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
捕まえた腕をぐっと引いて、もう片方の手を袖の中に滑り込ませる。
腕の内側の柔らかい皮膚を指でなぞると、薫の唇から、声にならない声がこぼれた。
「・・・・・・襲うよ?」
薫の大きな目が、更に大きく開かれる。
驚いた瞳で、一瞬身を竦ませたが―――すぐに薫は、赤く染まった頬にふわりと微笑みを乗せた。
・・・・・・今、この瞬間にこういう顔をするなんて、反則じゃないだろうか。そう思いながら剣心は薫の小さな顎を指で掴んで、唇を強く押しつけた。
口を開かせて、深く重ねると、ぎこちなくも応えようとしてくれるのが判る。触れた髪からは、またあの甘い香りが漂って。
ああもう、どうしてこんなに柔らかいんだろう。どうして、唇を重ねているだけで、こんなに気持ちいいんだろう。
唇から、舌から、触れあっているところから溶けてしまうんじゃないかと思う。自分と彼女との境目がわからなくなる。
長くなる口づけに、薫は苦しげに細い声を漏らし、息をしようと唇を震わせる。
絡まる吐息が熱い。このまま、彼女を自分のものにしてしまいたい。
―――けれど、これは薫の「冗談」へのお返しのようなものだ。
わかっている。本当に、このまま襲ってしまったりは出来やしない。
だって―――ふたりとも、悲しいことに今までの経験から、この度もこのくらいのタイミングで邪魔が入るであろう事を予測していた。
そして案の定、部屋に近づいてくるお馴染みの気配を感じとって、剣心はぱっと掴んだ腕を離して、薫を解放する。
薫はあわあわと焦った様子で、髪と襟元に手をやって整えた。
「なあなあなあ! 稲荷鮨もう食ってもいいかー?!」
襖を開けて、弥彦がずかずかと入ってくる。稲荷鮨とは、なんだか今日は急遽警察に寄ったりなんだりしてばたばたしたため、「夕飯は楽をしよう」と言っ
て、帰り道に屋台で買い求めたものである。
「まっ、まだ夕御飯の時間じゃないでしょー?! 今何か汁物用意するから、もう少し待ってなさい」
「ええー? なにもわざわざ不味いもの足すことねーのに」
「だからどーしてあんたは、いちいち一言多いの! 御飯抜かれてもいいのね?!」
薫の頬はまだ上気していたが、幸い、弥彦はそれに気づかなかった。薫は弥彦を追い立てるようにして台所に向かい、剣心はその背中を見ながら諦念
をこめて肩をすくめる。
実際のところ、がっくり肩を落としたい気分ではあったのだが、そうするとますます気分が落ちてしまいそうだったので、やめておいた。
そして、夕飯の支度を手伝うべく、剣心はのっそりと立ち上がった。
★
「銀蔵、仕込みは問題ないね?」
「はい姐さん、ちゃんと馬車も手配したっすよ」
「よしよし・・・・・・ところで、こんなお上品な服装は好みじゃないんだけど・・・・・・変装とはいえ、あたしの趣味じゃないねぇ」
「いや、姐さんはどんな格好でも・・・・・・その・・・・・・き、綺麗っすよ」
「あはははは嫌だねぇ、そういう台詞は惚れた女に言うのに取っときなよ」
「え、いや、でも姐さん俺は」
「よし、じゃあそろそろ行こうかね。いいかい? 現場じゃあんたは、あたしの旦那。あたしはあんたの奥さんって設定だからね」
「・・・・・・」
「銀蔵? ちょっと、聞いてんのかい?」
「あ、すんません、ちょっと感極まって・・・・・・」
「しっかりおしよ、これが山場なんだからね? じゃあ、行くとしようじゃないか―――小国診療所へ」
5 「急患」 へ 続く。