3 記憶と鍵と








        「くぉら銀蔵! いつまで寝てんだい!」
        「あ、すすすすすみません姐さん、昨夜はなかなか眠れなかったんで」
        「昨日もそんなこと言ってなかったかい? 枕が変わったら眠れないだなんて、あんた意外と繊細だねぇ」
        「いや別に枕は関係ねえんですが・・・・・・姐さんはぐっすりだったようっすね・・・・・・」
        「そりゃもう熟睡だったよ。流石いい宿は布団も寝心地最高だねぇ」
        「はぁ・・・・・・そりゃ何よりっす・・・・・・」
        「いやしかしアレだね、こうして同じ部屋に泊まっていたらほんとにあたしたち夫婦みたいだねぇ。って、んなことあるわけないけどさ、あはははは」
        「・・・・・・」
        「ん? どうしたんだい? 泣きそうなツラして」
        「・・・・・・いや、何でもねぇっす・・・・・・この鍵、今日こそ開くといいっすね・・・・・・」






        ★





        「こんにちはーっす!」


        診療所の玄関に、弥彦の威勢のよい声が響く。それに続いて剣心と薫も挨拶をしながら戸をくぐった。
        弥彦を先頭にして、玄斎に案内された病室を覗くと、茜は寝台の傍らの椅子にかけて、眠る良人の顔をじっと眺めていた。窓からさしこむ日の光が髪に
        飾った銀のかんざしにきらきらと反射して、一行は目を細める。

        「まぁ、皆さんで来てくださったんですね? ありがとうございます」
        彼らに気づいた茜が、立ち上がって深々と礼をする。
        「御主人にも、ご挨拶をさせていただきたいのでござるが」
        「ええ、主人も喜びますわ、お願いいたします」


        剣心たちは枕元に立って、茜の良人の顔をのぞきこんだ。年齢は、茜と同じくらいだろうか。やや痩せ気味の輪郭だが、くっきりとした眉が精悍な印象を
        与える男性だ。賊に襲われた夜から目を覚まさないということだったが、顔色はそう悪くなく、ただ眠っているだけのように見える。
        「運びこまれたときに比べて、ずっと血色もよくなったよ。脈も正常じゃし、じきに目を覚ますじゃろう」
        部屋に入ってきた玄斎が解説をする。薫は、腰をかがめて「こんにちは」と彼に話しかけた。

        「少しの間ですが、奥様をお借りしますね。すぐに戻りますから、心配しないでください」
        そう言ってから「できれば、戻ってくる前に起きていただければ嬉しいです」と付け加えたので、茜は少し笑って「是非、そうしてくださいね」と良人に向か
        って言った。
        「じゃあ、わたしは出稽古がありますので失礼します。弥彦、今日はしっかり茜さんを案内してあげるのよ。ほら、あんたからもよろしくお願いしますって」
        薫は礼をしながら弥彦の頭を掴んでぐいぐい前に倒す。弥彦は「うっせーな、わかってるから早く行けよブス!」と答えて、薫にすこーんと後ろ頭を一発殴
        られた。     

        「じゃあ薫殿、また稽古の終わった後に」
        「うん、後でね剣心。行ってきます」
        薫はもう一度茜と玄斎に挨拶をすると、竹刀を担いで病室を後にした。その後姿に向かって弥彦は舌を出す。


        「まったく、すぐ手が出るんだからよー、あの男女が」
        「あら、いけませんよ、お姉さんにむかってそんな事を言っては」
        茜にやんわりとたしなめられて弥彦は肩をすくめ、それから「薫は姉さんじゃねーよ」と訂正をする。
        「あいつは、俺の剣の師匠。あんなんだけど、師範代なんだ」
        茜は、まあ、と目をみはり、弥彦と剣心の顔を順に見やる。

        「わたしはてっきり、弥彦くんのお姉さんと、その旦那様かと思っていましたわ」
        「うーん、あれが姉さんっていうのはぞっとしねーな・・・・・・剣心は、そのうち薫の旦那になるんだろうけれど」
        さらりと言われたものだから、剣心はうっかり頷いてしまい―――慌てて言い繕った。
        「い、いやその弥彦、そういう話はまだしていないので、今のは、その、薫殿には内密に―――」
        「誰が言うかよそんな事・・・・・・まったく、変な趣味してるよなぁ」


        ふたりのやりとりを見て、茜はくすくすと笑った。
        弥彦はその笑顔を横目で見ながら、雰囲気がなんとなく、母上に似ているかな、と思った。






        ★





        「8325」
        かちり、がきん。

        「8326」
        かちり、がきん。

        「8327」
        かちり、がきん。

        「8328」
        かちり―――かしゃん。


        「・・・・・・」
        「・・・・・・え?」
        「かしゃん、って、言ったっすね」
        「ああ、言ったね」
        「・・・・・・これで、当たりっすか?」
        「は、あははははは、当たりだよ、ようやく当たりだよー! 銀蔵!」
        「やっ、やりましたね姐さん!」
        「あはははは、やった、やったよー! さ、銀蔵、開けてみな」
        「い、いいっすか? 行くっすよ?」
        「ああ、勿体つけないで、早くおしよ!さぁ、どんなお宝が入ってるかねぇ」
        「じゃ、じゃあ、せーの・・・・・・」
        「・・・・・・」
        「・・・・・・」



        「・・・・・・あら?」






        ★






        「・・・・・・じゃあ、お父様のことは?」
        「うん、流石に覚えてねーよ。亡くなったのは、俺が生まれるかどうかって頃だったから」



        弥彦と茜が並んで歩くその後ろを、少し離れて剣心が歩く。
        一行はまず、事件の現場に向かい、そこを拠点にぶらぶらとそぞろ歩いた。

        今日の「散歩」は茜の気分転換と、あわよくば事件に関する発見があれば―――というのが目的だった。それに、昨日弥彦の顔を見て息子の事を思い
        出したように、何かがきっかけで更に記憶が戻る可能性もあるかもしれない。そんなわけで三人は、並んで街を歩いていたのだが―――いつの間に
        か、弥彦と茜が先に立つ格好になっていた。
        

        「それは・・・・・・残念ね。きっと立派なお父様だったでしょうに」
        「うん、俺もそう思う。でも、何しろ覚えていないから、寂しいとかいうのとは違うんだよな」

        こういう歩き方になったのは、会話の比重のせいだった。
        三人で喋っていても、いつの間にか茜が弥彦に話しかけ、弥彦がそれに答えるという形になってしまうのだ。
        茜としては、別に剣心を除け者にするつもりなどないのだが、やはり弥彦が「息子と同じ顔」なため、無意識のうちにそうなってしまうのだろう。剣心もそ
        のあたりは察して、あえてふたりの会話を邪魔するつもりはなかった。それに、息子とそっくりな弥彦と話しているうちに、記憶を取り戻す糸口が生まれ
        ないとも限らないのだし。

        「もともと覚えてないひとのことを寂しがることはできないからさ。どんなひとだったのかなぁ、って想像することはあるけど」
        「でも、お母様となれば、また別でしょう」
        「・・・・・・うん、まぁ、それは、そうかもな」


        話題は、弥彦の両親についてだった。
        弥彦がこの世に生まれるのと、ほぼ同じくして亡くなった父親と、女手ひとつで弥彦を育て、病で帰らぬひととなった母親。
        彼らのことは剣心もなんとなく聞いていたが、改めて弥彦の口から語られる両親の話には、それまで聞いたことがなかった感情―――寂しさや懐かしさ
        が付随しており、まるではじめて耳にする話のようだった。


        茜が、相手だからだろう。
        少し離れて歩きながら、剣心はそう考えた。


        弥彦にすると茜は、まさに母親くらいの年齢だろう。だから、剣心や薫には吐露できないような、亡き両親に関する感情も、自然に口にできるのかもしれ
        ない。
        剣心も薫も弥彦より年上で、それこそ彼の「保護者」のつもりでいるが、同時に「仲間」のような意識もある。だから弥彦にしてみれば、無闇にふたりに
        甘えたり弱みを委ねたりするのは、違うと感じるのだろう。
        そういうのはもっと―――父親や母親のような人間にだけ、晒せるものだ。


        「でも、今は前より寂しくねーよ。前は、俺の周りってロクな大人がいなかったからさ・・・・・・あの頃は嫌なことがある度に母上のこと思い出してたけど、
        今は、そうでもなくなったかなぁ」
        「あんまり、思い出さなくなった? お母様のこと」
        「それもそうだし、思い出すきっかけも変わったかな。嫌なことより、むしろ、いい事があったときのほうが思い出すかも」

        弥彦はそう言ってから、「思い出さなくなったってことは、俺って薄情なのかな?」と、慌てたように付け加えた。
        しかし茜は、優しく笑って、首を横に振る。
        「いいえ、まったくその逆ですよ。今、あなたがこうして元気に暮らしている姿をお浄土からご覧になって、お母様は絶対に喜んでいらっしゃるわ」



        弥彦はまじまじと茜の顔を見て―――そして、子供らしい笑顔になって、大きく頷いた。





        ★





        「あの、姐さん。これ、何すかね」
        「見りゃわかるだろ、写真だよ」
        「あー、成程写真っすか! いや、見りゃわかるって言われてもそんなに見る機会ないっすよ。あー、ほんとだ、これ、あの男じゃないっすか?」
        「・・・・・・そうだねぇ」
        「あ、こっちはあの女だ。うわぁ凄いそっくりじゃないっすかぁ」
        「そうさね、写真ってなそういうもんだからね」
        「じゃあ、これはあの夫婦の子供っすかねぇ。ほら姐さん、ちょっと父親に似てないっすか」
        「ああほんとだ父親似だねぇ・・・・・・って阿呆かい、そうじゃないだろ」
        「いてててて! ちょ、姐さん、耳! そんな引っぱったら千切れるっすよ!」
        「写真なんざどうでもいいんだよ。問題は―――写真と一緒に入っていた、ほら、こっちのほうだろ?」





        ★





        薫が甘味屋の引き戸を開けると、奥の席で軽く手を上げた剣心とすぐに目があった。
        「ごめんね、待たせちゃったかしら?」
        出稽古を終えた薫は、落ち合う約束をしていた店にぴったり時間通りに到着した。しかし、通された席にいるのは剣心ひとりである。

        「いや、拙者たちが思いのほか早く着いてしまって・・・・・・注文はこれからでござるよ」
        「弥彦と茜さんは?」
        「ほら、あっちでござる」


        剣心がふっと指をさした先を目で追うと、窓の向こう、店の庭にふたりの姿があった。
        「少し待てば、じきに薫殿が来るだろうと思ったから、それまで庭を散策してくると言って・・・・・・拙者は留守番でござるよ」
        「あの子、ちゃんと行儀良くしてた?」
        「ご覧のとおりでござる」

        薫は剣心の隣に腰掛けながら、庭のほうを見る。
        並んで歩く、弥彦と茜。弥彦を見下ろす茜の目は柔らかな優しさに満ちていて、まるで本当の息子を見つめているような視線だ。
        となりにいる弥彦が、茜に何かを話しかけられて、少し、照れくさそうな顔でそれに答えている。それはどこか甘えたような表情で、普段の弥彦があまり
        見せないような顔だった。


        「・・・・・・薫殿?」
        じっと、庭を見たまま言葉を発しない薫に、剣心は首を傾げる。薫ははっとして、剣心へと視線を移した。
        「ああしていると、本当の親子みたいでござるな」
        「・・・・・・ほんとね」
        ふたりで並んでいる姿は、つい昨日会ったばかりとは思えないくらい自然に馴染んでいた。
        そのことに―――薫は少なからず驚いていた。


        「茜さんって」
        「ん?」
        「なんか、凄く『お母さん』って感じがするひとね」

        赤べこで、初めて会ったとき、薫は茜のことを「儚げな雰囲気のひとだな」と思った。しかしその直後、弥彦の顔を見た途端、茜が纏う空気が変化したの
        を覚えている。彼女はとても嬉しそうな顔をして―――表情から不安げな色は消えて、かわりに何か、しっかりした強さが宿ったように見えたのだ。
        「唯一思い出せたのが、息子のことだからでござろうな」
        剣心も、同じように思っていたのだろう。薫の台詞にそう言って頷いた。


        自分の名前もこれまでの人生のこともすべて忘れてしまって。とても大切だと感じるひとは、眠ったままいつ目覚めるかもわからなくて。足元の覚束ない
        暗闇に投げ出されたような不安に支配される中、ただひとつ彼女にとって確かなものが「息子の記憶」なのだ。それはとりもなおさず、「自分が母親であ
        ることの記憶」でもある。
        だから、弥彦と一緒にいる今の茜は、彼女の中の「母親」の部分がより鮮明に表に現れているのだろう。母親としての、揺るぎない強さや、包み込むよ
        うな優しさが。

        「弥彦の、それを感じているのでござろうな。久々に、母親に甘えている気分なのでござろう」
        「・・・・・・そうよね、あの子、まだ十歳なんだもんね」
        早くから大人に囲まれていて過ごしていたこともあって、年の割にはしっかりしていて。剣の腕も、同じ年頃の子に比べると格段に秀でていて。
        だけど、それでもまだ十歳なのだ。両親に頼って、守られていて当然の年齢なのだ。



        剣心と薫の視線に気づいて、弥彦と茜は敷石を伝って店の中に戻ってきた。
        「よっ、出稽古終わったんだな」
        「お帰りなさい、お疲れ様でした」
        その呼び名の由来となった鮮やかな色の羽織を着た茜が、にこやかに薫に労いの言葉をかける。その優しげな微笑みに、薫もつい、亡くなった母親の
        面影を一瞬重ねてしまった。

        「お前を待っててやったんだからな? ありがたく思えよ」
        「待っていてくれたのはあんたひとりじゃないでしょう・・・・・・まったく、口が減らないんだから」
        いつもの調子のやりとりを始めた薫と弥彦を、やはり剣心が「まあまあ」といなして、軽く手をあげて給仕を呼ぶ。めいめいが餅やら甘酒やらを頼んだとこ
        ろで、茜は「改めて、今日は本当にありがとうございます」と頭を下げた。

        「皆様にも・・・・・・赤べこの方々や署長さんや小国先生にも、こんなに良くしていただいて、なんとお礼を申し上げたらよいのか・・・・・・」
        「なんだよ、俺たちそんなたいした事してないよな?」
        恐縮する茜に、弥彦はどうということもない、というようにあっさりと言った。
        「そうでござるよ。茜殿こそ、この度は散々な目に遭っているにも関らず、ずっと御主人の看病もされて・・・・・・よく、気をしっかりもっているものだろ感服す
        るでござる」
        「それは、弥彦くんのお陰が大きいですわ」
        茜はふわりと笑って、そっと弥彦の肩に手を置く。


        「息子のことを思い出せたのが、わたしの支えになってくれているのでしょうね。それに、こうして一緒にいると、本当に弥彦くんがわたしの子供のように
        思えてきて・・・・・・」
        そこまで言った茜は、少し喋りすぎてしまったと思ったのか口元に手をあて「ごめんなさいね」と弥彦に謝った。しかし、弥彦はふるふると首を横に振る。
        「いや、俺もちょっと、茜さんって母上みたいだなーって思ってた」
        素直な台詞を口にしてから、弥彦は照れくさげに笑った。茜は安心したように微笑むと、剣心と薫の顔を見て言った。

        「きっと、わたしはもう長いこと、和弥とはこんなふうに過ごしていなかったと思うんです」
        「え、それって・・・・・・」
        「何か、思い出したのでござるか?」
        「ええ、ぼんやりとですが・・・・・・そう、わたしと主人が東京に来たのは、あれは、和弥の・・・・・・」
        茜はこめかみに指をあて、断片的な単語を並べ始める。
        「和弥が・・・・・・あの子に、だから、それを何処かに、預けて・・・・・・」

        白く濁った記憶の霞の中から、手探りで何かを取り出すように、茜は目を閉じて必死に集中する。しかし―――それが限界と、いうように細く息をつい
        た。その様子がとても苦しげだったので、向い側に座っていた薫は立ち上がって横に膝をつき、茜の背を抱いた。
        「あの、茜さん・・・・・・あんまり無理はしないでください。大丈夫、そこまで出てきたんだもの、あとは何かに拍子に思い出せますよ」
        茜は薫から渡された手ぬぐいで口元を押さえながら「え、ええ、すみません・・・・・・」と頷いた。そして―――何かに気づいたような様子で、まじまじと薫
        の顔を見る。


        「え、あの・・・・・・あ、茜さんっ?」
        突然、茜にぐっと顔を近づけられ、薫は驚く。それは傍から見ると、わりない仲の女性同士が抱きあっているような体勢である。


        「香りが」
        「え?」
        「甘い、花の香りがしますわ」


        同性であるとはいえ、呼吸を感じてしまいそうな至近距離からそう言われて、薫はどぎまぎしながら答えた。


        「香りって、わたしの、髪の香りですか?」
        「異国の花の香りの、香油ですね」


        薫も、そしてふたりを引き剥がそうとして腰を浮かせたものの「いや女同士だから問題ないのだろうかいやしかしでも」と対応に困っていた剣心も、茜の
        言葉にはっとする。
        





        「わたし、その香油を知っています。確か主人と・・・・・・そう、東京に着いてから、それをお店で求めたのですわ」







        ★







        「・・・・・・箱っすね」
        「ご丁寧に、錠前つきのね」
        「って事は、ただの箱じゃなくて、金庫っすね」
        「ええい! 鍵つきの鞄の中に、更に金庫ってどこまで徹底してるんだい! おまけにこちらは、鞄のように数字を合わせるんじゃなくて、別に鍵がなけり
        ゃ開かないやつじゃないかー! ああもう畜生また振り出しだよ!」
        「流石っすねー、あの夫婦、よっぽど用心深いんっすねぇ」
        「感心してる場合かい! 用心深いのもそうだが、こん中によっぽど凄いもんが入ってるって証拠だろう?!」
        「あ、そりゃまぁ、確かに」
        「あたしゃ諦めないよ・・・・・・あのとき盗った荷物の中に、鍵はなかったんだ。って事は、あの夫婦が身につけて持っているってことだね?」
        「そうっすね、男はずっと意識不明で診療所に入っているらしいっすが・・・・・・ちょいと力を入れて殴りすぎましたかねぇ」
        「あんたのぶっとい腕で殴ったら嫌でもそうなるだろうね・・・・・・まぁ、それは仕方ないとして、じゃあ女のほうだね・・・・・・銀蔵」
        「はい姐さん」
        「仕切り直しだ、明日またあの夫婦を―――いや、女のほうを襲って、なんとしてでもこの金庫の鍵をぶんどってやろうじゃないか!」

















        4 「妬いてる?」 へ 続く。