かちり、がきん。
「0183」
かちり、がきん。
「0184」
かちり、がきん。
「0185」
かちり、がきん。
「・・・・・・あの、姐さん」
「なんだい?」
「よっぽど運が良くないと、今日中には終わらないっすよね」
「そうなりゃ今晩も、ここに泊まりかねぇ。まぁ、もう二、三日くらいは居座っても、バレやしないだろ」
「・・・・・・そうですか、今晩も・・・・・・」
「何だい、あたしと一緒なのがそんなに不満なのかい?」
「いっ、いえ! 不満どころか、むしろ、俺は、そのっ!」
「だったら、そんな辛気くさいツラするんじゃないよ・・・・・・ええと、どこまで行ったっけ?」
「・・・・・・次、0186っす」
かちり、がきん。
★
「まあまあ、剣心はんも薫ちゃんも、わざわざすんまへんなぁ」
時刻は夕方、本格的に賑わい始める直前の赤べこに到着した剣心たちを、妙が出迎える。
先程、剣心は弥彦の「母上が来た」発言に思い切り面食らった。
彼の母親はずいぶん前に鬼籍に入っており、孤児になった弥彦は一時期悪い大人たちの世話になっていた。しかし、ある意味そのおかげで剣心たちと
知り合うことになったわけだが―――その母親が、実は生きていたとでも言うのだろうか。
着物と髪を整えた薫も同じ話を聞かされ、やはり同様に驚いた。弥彦は「とにかく、行けば詳しい話がわかるから」と剣心と薫を促し、三人は揃って赤べ
こを訪れたのだが―――
「あら?署長さんも」
案内された席には、先客がふたりいた。ひとりは浦村署長で、上着こそ脱いでいたが制服である。
警察署長がいるということは、「事件」というのは言葉の綾ではなかったのだろうか。
そして、もうひとりは女性であった。
年の頃は四十半ばだろうか、落ち着いた茶色の縞の着物に、首の後ろあたりで結った髪にかんざしを飾っている。
顔立ちは美しいが、うつむいたその顔にはどこか不安げな翳りが貼りついていた。
「緋村さんも神谷さんも、これはどうも。ご厄介をおかけします」
「いや、まだ何の話も聞いていないのでござるが、事件とは一体?」
署長に会釈をされた剣心が、まずは早速「事件」のあらましについて伺おうとしたとき、署長の向かいに座る女性が顔を上げた。と、剣心と薫の間に立
つ弥彦の姿を認めて、彼女の顔がぱっと晴れやかになった。弥彦は、やはり少し困った顔で、しかしぎこちなくも小さく笑って見せる。訳がわからない剣
心と薫は、なんとはなしに顔を見合わせた。
「ひとまず、皆さん座ってくださいな。弥彦くんは、茜はんの隣にいってあげてな」
弥彦は妙に促され、茜、と呼ばれた女性の隣に腰をおろす。それに倣って、剣心と薫も空いている座布団に並んで座った。
「まずは、ご紹介します。こちらのご婦人は・・・・・・とりあえず、茜さんでよいのでしょうか?」
署長に問われて、茜は頷いた。しかし、「とりあえず」とはどういう意味なのだろうか。茜は、不思議そうな表情の剣心と薫に向かって、自ら補足をした。
「『茜』というのは、妙さんが考えてくださった当座の名前です。呼び名がないと不便だろうということで・・・・・・」
「当座、の?」
首を傾げた剣心と薫に、茜は申し訳なさそうに再び頷いた。
「わたし、今・・・・・・記憶を失くしておりまして」
「事件」が起きたのは、昨夜のこと。
父親に伴われて妙が、近隣の同業者たちとの寄り合いに出席した、その帰りである。
夜道を歩いていたふたりは、行く手の角の先に、騒がしい気配感じた。
ただならぬ雰囲気に、ふたりは駆け出し―――角を曲がると、そこには一組の男女が倒れていた。
男性は頭から血を流しており完全に意識はなく、女性のほうは妙たちの呼びかけに僅かながらに反応を示した。妙と父親は人を呼び警察に連絡をし、
そしてふたりを診療所に担ぎ込んだ。
ふたりとも命に別状はないとのことだったが、男性は一日経った今も意識は戻らない。
そして女性は―――記憶を失っていた。それが、茜である。
「いかんせん、身元を示すような所持品が残ってなかったのですよ。辻強盗に襲われたらしく、手荷物はすべて奪われてしまったようなんです」
人の良さに定評のある署長は、気の毒そうに説明をした。
女性は男性に付き添って診療所で一夜を過ごしたが、明けて朝になっても彼女の記憶は戻らなかった。小国診療所の玄斎は「少し身の回りに変化をつ
けたほうが、よい刺激になるかもしれない」と彼女に外出してみることを勧め、それならばうちに、と妙が名乗りをあげた。少しでも見知った相手がそばに
いたほうが、彼女の不安も和らぐだろうと思ったのである。
「妙さん、お見舞いに行っていたの?」
「ええ、やっぱり気になるやないの。これも何かのご縁やと思って・・・・・・」
呼び名がないと不便だからということで、「茜」という仮の名前を考えたのも妙である。彼女を見つけたとき、鮮やかな茜色の羽織を身にまとっており、非
常時ながらそれがとても印象的だったことが由来であった。
「で、気分転換にウチで御飯でも食べてもらおうとお連れしたんやけど・・・・・・茜はん、弥彦くんを見てえろう驚いて・・・・・・」
店に手伝いに来ていた弥彦の顔を見るなり、茜は驚きに立ちすくんだ。
そして、次の瞬間「―――和弥!」と叫び、駆け寄って弥彦を抱きしめた。
これには妙も、そして弥彦も驚いた。
「ああ、よかった、お母さん何もわからなくて、何も思い出せなくてどうしようかと・・・・・・よかったわ、和弥に会えて、よかった・・・・・・」
弥彦は戸惑いながら、和弥って誰のことだろうと思いながらも、抱きしめてくる茜を小さな身体で受け止めて―――そして、「母上にぎゅっとされるのっ
て、こんな感じだったろうか」と、つい、懐かしい腕の感触を思い出していた。
「和弥とは、わたしの息子の名前なんです」
「おろ? それはつまり・・・・・・記憶が戻ったというわけでござるか?」
茜は、剣心の問いに首を横に振った。
「戻ったのは、息子に関することだけなんです。この子の顔を見た瞬間、そのことだけ思い出せました」
混乱しそうになった剣心と薫に、署長が補足で説明を入れる。
「どうやら、茜さんには和弥くんという御子息がいるらしいですな。そして、その子の顔が、弥彦くんによく似ているらしいのです」
そう言われて剣心と薫は、先程の弥彦の台詞の意味も理解した。
「俺の母上だという客」というのは、ずいぶんと端折った言い方ではあったが―――確かにあの場で弥彦から説明をされても、ふたりともこの事態を把
握しきれなかったであろう。
息子によく似た顔の弥彦を目にして、茜は一部分だけ、記憶が戻った。
そして彼女は、我が子にそっくりな少年が傍にいると落ち着くようで、今も安心しきった表情で署長の言葉に頷いていた。
「このことがきっかけて、他の事も思い出せるとよいのですが・・・・・・なにぶん、おふたりの身元を示すものが少なすぎるものですから。今のところ判った
事は、茜さんには御子息がいて、名前が和弥くんという事と・・・・・・後は、恐らくおふたりとも東京の方ではないようですな」
保護されたときの、ふたりの足袋の汚れから察するに、かなり歩いた後のようだった。馬車や鉄道を利用しつつ、遠方から東京へと出てきたところだっ
たのかもしれない。しかも、ふたりとも盗られた財布とは別に、帯の下にまとまった金子を入れていた。こういう用心をするのは、まず旅人であろう。
「強盗も、帯の路銀には気づかなかったようで。いや、不幸中の幸いでしたな」
署長は笑ったが、茜は顔を赤くして「どうも、お恥ずかしいことです」と恐縮した。
「いえ、おふたりともしっかりした方だったのでしょう。きっと記憶もじきに元に戻りますよ―――ところで、目下犯人を捜索中なのですが、まず犯行の目
的は物盗りかと思われます。しかし・・・・・・」
もし、犯人が被害者ふたりの知人だったとしたら。物盗りを装った、怨恨での犯行だとしたら。
その可能性は極めて低いが、零と言い切ることは出来なかった。なにせ、被害者のひとりは意識がなく、もうひとりは記憶がなく―――犯人がどんな
人物だったのかも、当時の状況も、証言することができないのだから。
「もしも、怨恨だった場合は、また犯人が接触してくるかもしれないでござるな」
「そうなんです、万が一程度の可能性ですが・・・・・・なので、念のため警察のほうで茜さんの保護も考えたのですが、茜さんは診療所を離れたくないよう
でして」
「申し訳ありません、大変ありがたいお話なのですが、いつ主人が目を覚ますかわかりませんので・・・・・・」
主人、というのは意識不明の連れの男性のことであろう。茜はごく自然に彼のことをそう呼んだ。
「なので、診療所に護衛の警官をひとり配置することにしました。御主人が目を覚ますまでは茜さんもそちらに身を寄せるそうですので」
「けれど、今日みたいに少しは出て歩いたほうが、茜はんも何か思い出すきっかけがあるかもしれないやろ? せやから、弥彦くん達にも、力を貸して貰
えんかと思うて」
知らない街で行動するのにも、弥彦が一緒なら茜も落ち着くだろうし、それに剣心も付き添えば護衛にもなる。
それを「お願い」したくて、妙は剣心たちを呼んだのだった。
「俺は、まぁ、別にそのくらい構わねーけど」
弥彦の返答に、茜はぱっと笑顔になって「ありがとう」と礼を言う。照れくさそうに首を縮める弥彦に、一同は頬を緩めた。
「弥彦がそう言うなら、拙者も引き受けない訳にはいかないでござるな」
それに合わせて剣心がことさらに恭しく続けて、場の空気は更に和らいだ。妙は弥彦と剣心に礼を言い、「ほな、話が決まったところでそろそろお鍋にし
まひょか」と立ち上がった。
「今用意するさかい、署長はんも食べていってくださいね」
「あ、いや私の事はどうぞお構いなく」
妙と署長が「まあまあそう言わず」「いやしかしまだ勤務中で」云々とやりとりをしているなか、剣心と一緒に話を聞いていた薫は、茜にそっと声をかけ
た。ひとつ、気になったことがあったからだ。
「あの、失礼ですが、お連れの方のことも思い出されたのですか?」
遠慮がちに尋ねてきた薫に、茜は済まなそうな微笑を向けた。
「いいえ、あと少しで思い出せそうな気がするのですが」
「あと少し」のきっかけにならないものかというように、茜はこめかみに指を押しつける。子供のような仕草が妙に様になっていて、薫はつい目許をゆるめ
たが―――しかし、先程茜は彼のことを「主人」と呼んでいた筈なのだが。
「記憶はないのですが、何故だか、判るんです」
薫の疑問を察したのか、茜は暖かな声で、そう続けた。
「思い出せませんが、判るんです。感じる・・・・・・でもいいかもしれませんわ。あのひとはわたしの大事なひとだと、感じるんです。ですから絶対に、彼は
わたしの良人ですわ」
その言葉に、質問をした薫だけではなく、剣心も弥彦も、「まあまあ」「いやいや」を繰り返していた妙と署長も、その場にいた全員が引き込まれるように
まじまじと茜の顔を見た。
皆の視線に気づいて、茜は恥ずかしそうにうつむいた。
★
「あ、いたいた剣心」
薫が彼の部屋の前に立つと、剣心は布団を敷いているところだった。半分だけ開いた襖に手を添えて、薫は部屋の中を覗きこむ。
「お風呂、今弥彦が入っているから。あの子烏の行水だから、じきに上がると思うわ」
「ああ、かたじけない」
振り向いた剣心は、洗い髪をおろした薫の姿に目を細めた。
「髪、またいい香りがする」
「あ、うん・・・・・・今つけたばかりだから」
たった今、風呂で香油をすりこんだばかりの髪からは、またあの甘い香りがしている。
その香りと、ふたりきりという状況に、つい昼間のことを思い出して―――ふたりは同時に頬を染めた。
「・・・・・・あの、薫殿」
「・・・・・・はい」
昼間あんな事があったものだから、どうにも照れくさいのだが―――でも、このまま行かせたくなくて。また、立ち去りがたくて。
敷布の上に腰を下ろした剣心は、どう引き止めたらよいのかしばらく言葉を探していたが、結局上手い台詞は見つからなかった。仕方なく、小さく咳払い
をして、薫に向かって「おいで」と言うように、軽く開いた腕を差し伸べた。
薫は、少し驚いたように目を大きくして―――そして、羞ずかしそうに微笑んで、彼の前で膝を折った。剣心は薫の腕を引いて自分の足の間に座らせる
と、背中から細い身体を抱きしめる。寝間着越しに触れる湯上りの肌が、あたたかく心地よい。まだ湿った髪に顔をうずめると、異国の花の香りがよりは
っきりと感じられた。
「・・・・・・いい香りでござるな」
「剣心、この香り、好き?」
「薫殿からしているから、好きなんでござるよ」
耳の後ろに唇を押しつけられながら言われて、背筋にぞくりと震えが走った。
昼間、つい「変な声」を出してしまった時と同じく―――くすぐったさと、それとは少し違う感覚に襲われる。
「・・・・・・明日」
「うん」
「茜さん、少しでも何か思いだせるといいわね」
剣心の唇や指につい反応してしまう自分が恥ずかしくて、薫はわざと関係ない話題を持ち出す。そんな心中を察して、剣心は「そうでござるな」と話を合
わせた。
「薫殿も、出稽古の前に寄って行くのでござろう?」
「うん、ご主人のお見舞いに行きたいから。稽古の後にも合流できたらいいな」
あの後、一同は赤べこで鍋を囲み、茜は署長に付き添われ診療所へと帰った。そして明日の午後は、弥彦と剣心と一緒に少し街中を歩いてみる予定
である。彼女はできるだけ良人の傍についていたいということだったが、ひょっとしたら、街の何処かに彼らを見知った人がいないとも限らない。その手
がかりを捜すためにも、外へ向かって動くべきであろう。
「事件の現場の付近と、あとは、遠方から出てきた者が行きそうな場所でござるかなぁ」
「警察のひとたちも、早く犯人を見つけられるといいわね。盗られたものが返ってきたら、また何か思い出すきっかけになるかもしれないし」
「それにしても、凄いでござるな」
「え? 何が?」
「全部忘れてしまっても、大事なひとのことは、ちゃんと判るものなんでござるなぁ」
眠ったままの彼のことを、迷わず「良人です」と言った茜。
あのときの彼女には、なんというか―――その場にいた全員が感動を覚えてしまった。そのくらい、茜の言葉からは良人に対する揺るぎない愛情が感
じられた。長い時間をかけて夫婦が築いた絆。それは、たとえ記憶が消えても彼らの中にしっかりと在り続けるものなのだろう。
「だからこそ、早く全部もとどおりになってほしいでござるな」
はやく彼が目覚めて、茜の記憶も戻って、弥彦に似ているという息子のもとに帰れるといい。それは剣心の素直な感想で、薫も同じように感じていたの
だが―――薫はもうひとつ、別に思うことがあった。
「・・・・・・ねぇ、剣心」
「ん?」
「あのね、わたしも、ちゃんと判るからね」
「・・・・・・え?」
「もし、わたしも自分の名前とか思い出とか全部忘れちゃうようなことがあったとしても、剣心のことだけはちゃんと判る自信あるから、安心してね」
そんなことを、ずっと考えていたものだから、話の流れでつい言ってしまったのだが―――いざ口にしてみると、なんだか大それたことを告白してしまっ
たように思えて、薫は慌てた。急激に頬に血がのぼってゆくのがわかる。後ろ向きに抱かれているので、顔を見られていないのが不幸中の幸いという
べきか。
「ごっ・・・・・・ごめんね、なんか変なこと言っちゃって! だいたいわたしたち、別に夫婦ってわけじゃないのに・・・・・・って、ひゃあっ!」
ぐい、と襟に手をかけられ、むき出しになった首筋に、噛みつかれた。
「・・・・・・そんな、力一杯否定されたら傷つくでござるよ」
「い、いやっ、わたし、そんなつもりで言ったんじゃ・・・・・・きゃあっ!」
指が、胸のふくらみを探るように動くのを感じて、薫はぎゅっと目を閉じた。ぐらり、と身体が傾き、反転する感覚。そして、背中に布団の感触。
目を開けると、昼間と同じように、剣心に押し倒されていた。
いや、昼間と違って、場所は布団の上。しかも身につけているものは寝間着一枚だから、格段に無防備な状態といえるかもしれない。
薄い布地を通して、触れ合ったところから剣心のぬくもりや指の感触が、はっきりと伝わってくる。
「けん、しん・・・・・・っ?!」
剣心の顔が近づくのを感じて、ふたたび反射的に目を閉じる。
口づけられて、小さく歯を立てられて、薫はおずおずと唇を開いた。入りこんできた舌に遠慮なく深く求められて、身体の内側から慄えが走る。
「ん、んっ・・・・・・!」
ぞくぞくする感覚と甘い息苦しさに思わず身をよじったが、剣心はその動きを封じるように、ぐい、と薫の両脚の間に自分の脚を割り込ませた。
身動きが、取れなくなる。裾が割れて、素足が付け根まで露わになるのがわかる。
薫は今更ながら、ああ、これって「続き」なんだわ、と思った。
昼間の、そして、あの京都の夜の約束の―――
「・・・・・・怖い?」
ふいに、顔をあげた剣心からそう問われて、薫は首を横に振った。けれど、触れ合った身体からは、恐怖と緊張から彼女が硬くなってしまっているのが
伝わってくる。剣心の顔に躊躇いの色が浮かび、身体を起こして薫から離れようとする。しかし、薫は腕をのばして、震える指で彼の袖をつかまえた。
潤んだ瞳で、まっすぐに剣心を見つめる。そしてもう一度、「怖くない」というように首を横に振ってみせた。
愛おしさに、胸が痛くなって、剣心は再び薫に覆い被さり強く抱きしめた。
はやく、身体も心も全部ひっくるめて、ひとつになってしまいたい。
苦しいくらいのこの感情を、もっとしっかりと君に伝えるために。
けれど。
・・・・・・あれ?
・・・・・・そういえば。
「薫殿」
「な、に・・・・・・?」
首筋に胸元に、繰り返される口づけを受けながら、薫は掠れた声で答えた。
「薫殿が拙者の部屋に来たのは・・・・・・何の用事でござったろうか?」
「・・・・・・え? えーと、それは、お風呂に呼び、に・・・・・・」
そこでふたりは、我に返った。
見計らったようなタイミングで、弥彦の足音が近づいてくる。
「剣心、風呂いいぞー・・・・・・って、なんだ、もう寝てたのか?」
剣心の部屋をひょいと覗いた弥彦は、まだそんな時間でもないだろうに、布団に入って寝そべっている剣心の姿に首をかしげた。
「あ、ああ弥彦。すまない、ちょっとうとうとしてしまって、横になっただけでござるよ」
「そうなのか? どこか具合が悪いとか」
「いやいやいや大丈夫でござる。ちゃんと風呂にも入れるでござるよ」
いやにはっきりきっぱり言い切られて、そしてその声は確かに元気そのものだったから、弥彦はとりあえず納得することにした。
「んじゃ、冷める前に入っちまえよ」
そう言って、弥彦は自室へと向かう。裸足の足音が遠ざかるのを確認してから、剣心は布団をめくった。
「・・・・・・行った?」
「行ったでござるよ」
「よ、よかったぁ・・・・・・気づかれたらどうしようかと思っちゃった・・・・・・」
ぷは、と大きく息を吐いて、薫はもぞもぞと布団の中から這い出る。先程、弥彦が近づいてきているのに気がついて、薫は爪先から頭まですっぽり布団
を被って身を隠したのだが―――よくよく見れば、剣心ひとりが寝転がっているにしては、不自然に布団のふくらみが大きいことがわかっただろう。弥彦
が気づいてくれなくて本当によかったと、剣心と薫は安堵の息をつく。
「大丈夫でござるか?」
「うん、ちょっと暑かったけど大丈夫。あー、びっくりしたわねぇ」
薫は可笑しそうに笑って、ぐしゃぐしゃになった髪をなでつけた。やはりというかなんというか、ついさっきまでふたりの間にあった甘い雰囲気は、どこか
に消えてしまっている。
「そうだったのよね、お風呂呼びにきたことすっかり忘れちゃってたわ。じゃあ剣心、冷めないうちに入ったらいいわよ」
「ああ、そうさせてもらうでござるよ。でも、薫殿」
「え?」
おもむろに薫に顔を近づけて、ちゅ、と触れるだけの口づけをする。
すぐに離れて、剣心は薫の瞳をじっとのぞきこんだ。
「拙者も・・・・・・もし何もかも忘れてしまっても、薫殿のことはちゃんと、判るでござるよ」
それは、先程薫が言ったのとまったく同じ意味の台詞。
またしても「中断」させられてしまったが、それはとても残念だったが、それでもこれだけは言っておきたかったのだ。
薫はぽっと頬を染めると、「ありがとう」とはにかみながら微笑んだ。
その夜、ひとりで布団に入った剣心は、敷布にかすかに残る甘い香りに気づき―――遅くまで眠れなかった。
3 「記憶と鍵と」へ 続く。