甘い香りが遠すぎる








     1 約束の続き
      






        かち、かちかちかち。


        「0000」
        かちり、がきん。


        「0001」
        かちり、がきん。


        「0002」
        かちり、がきん。


        「・・・・・・あの、姐さん」
        「なんだい?」
        「これを、ずっと続けるんすか?」
        「当然だろ、何か文句があるのかい?」
        「・・・・・・いえ、先が長そうっすね・・・・・・」







        ★







        「お茶、淹れたでござるよ」


        よく晴れた秋の日の昼下がり、剣心は居間に裁縫箱を持ち込んでちくちくと針を進める薫の横顔に声をかけた。
        「ここに置いていいでござるか?」
        「あ、ありがとう剣心。ちょうど飲みたいなって思ってたとこだったの」
        「弥彦の道着でござるか」
        「うん、あの子すぐにあちこち綻び作っちゃうんだから・・・・・・何着あってもすぐによれよれになっちゃうのよねぇ」
        手元を覗きこまれて、薫は針を止めて縫いかけの新しい道着を剣心にかざして見せた。

        胴着がすぐにくたびれるのは稽古に身を入れている証拠であるが、弥彦の場合はそれだけが原因ではない。出稽古の後、まっすぐ他の少年たちと一
        緒に遊びに出かけて草むらを駆け回ったり川に入ったりすることも多々あるため、そうなると嫌でもどこかにひっかけたり破ったりしてしまうのだ。最初
        のうちはうるさく注意していた薫も、最近は「男の子とはこういうものだから仕方がない」と諦めの境地に至っていた。

        「そういえば、弥彦は今日は夕方まででござるか?」
        「うん、帰りは夕飯時になるって」
        飲みかけの湯呑を盆の上に戻して作業を再開した薫を、剣心はなんとなく見つめる。視線を手元に落としているせいで、長い睫毛が白い頬にうっすらと
        影を作っている。
        道着ではなく、明るい色の普段着の袖口から伸びる華奢な手は、竹刀よりも針を持つのにしっくりくるように見えるが―――そう言ったら薫は憤慨する
        のだろうか。そんなことを考えて、剣心はつい口許を緩めた。


        「なに笑ってるの?」
        「笑ってないでござるよ」
        「うそ、笑ってるわよー」

        そう言う薫も、つられたようにくすくす笑う。
        今日のように弥彦が赤べこに手伝いに出かけると、自然とこうして、ふたりきりで過ごす時間が多くなる。

        つい先日、蒼紫と操が京都に、恵が会津に帰ってしまった。外国に向けて旅立った左之助は、今頃海の上だろう。
        彼らが東京から離れて、道場は以前より静かになった。友人たちが近くにいないのは寂しいが、彼らとの絆は距離で薄れてしまうようなものではないこ
        とを、剣心も薫も知っていた。それに、次に会う機会を作ってその日を指折り数えて待ったり、折々の便りを送りあったりするのも、きっとこれからの新し
        い楽しみになることだろう。彼らはそうやって、ずっと繋がっていける仲間なのだから。


        「・・・・・・おろ?」
        「ん、どうかした?」
        「いや、これは、お茶の香りでは・・・・・・ないでござるよな」
        そう言って鼻をひくつかせた剣心に、薫は「気づいた?」と、軽く首を振って髪を揺らしてみせる。
        ふわり、と。甘い香りが軽く立った。


        「髪に、何かつけているのでござるか?」
        「うん。香油をね、妙さんから貰ったの」
        それは花の香りがする髪あぶらで、最近巷の女性たちの間で流行っているらしい。妙も気に入って二本ばかり購入したらしいが、彼女は食べ物屋の娘
        なので店にいるうちはつけるのは憚られる。なので、折角買ったのになかなか使えないのでは勿体無いからと言って、薫に一本を譲ってくれたのだ。

        「ほんとは洗い髪の乾ききっていないところにつけるのが、一番香るらしいんだけど・・・・・・ちょっと試してみちゃったの」
        どうかしら? と首を傾げる薫に、剣心は膝で歩いて近づき、そっと髪に顔を寄せた。
        何の花なのだろうか、甘くて、でも品の良い香りが鼻孔をくすぐった。

        「いい香りでござるよ」
        「・・・・・・ありがと」
        耳元でささやくように言われて、薫はくすぐったそうに肩をすくめた。
        ふと、そのまま離れるのが惜しいな、と思って―――剣心は薫の頬に小さく口づけた。


        触れると、より鮮明に香りを感じる。
        きっと、香油のだけではなく、これは彼女の香り。

        唇をはなして、薫の顔を覗きこんだ。
        頬を微かに赤らめた薫が、えへへと照れくさそうに笑う。


        「・・・・・・薫殿」
        「はい」
        「もう少し、いいでござるか?」

        薫はぱちぱちと数度まばたきをしてから、縫いかけの道着を膝の上からおろして、畳の上に置いた。
        「どうぞ」
        少し、おどけたように。わざとすました口調でそう言って目を閉じた薫に、剣心は頬を緩めた。
        肩に手を添えて、笑った形のままの唇を、薫のそれに重ねる。


        あたたかい感触を確かめるように、押しつけて。腕を背中にまわして抱き寄せると、薫の膝が崩れた。
        繰り返し口づけながら、剣心はふたつの身体の距離がより少なくなるように薫を掻き抱く。

        触れるだけの、接吻。
        ここから先を、彼女はまだ知らない。



        不意に剣心は、初めて彼女に口づけた夜のことを思い出した。



        縁との闘いが終わった後、ふたりで訪れた京都。子供じみた理由から、薫と同じ部屋を用意してもらって。
        「手は出さないから安心しろ」と言っておきながら、あっさりその約束を反故にしそうになって。
        その時薫は、「襲っても、いいよ」と言った。
        一瞬、頭の中が真っ白になって、無意識に彼女にむかって手をのばしたが―――すんでのところで、理性が待ったをかけた。

        きっと、相当の覚悟で「身を任す許可」を口にしたであろう薫。
        目を閉じて、触れられるのを待っている彼女の睫毛が小さく震えているのを見て、やっぱり、今は駄目だと思った。


        理由は、右腕の怪我である。
        なんというか、片腕で彼女を抱くのは、嫌だったのだ。


        実際のところ、片腕でも何とかしようとすれば何とかなったのだろうけれど―――そういう理屈とも、また違って。
        こんな、世界でいちばん愛おしいひとを。
        誰よりも大切な、こんなにも好きでたまらないひとをはじめて抱くのに、両腕でしっかり抱きしめられないのは、薫に対して失礼だと思ってしまったのだ。
        それこそ、自分の勝手な我侭かもしれないけれど。
        とにかく、あの腕のまま薫と、初めてそういうことをするのは嫌だ―――と、思ってしまったのだ。

        あの夜、これから先、何年何十年先も一緒にいることを約束して、誓いのしるしに口づけを交わした。
        そして、「続きは怪我が治ってから」と、そんな約束もしたのだったが―――



        怪我は治ったが、まだ、ふたりは「続き」に進めていない。



        「ふ・・・・・・」
        長い口づけが苦しいのか、薫が小さく唇を動かして細く息を吐く。
        その唇を舌先でなぞると、驚いたように彼女の身体が硬くなったのがわかった。

        もっと欲しくなってしまったのは、甘い香りの所為かもしれない。
        剣心は、ぐい、と薫の腰を抱いた腕を手前に引いた。
        バランスを崩した薫は慌てて剣心にしがみついたが、耐えきれず、畳の上に仰向けに倒れこんだ。
        「きゃあっ!」
        長い髪が散って、また、ふわりと花の香りが立った。自分の身に何が起きているのかがわからずに、薫は目を見開いて覆い被さる剣心を見上げた。

        「ごめん、もう少し」
        倒れた薫を畳に押しつけながら、もう一度口づける。
        「えっ? あの・・・・・・ちょっと、けんし、ん・・・・・・っ?!」
        薫が戸惑った声をあげると、剣心は彼女の唇が開いたのをいいことに、そこから舌を差し入れる。
        「・・・・・・っ!」
        舌が、自分のそれに絡みつくぞくりとする感触に、薫の肩が震えた。



        わかっている。香りの所為、というのはただの言い訳だ。
        なんでもいいから、君をこんなふうにするための理由が欲しかっただけだ。



        いきなりこんな真似をして、噛みつかれるかな、とも思ったが、彼女からの抵抗はなかった。
        いや、抵抗したくても出来ないのかもしれない。怖いのだろうか、重ねて押さえつけた身体からは怯えたような震えが伝わってくる。
        けれど、そんな様子がまたたまらなく可愛くて―――拒絶されないのをいいことに、剣心は深い口づけを繰り返す。

        「ね・・・・・・ちょ、ちょっと、待って・・・・・・」
        やがて、薫は剣心の胸に手をつき、真っ赤になった顔を横に背けて掠れ声で言った。
        「く、苦しいの・・・・・・息、させて・・・・・・」
        酸素不足と甘い感覚に頭がくらくらする。今までされたことのない種類の口づけに、呼吸の仕方がわからなくなる。薫は頭を横に倒して剣心から逃れる
        と、喘ぐようにして新鮮な空気を吸い込んだ。剣心はそんな彼女の首にかかる髪を指でかき分けて、覗いた白い首筋に吸いついた。

        「ふぁ・・・・・・っ!」
        今のは、自分の声だろうか。勝手にこぼれ出てしまった声の甘さに、薫は驚いて口を手で覆った。
        構わずに、剣心はそのまま項に唇を這わせる。耳たぶに噛みつくと、指の間から堪えきれない声が細く漏れた。
        「や、あぁ・・・・・・」
        泣き出しそうな声。でも、剣心にはそれがたまらなく甘美に響いて、もっともっと聞きたくなる。
        もっと、欲しい。このまま、彼女を、すべて。

        剣心は、薫の手をとって口から退かせて、じっと彼女を見下ろした。
        視線に気づいて、薫はおずおずと首を動かして自分の上にいる剣心の顔を見る。



        「・・・・・・いい?」



        何を、とは言わなかった。ただ、それだけを訊いた。
        薫は、潤んだ瞳を一瞬だけ大きくして―――



        「・・・・・・いいよ」



        何も訊かず、ただ、それだけを答えた。
        そして、視線を絡ませたまま、ふたりは同時にほんの少し微笑んだ。



        「きゃ!」
        着物の袷を押し開くと、薫は露になりそうな胸を慌てて袖で隠した。
        「・・・・・・嫌?」
        鎖骨を指でなぞって、胸元に口づけながら尋ねると、薫は首を横に振った。
        「い、嫌じゃないけど、えっと・・・・・・恥ずかしくて・・・・・・」
        頼りない声が可憐で、愛おしさに胸が痛くなる。剣心は再び薫の唇を唇で塞いで、そのまま、片手を脚の方へと移動させる。
        いつの間にか裾は乱れて、膝まであらわになっていた。その裾の内側に、手を忍び込ませる。

        「んっ・・・・・・」
        腿のあたりを撫でられるのを感じて薫は身体を強張らせたが、それを拒みはしなかった。
        竦んでしまいそうな腕を懸命にのばして、精一杯しがみつくことで彼に応えようとする。


        剣心はその感触に、目眩を起こしそうになる。
        ずっとずっと、欲しかったこのひとが、今―――自分のものになろうとしている。

        指をのばす。
        もっと、彼女の奥に触れようとした―――その時。




        「たっだいまー!!!」




        玄関のほうから元気いっぱいに、弥彦の声が響き渡った。



        「っ!!!」
        剣心は弾かれたように腕を引っ込めて、身体を起こした。
        泡を食って薫の上から退けながら、うわずった声で「おっ、お帰りでござるー!」と叫ぶ。その拍子に、脇に置いてあった盆に足をひっかけて、湯呑が倒
        れて茶がこぼれる。熱くないのが、幸いだった。

        玄関で履物を脱いだあと、一直線に居間に向かってくる足音を感じて、剣心は一拍遅れて畳から身を起こそうとしている薫の姿を見た。帯も袷も緩んで
        着物は肩からずり落ちそうで、髪もすっかり乱れてしまって―――これはもう、いったん全部脱がないことには直しようもないくらいに着崩れてしまってい
        る。どう考えても、弥彦に見られるわけにはいかない格好だ。

        足音は、すぐそこに迫っている。と、今しがた蹴飛ばした湯呑が転がっているのが目に入った。剣心はそれをひっつかむと、剣をとった時もかくやという素
        早さで、襖に手をかけて廊下に飛び出した。
        ぴしゃりと襖を閉めると、すぐ目の前に弥彦がいた。間一髪で、居間の中を見られずには済んだ。


        「お、ただいま剣心。ちょっとさ、今日赤べこでさ―――」
        弥彦の言葉は、ずい、と目の前に突き出された湯呑に遮られた。


        「・・・・・・なんだ? 湯呑がどうかしたのか?」
        「茶をこぼしてしまったのでござるよ、すまないが弥彦、台所から布巾を取ってきてはくれまいか?」
        「は?」
        出し抜けにそう言われて、弥彦は目を白黒させる。
        「頼む」
        一本調子で、しかし妙に切羽詰った顔で頼み込まれて、弥彦は何がどうしたのかよくわからないままになんとなく圧倒されてしまい、「・・・・・・わかった」
        と頷いた。湯呑を受け取り、弥彦は素直に台所へと向かう。



        ・・・・・・危ない、ところだった。



        踵を返して居間に戻り、後ろ手に襖を閉めると薫と目が合った。
        まだ、頬は真っ赤で瞳は潤んだままで、乱れた裾からは白い脚がのぞいていて。思わずそこに視線が行ってしまい、剣心は慌てて目を逸らした。

        「あ、あの、ごめんね? なんか咄嗟に、声が出なくって」
        とてもじゃないけれど薫はあの状況で、弥彦に「お帰りなさい」と叫ぶことは出来なかった。それに対する謝罪だったのだが、彼女をそういう有様にした
        のは当然自分なわけで―――剣心は、ぶんぶんと首を横に振った。
        「い、いや、拙者のほうこそ、突然あんな事を・・・・・・すまなかった」
        改めて、気恥ずかしさに支配されてしまって。剣心は薫の顔をまともに見られないまま謝った。しかし、薫も剣心と同様に首を振る。

        「ううん、それは平気・・・・・・びっくりしたけど、嫌じゃ・・・・・・なかったもん」
        しどけない姿で、恥じらいながらのその台詞に、うっかり剣心は再び薫を押し倒しそうになった。が、その衝動をぐっとこらえて「今のうちに」と促す。薫は
        頷くと、胸元を押さえながら、足音を立てないように居間を出た。



        「・・・・・・はぁぁぁぁぁあ」
        残された剣心は盛大にため息をつき、ぺたりとその場に座りこんだ。



        怪我は治ったが、まだ、「続き」には進めていない。
        いや、実のところ怪我が治って包帯が取れてから、たった今を含め何度か「そういう雰囲気」になったことはあったのだ。
        しかし、その度に今のような具合に「中断」させられてきたのだ。

        いくらふたりきりになる時間が増えたとはいえども、それでもやっぱり、同じ屋根の下には弥彦がいるのである。完全にふたりきり、というわけにはいか
        ない。弥彦が寝入った後、夜中に薫を抱きしめたこともあった。が、何故かそういう時に限って、寝ぼけて何事かをぶつぶつ呟きながら厠に向かう足音
        が襖一枚隔てた廊下を往復したりする。
        そうなるともう、甘ったるい雰囲気など何処かに吹っ飛んでしまうし、そのうえ薫に「やっぱり、同じ家に弥彦がいると落ち着かないね」と恥ずかしそうに
        (そして困ったことに可愛らしく)言われたりして―――結局、それ以上先に進めないまま「おやすみなさい」となってしまうわけだ。


        あの、京都での夜。こんなにも好きなひとのことは、ちゃんと両の手でしっかりと抱きしめたいと思ったのも、「怪我が治るまでは何もしない」と言ったの
        も、紛れもなく本心からだ。
        しかし、今にして思うとあの夜、自分はこのうえなく貴重な機会をみすみす逃してしまったのではないかと―――


        「・・・・・・いやいやいや、それは違う、そんなことはないそんな後悔をしているわけでは」
        「何がだよ?」

        剣心が頭を抱えて自問自答していると、ひょいっとそこに弥彦が顔を出した。手には布巾を持っている。
        「ああ、かたじけないでござる。ところで弥彦、今日はもっと遅くなる筈だったのでは?」
        「うん、ちょっと事件があってさ」
        「事件?」
        受け取った布巾で畳を拭きながら、剣心は不穏な単語に眉を寄せる。

        「実は俺、剣心を呼んでこいって頼まれたんだよ。妙が、ちょっと聞いて欲しい話があるから来てくれないか、ってさ。夕飯おごるから薫も一緒にって言っ
        てたんだけど・・・・・・そういや薫は?」
        「ああ、部屋にいるでござるよ」
        じゃあ何故、裁縫箱と縫いかけの道着がここにあるのだろう、と弥彦は思ったが、まぁいいかとそれ以上は追及しなかった。


        「しかし、事件とは穏やかではないでござるな。何があったのでござる?」
        話と一緒に夕飯がついてくるくらいなのだから、そこまできな臭い事態ではないのかもしれないが―――赤べこでゆっくり聞かせてもらうとして、まず
        予備知識にと思って剣心が尋ねると、弥彦は、少し困ったような顔になって答えた。





        「俺の、母上だっていう客が来ているんだ」














        2 「身元不明」へ 続く。