甘え上戸 2
主人の膝の上で丸くなる子猫のように、安心しきった様子で剣心の膝枕に頭を預ける薫。
剣心が、結んだままのリボンをひっぱってみると、しゅるりと抵抗なくほどけた。
おろされた髪に指を梳き入れてゆっくりとかすように動かすと、薫は気持ちよさそうに「うふふー」と息を漏らす。
しかしながら、と剣心は記憶を探ってみる。
今まで何度か酒の席の薫を見てきたが、ここまで正体を失ってしまったのは初めてだ。別に今晩、特別とんでもない量を飲んでいたわけでもないだろうに。
やはり、気を張っていたのだろうなと思う。
志々雄の一件が落ち着いた後、京都ではばか騒ぎが大好きな翁の仕切りで何度も宴会が開かれた。当然薫もその席で飲んではいたのだが、大概にして彼女のは明るい酒で、酔えば笑い上戸になるのが常だった。それが今日はこの有様で―――恐らく、ようやく心から安心できたのだろう。
いくら操や翁たちと打ち解けて仲良くなったとはいえ、あんな事件のあとにしばらく故郷から離れた京都住まいでは、気がゆるまるものでもなかった筈だ。こうして東京に帰ってきて、薫にしてみればやっと、ほっと息をつけた筈だ。
そんな心境で飲んだ酒は、さぞかし効いたに違いない。ここまで酔ったのも無理からぬ話だろう。
「・・・・・・薫殿、すまなかった」
「ん?何がぁ?」
「何もかも、色々」
そういえば、ちゃんと謝っていなかったと、今更ながらに思い出す。
「勝手に別れを告げて、勝手にいなくなって・・・・・・薫殿を、傷つけた」
あの夜、別れの夜に薫が流した涙。
それを拭ってやることもなく、背を向けた。振り返ることなく立ち去った。
「薫殿を泣かせてしまって・・・・・・すまなかった」
「んー、そぉよぉ、まったくだわぁ」
責められて当然なのに、薫の口から発せられたのは緊張感のない返事。やっぱり自分は卑怯者だなと剣心は苦く笑う。
彼女が酔っているのをいいことに、どさくさに紛れるように謝るなんて。
今の薫に謝っても、明日の朝には忘れているだろう。それを承知で、剣心は続けた。
「あんなふうに別れを告げて、恨まれても仕方ないと思った。でも・・・・・・あんなふうに別れたから、いつか拙者のことは、忘れてくれるだろうと思ってもいた」
薫は無言だった。喋りながら剣心は、彼女の長い髪を手に遊ばせる。房にして軽く握っては、毛先の方へ向かって滑らせる。その感触がてのひらに気持ちよい。
「たとえ傷ついても、時がたてば癒されるものだから。薫殿は気丈だから大丈夫だろうと、勝手に思っていた」
ごろん、と薫は剣心の膝の上で頭を反転させる。それまで横を向いていたのが仰向けになって、まっすぐに剣心を見上げた。
僅かに焦点のぶれる瞳。けれど、剣心は彼女の視線をうけて、どきりとする。
「そりゃあ、スリ傷くらいのちっちゃい傷なら、時間がたてば自然に治っちゃうわよね」
ゆらりと腕をもたげて、ひらひらと指を宙に泳がせる。
蝶でも追うように動く指を、剣心は反射的に捕まえた。
「でもね、剣心?その傷が、致命傷くらいの大っきな傷なら、放っておいたら治らずに死んじゃうわ」
責めるでもない、おっとりした口調。しかし剣心は胸を突かれた。
「んー・・・・・・体の傷も心の傷も、おんなじだよね」
見えない傷を探るかのように、薫はもう片方の手で自分の胸のあたりを撫でる。
「でも、大丈夫。剣心戻ってきたから・・・・・・もう治ったもん」
膝の上で薫は、仰向けのまま笑みを浮かべる。その笑みの優しさにつられるように、剣心はつぶやいた。
「・・・・・・拙者も」
「んー?」
「拙者も、傷を負ったよ」
きゅ、と。指先を握る手に無意識に力がこもる。痛いくらいだろうに、薫は何も言わなかった。
「あの夜、別れを告げて・・・・・・拙者も、心が痛かった。拙者の場合自分で自分に斬りつけたようなものだったが―――」
ことん、と。握った手で胸のあたりを叩く。かすかに薫の爪の先が、剣心の胸に触れた。
「剣心は・・・・・・もう、治った?」
「ああ、治ったでござるよ」
そうだ、時間が経てば癒える傷もあれば、癒えない傷もある。
知らず知らずに負った傷を放っておいたがために、気づかぬうちに悪化して、命を落とすことだってある。
自分で勝手につけた傷は、まさにそんな傷だった。
時間が経つにつれ、薫のことを忘れるどころか想いは強くなるばかりで。
これが最後と思って抱きしめた感触。触れた頬に残った体温。その余韻は消えるどころか日に日に鮮明になり、苦しくて。
なのに―――あの夜勝手に突き放した彼女が、今こうしてここにいる。自分は今しっかりと、彼女の手を握っている。
「薫殿が、追いかけてきてくれたおかげでござるよ、ありがとう」
薫は、とろんとした瞳で、それでも嬉しそうに笑った。
「ね、引っ張って」
「ん?」
「起こしてー」
「あ、ああ」
言われるままに掴んだ手を引いて、背中を支えて起こしてやると、薫はむぎゅうと剣心の首に抱きついた。
薄い寝間着ごしに彼女の胸のふくらみが押しつけられて、剣心の心臓がどきりと跳ねた。
「か、おる・・・・・・」
「もう、何処にも行かないでね」
はっ、と息を飲む。
今晩何度目かの、懇願。
もう、傷は治ったと言ったのに。
しかし剣心は感じてしまった。彼が負わせた傷は、彼女の心に、痕になって残っている。
それが、こんなにも彼女を不安にさせるのだろう。
「何処にも、行かぬよ」
言いながら、剣心は薫の身体に腕をまわす。
細い肢体、夜着一枚だと余計に小さく感じる。
「何処にも行かない。約束する」
むしろ―――きっと俺はもう、何処にも行けないだろう。
もうきっと俺は、彼女を失うことは出来ない。
「ん・・・・・・よかったぁ・・・・・・」
力をこめて抱きしめると、薫の唇から切なげに息が漏れた。
「ね、剣心」
「うん」
「だいすき」
小さな囁き。
けれどそれは聞き間違えようもない一言。
「剣心、だぁいすき・・・・・・」
うっとりと呟くような声は、まだ酔っているせいだろう。
しかし剣心はそんなことを考える余裕をすっかりなくしていた。
許されないことだと思っていた。彼女に触れることは。
でも―――許されるのだろうか。
彼女は、許してくれるのだろうか。
くっついていた頬を離して、彼女の顔をのぞきこむ。
ごく近い距離で、薫が笑った。まだ残る酒の匂いと彼女の甘い香りが鼻孔をくすぐり―――ああもう限界かも―――と、剣心は頭の隅で考えた。
「・・・・・・拙者も」
その言葉とともに、薫の唇に自分のそれを、強く重ねる。
抵抗はされなかった。腕を剣心の首に絡めたまま、酒気が残る柔らかい身体を遠慮なく彼に預けてくれる薫に、剣心はめまいを感じそうになる。
「好きだ・・・・・・」
息を継ぎながら、言葉を紡ぐ。離れるのが惜しくて、繰り返し唇を押し付けた。
軽く開かれた薫の唇から、苦しげな息がこぼれたが、彼女は逃げようとはしなかった。されるがままに、幾度も降ってくる口づけを受けてくれる。
もう、これは―――押し倒してしまっても構わないだろうか?
相手が酔っているのをいいことに、とか、もうそんな事を考えるどころでは既になく。
ひたすらに彼女が愛しくて。
ひたすらに彼女が―――欲しくて、もう我慢できなくて。
抱きしめたまま体重をかけると、均衡を失いそうになった薫はすがりつく手にしっかりと力をこめてきた。腰にまわした腕を強く引いたら、薫の身体はぐらりと傾く。
「あんっ・・・・・・」
彼女を離さないまま、布団の上に倒れ込む。
のしかかる剣心の重みが苦しいのか、薫の唇から喘ぐように息がこぼれた。剣心はその呼吸すら奪うかのように、更に深く薫を求める。
そのまま、彼女を欲しい想いに忠実に従って。剣心が薫の寝間着の袷を押し広げようとしたとき。
―――廊下のほうで、なにか大きなものが倒れる音がした。
「・・・・・・え?」
「・・・・・・あれぇ?弥彦じゃない?」
敷布の上、剣心の身体の下で、薫が呑気な声で言う。
剣心は慌てて身体を起こし、廊下に続く襖を開ける。そこには弥彦が転がっていた。
「や、弥彦?」
「・・・・・・ぐぇ、きぼぢ悪ぃ・・・・・・」
今にももどしそうな気配の弥彦に剣心はぎょっとして駆け寄った。
「ちょ、弥彦!もう少し我慢しろっ!」
口を押さえ、青い顔で呻く弥彦を素早く助け起こして、抱えるようにして厠へむかって走り出す。
「あらあら、大変・・・・・・」
一拍おいて布団の上に起き上がった薫は、ばたばたと遠のく足音を聞きながらぼんやりと呟き、それから小さく欠伸をした。
・・・・・・左之の奴、なにが「朝まで起きないだろう」だ―――
剣心は厠でげえげえ胃の中味を吐き出す弥彦の背をさすってやりながら、胸の中で左之助にむかって呪詛をつぶやいた。
吐くだけ吐いてどうにか落ち着いた弥彦にうがいをさせて、冷たい水を飲ませるとどうにか落ち着いた様子になった。部屋に連れて行ってやり、まだぐったりと顔色の悪いのを布団に寝かしつけてから、やれやれと薫の部屋に戻った、のだが。
「・・・・・・まったく、もう・・・・・・」
ぺしんと額に手をやって、唸り声とともにため息をついた。
とって返した部屋で、薫は敷布の上ですうすうと寝息をたてていた。
「・・・・・・薫殿ぉ、そりゃないでござるよ・・・・・・」
未練たらしく布団の横にしゃがみこんで、薫にむかって愚痴をこぼす。
しかし彼女はすっかり熟睡してしまったようで、仰向けになって眠る胸は呼吸にあわせてゆるやかなリズムで上下している。
・・・・・・ああ意外と大きいかも。確かにさっき抱きつかれたときの感触はかなり気持ちよかったし―――いや、そうじゃなくて!
その様子を見ながら、剣心はつい不埒なことを考える。
いっその事このまま襲いかかってしまおうかと乱暴な考えも頭をよぎったが―――当の薫の、あまりにも無邪気な寝顔を前に、その考えは一瞬で霧散した。
「・・・・・・明日になったら、今夜のことは忘れているんでござろうなぁ」
これだけ酔ったのだから、まず覚えていることはないだろう。苦笑まじりで呟いてから、布団を肩のところまで掛けてやる。
いったいどんな夢を見ているのか、相変わらず彼女の唇はふんわりと笑みを浮かべていた。
「・・・・・・おやすみ」
その唇に、そっと触れて、すぐに離れる。あまり長いこと味わっていたらまた変な気分になってしまいそうだったから。
薫が目を覚まさないように、剣心は音をたてないよう注意深く襖を閉め、わずかに肩を落としたながら自室にむかった。
(続く)