甘え上戸 3
「・・・・・・あれぇ?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
その瞳に届く光がいつもより強いことを薫は不思議に思い―――はっとしてあわてて身を起こした。
「あちゃあ・・・・・・寝過ごしちゃった・・・・・・」
ふるふると首を左右に振って、眠気の残滓を振り落とす。
いい天気である。陽の光は普段起きる時間より高くのぼっていて、薫に現在の時刻を告げてくれていた。
「でもまぁ、今日の出稽古は午後からだし・・・・・・」
つぶやきながらもぞもぞと寝間着を脱ぐ。剣心もそれをわかっていて、あえて薫を起こそうとしなかったのだろう。
昨日は、久しぶりに東京でみんなと騒げるのが嬉しくて、たっぷり酒も口にしたし、夜中まではしゃいでしまった。帰ってきたという安心感で気がゆるんでしまったのだろうと薫は反省する。
「薫殿?起きたでござるか?」
襖の向こうで剣心の声が聞こえた。
「あ・・・・・・っと、ちょっと待って!」
あたふたと着替えを済ませてから、薫は襖を開ける。
「おはよ!剣心!」
「おはよう薫殿、大丈夫でござるか?」
「え、何が?」
「昨夜、ずいぶん飲んでいたようだから。二日酔いになっていないかと思って」
そういえば、と薫は記憶をたどる。とりあえず、気分は悪くないし頭痛も吐き気もない。
「んー、それは大丈夫みたい・・・・・・」
「・・・・・・そうか、それはよかった。ちょっといつもよりは遅いが、朝餉、食べるでござろう?」
「作ってくれたの?」
「みんな昨夜は遅くまで飲み食いしていたから、粥にしてみたでござるが」
「わ、さすが剣心、気が利くっ!」
ぱぁっと、明るい笑顔を向ける薫はあまりに「いつも通り」すぎて―――剣心は、さて、どこまで忘れているだろうかと小さく首を傾げた。
「・・・・・・ところで薫殿、昨夜どうやって帰ってきたか、覚えているでござるか?」
薫は一瞬きょとんとしてから、えへへと照れくさそうに笑った。
「ごめんね、なんかちょっと記憶飛んでるみたい・・・・・・そういえば何時帰ってきたのか覚えてないや」
剣心は、ほぅと息をついた。
残念なような、でも少し安心したような、複雑なため息。
「今度左之に礼を言うといい、昨夜は薫殿も弥彦も赤べこで寝入ってしまったから、拙者と左之とで背負って帰ったでござるよ」
「やだっ!そうだったの!?」
薫は恥ずかしそうに両手で頬を覆った。
この分では、告白やら接吻やら押し倒されたことやらも忘れていることだろう。
「ああ、噂をすれば」
玄関のほうで左之助の聞き慣れた声がした。
大方また、朝飯にありつきに来たのだろう。
「あ、ほんとだ、ちょうどよかった!左之助ー!おはよー!」
ぱたぱたと慌てたように薫が声のする方へ駈けてゆく。
きっちり帯の結われた背中を見送ってから、剣心はもう一つため息をつき、台所に戻るため回れ右をした。
「よぉ嬢ちゃん」
ほいっと片手を挙げて左之助が挨拶をしてくる。彼がなんだかにやにやと妙な笑いを浮かべているのが気になったが、とりあえず薫は礼を言った。
「昨夜は面倒かけてごめんね、どうもありがとう」
「へ?何が?」
「赤べこから背負ってきてくれたんでしょう?」
そこで漸く左之助は、ああと得心行ったように頷いた。
「別に、たいした苦労じゃねーよ。弥彦なんざその気になれば指でつまんで運べるくらいなんだしよ。礼は今日の朝飯でいいぜ」
「今朝はお粥だけど・・・・・・え?左之助、弥彦って?」
「朝粥かぁ、精進料理みてぇだなぁ・・・・・・ん?だから弥彦なんざ軽いもんだって」
「左之助が、わたしを背負って帰ったんじゃないの?」
剣心は、「二人が寝入ってしまったから左之助と背負って帰った」と言っていた。彼らと自分達の体格からいって、剣心が弥彦を、左之助が自分を背負ってきたものだと考えていたのだが――― しかし左之助はひどく楽しそうに口元をきゅっと上げた。
「まぁ、普通はそう思うよなぁ。俺も最初は嬢ちゃんのほうを背負ってやるつもりだったんだけど、剣心のやつが嫌がってさ」
「・・・・・・え」
「だから、俺は弥彦を、剣心は嬢ちゃんを背負って帰ったの」
「それって・・・・・・」
「あいつ、嬢ちゃんを他の男の背中に乗せるのは嫌だ、ってさ」
言われた言葉を、頭の中でくりかえし、その意味を確認する。そして薫は、自分の頬に血が上るのを感じた。
左之助がそこにいるのを一瞬で忘れてしまったかのような素早さで、きびすを返して台所に向かう。
左之助は相変わらずの笑いを顔に貼りつけたまま、薫の背中に手を振った。
「剣心!」
台所に飛んでゆくと、剣心がのんびりとこちらを振り返った。
「ああ薫殿ちょうどよかった。これ運ぶのを手伝って・・・・・・」
「・・・・・・ありがとう」
ぴたりと、お菜を盛り付ける剣心の手が止まる。
「左之助から聞いたの・・・・・・私をおぶってくれたの剣心なんでしょ?ごめんね、わたし重かったでしょう?」
「あー・・・・・・いや、そんなことはちっとも・・・・・・」
剣心は些か照れたように薫から目をそらしながら、しゅるりと袖をあげていた襷をほどいた。
「でも、せっかく剣心におんぶしてもらったのに、覚えてないなんて勿体無いことしちゃったなぁ」
薫が小さく舌を出して、えへへと笑う。
「そのあたりは、覚えていないんでござるな」
「だって眠っていたんだもの、覚えていろって言われても無理よぅ」
困ったように弁解する薫に、剣心は確かにと頷いて笑う。
「・・・・・・そろそろ、朝餉にしようか」
「あ、お膳運ぶわね」
「かたじけない、じゃあ弥彦の分は部屋に持っていってやったほうがいいかな」
「あら、あの子食べられるかしら」
薫はうーんと考えるように、首を傾げた。
「食べられる、とは?」
「だって昨夜、あんなに真っ青だったじゃない、ずいぶん吐いたんでしょ?ひどい二日酔いになってるかも・・・・・・」
「そこは、覚えているんでござるな」
「そりゃ覚えてるわよー、あんなに廊下で派手な音、たてて・・・・・・」
答えているうちに、喋る速度が次第にゆっくりになってゆく。
それに合わせたように、白い頬が薄紅色に染まりだした。
まるで、昨夜の酔いがよみがえったかのように。
「思い出した、でござるか?」
「・・・・・・え、っと」
急速に鮮明になる昨夜の記憶。
青い顔の弥彦が、部屋の前の廊下で転んで、その、前は―――
「・・・・・・おもい、だし、た・・・・・・」
薫は真っ赤になってしまった顔を隠すように手で覆いながら、逃げるようにそろそろと後ずさる。
昨夜口走ったことや剣心に言われたこと―――されたことが頭の中でぐるぐる回って、照れくさいのは背負ってもらったことの比ではなくて―――
「薫殿」
ごく近くで剣心の声がした。
後ずさった先の壁に、薫の背中がぶつかった。これでは逃げるどころか、却って追いつめられた格好だ。薫はどんな表情をしたらよいのかわからず、顔を上げられない。
「じゃあ、これも・・・・・・覚えているでござるか?」
ふわりと、頬にあてた手に剣心の手が重ねられた。
そっと指を握られて、薫はおそるおそる瞳を彼に向ける。
とても近い距離で、絡まる視線。こつん、と額と額が軽くぶつかった。
「覚え・・・・・・てる」
薫は、自分ほどではないが―――剣心の頬も、かすかに赤く染まっているのに気づいて、胸に暖かな感情がこみ上げた。
「それこそ、覚えていないなんて、勿体無いわ・・・・・・」
恥ずかしそうに、小さな声でつぶやく。
ぴったりと身を寄せあう剣心には、当然しっかりそれは伝わって―――
「もう一度、いい・・・・・・?」
断る理由など何もなかった。
薫のおとがいが、小さく上を向く。剣心の声に誘われるように、瞳を閉じた。
昨夜の再現のように、彼女の可憐な唇に触れようとした、その時。
「うぉーい腹減ったぞー!メシまだかー?」
突如響いた左之助の声に、ふたりは口づける寸前の距離で固まった。
「・・・・・・あ、れぇ?」
のんきな顔で台所に現れた左之助も、そんなふたりを見て動きを止める。
一番先に我に返ったのは薫だった。
ばばっと素早く剣心の手をふりほどき、背にしていた壁と彼との間からすり抜ける。
「わっ、わたしちょっと弥彦の様子見てくるからっ!」
左之助の前を通り過ぎてぱたぱたと高い足音をたて、走り去る。その音がかなり遠のいたところで漸く左之助は口を動かした。
「悪ィ・・・・・・マジで、邪魔しちまった?」
弥彦の部屋に入ろうとした薫は、台所のほうでがらがらがっしゃんと何か大きなものが倒れるような音がしたのを聞いた。
朝ご飯が無事だといいけれど、と冷静に考えてから―――ふっと、指先で唇に触れてみる。
昨夜の余韻がまだ残っているようで、また頬が熱くなってきた。
もう、何処にも行かないと約束してくれた彼。
それなら、ずっと一緒にいてくれるなら、「もう一度」の機会なんて、あっという間に来るかもしれない。
照れくさいけれど、幸せな笑みが自然と浮かんでくる。
「剣心・・・・・・だぁいすき」
こっそりつぶやいて、薫は弥彦の部屋の襖を開けた。
(了)
モドル。