甘え上戸













さらり、と。
つややかな黒髪がひとすじ、流れて剣心の頬を滑った。




足を踏み出す度、ふたりぶんの重みに廊下の床がきしりと軋む。
薫が起きるのではないかと、ちらりと首をよじって後ろを見たが、剣心の背中に身を預け、すっかり熟睡しているのか気がつく気配はない。

背中全体に伝わってくる体温。首筋にかかる暖かな息。柔らかな重さを感じながら剣心は、なんとなく胸の奥がくすぐったいような気分になる。

薫の部屋の襖を開けて、いったん畳の上に彼女を横たえる。慌ただしく布団を広げ、そっと抱き上げて身体を移してやると、薫はころんと寝返りをうった。

「んんん・・・・・・」

微かな声を漏らして敷布に頬をすり寄せる仕草が可愛らしくて、剣心はつい頬をほころばせながら、布団の傍らに腰をおろす。

細い身体を丸めるようにして横になった薫は、自分の腕を枕にするような姿勢に落ち着いて、規則正しい寝息をたて始める。

高い位置で結った髪はそのままなので、首筋は無防備に露わである。いつもは白いそこはうっすらと朱がさして、いつもより数倍、艶めかしい。先程まで開かれていた宴席で、さんざん注ぎ込まれた酒精のせいだ。

熟れた果実の一房のようなふっくらとした唇は、何か楽しい夢でも見ているのだろうか、笑みの形をに柔らかく結ばれている。
閉じられた扇形の濃い睫が陰を落とす頬は、項より僅かに濃い色に染められており―――ふと、剣心はそこに触れてみたい誘惑に駆られた


今まで何度か、その頬が涙で濡れるのを見たことがある。まだそれを自分の手で拭ってやったことはない。そんな事をするのは許されないと思っていたから。
でも、今回の事で―――志々雄真実に纏わるあれこれの事件を経て、少しずつ、その考えは改まってきていた。


誘われるように、手を伸ばす。

薫は目を覚まさない。
多分平素よりも熱を帯びているであろう彼女の温度を、指先で確かめようとしたとき―――



「おい、剣心」
 



突然降ってきた声に、びくりと手を引っ込めた
「弥彦の奴、布団に転がしてきたぜ、アイツなんかうなされ始めてたけど大丈夫かよ・・・・・・って、あれ?」
不覚にも、左之助が背後に現れたのに気づかなかった。しかも、反射的に振り向いてしまった。
左之助は、酔ったわけでもなかろうに赤くなっている剣心の顔を見て、それから薫の寝顔に目をやってから、にんまりと笑う。

「悪ィ、ひょっとして、邪魔しちまった?」
微塵も悪びれた様子もなく、ぬけぬけとそう言う横を、剣心は立ち上がり憮然としながらすり抜けた。


―――すっかり、失念していた。道場には左之助も弥彦もいるということを。







剣心に薫、そして弥彦に左之助に恵。京都に行っていた一行が東京に戻ってきたことを受け、妙の音頭で「おかえりなさい会」が催されたのは今夜のこと。
赤べこを会場に、日暮れ時から始まった宴会は、店が閉まり他の客が帰ってからも続き、夜も深まってから漸くおひらきとなったが、その間に薫と弥彦が酔いつぶれてしまい―――二人ともぐっすり眠りこんでしまった。
流石に剣心も二人を一度に担いで帰ることはできないので、左之助に手伝ってもらったのだが―――薫の寝姿につい気を取られた剣心は、そのことを剣心はうっかり忘れていた。


「そんじゃー俺は帰るわ、お疲れさん」
「ああ、かたじけないでござる」

剣心と同じく、しこたま飲んだ割には、左之助もたいして酔った風ではなかった。

「今見てきたんだけどよ、弥彦、唸ってるのは収まってきてたぜ」
「それはよかった」
「だからよ」

左之助は、玄関口で意味ありげに笑い、後に続ける声をひそめてみせる。

「多分、朝まで起きねーんじゃねえの?」

「は?」

「だーかーらー!チャンスだってことだよ」
 

僅かに、その言葉の意味するところを理解するのに、時間がかかった。
だから左之助は、剣心が彼の脇腹をどつこうとして繰り出した拳を間一髪でかわすことができた。
 
「んじゃ、嬢ちゃんとごゆっくりな」

からから笑いながら去ってゆく左之助の後ろ姿をひと睨みしてから、剣心は家の中に戻る。


「寝込みを襲うほど・・・・・・卑怯ではないよ」

ひとりごちて、苦笑する。

その言い訳はむしろ、そんな度胸のないことを弁解しているようだと思ったから。






「・・・・・・けんしぃん?」



薫の声が聞こえた。目を覚ましたらしい。
弱々しく自分を呼ぶ声に、気分でも悪いのだろうかと剣心はあわてて薫の部屋に向かう。
「薫殿?大丈夫で・・・・・・」
 

襖を開けた剣心は、はっとして途中で言葉を失う。

布団の上で身を起こして、こちらを見上げる彼女の目には、今にも零れそうに涙がたまっていた。


「薫殿?一体何が・・・・・・」
「ああ・・・・・・よかったぁ」

目が合うなり、かくん、と薫の首が大きく前に倒される。そのはずみで涙がひとしずく、落ちて薫の手の甲を濡らした。

剣心は膝をついて、明らかに安堵の声をあげた彼女の顔をのぞきこむ。

「薫殿?」

「よかった・・・・・・剣心、ちゃんといた」
「は?」
「らってぇ、目が覚めたら、剣心いないんらもん」
酔いの方はまだまだ醒めないらしく、舌っ足らずな口調で薫が答える。

「らからぁ、また剣心、どっかに行っちゃったかと思って・・・・・・」

そう言ってから、ふにゃあ、と笑顔を向けてくる。



酔っぱらったこの状態でこんな事を言い出すだなんて―――ああ、ほんとに俺は今回の件でこの娘に心配をかけてしまったんだなと、剣心の胸にもう何度目かしれない反省の念がよぎった。


「すまない薫殿、大丈夫だから、安心して寝むといい」
「・・・・・・何処にも、いかない?」

「ああ、何処にも」
「・・・・・・あは、よかったぁ」
花がほころぶような笑顔につられて、剣心も笑みを返そうとして・・・・・・その頬が固まった。


薫が、いかにも安心して満足しきった表情を浮かべながら―――剣心のいる前で、帯をときはじめたからだ



「かっ、かおるどの、何を・・・・・・」
「ん?寝間着に、着替えようと思って」
「あ、そっ、そうでござるよな、じゃあ拙者はこれで・・・・・・」

あたふたと背を向けて立ち上がろうとした剣心を、薫の悲痛な声が引き止めた。

「行っちゃう、の?」

はた、と剣心の動きが止まる。

「何処にも行かないって、言ったのに・・・・・・」


寂しげな声音に、思わず剣心は振り向く。
その目前で、緩んだ帯締めが滑り落ち、きっちり結ばれていた帯がばさりと敷布の上に崩れる。剣心は慌てて、再びあさってに視線を逸らせた。


「薫殿、えーと、その」

「うん」

「その、ちゃんと・・・・・・ここにいるから・・・・・・」

「うん、ちゃんと、いてね?」
 

確認するような返事とともに、衣擦れの音が聞こえる。
着物が肩から落ちて、腰紐がゆるんで、襦袢を脱ぎ捨てる。そんな音を背中で聞きながら、耳だけで着替えの様子を想像して、剣心はごくりと唾を飲んだ。
 

「んー、寝間着どこだったけ・・・・・・・あ、あったあったぁ」

薫の呑気な呟きからは、「誘っている」という気配は微塵も感じられなかった。本当に単に酔っぱらって、羞恥心をきれいさっぱり忘れ去っているのだろう。

これで彼女が少しでも秋波を送ってこようものならば、剣心の理性もふっとんでいたことだろうが―――酒のせいでいつもより一層無邪気な薫の振る舞いに、辛うじて踏みとどまる。

あくまでも、今のところ辛うじて、ではあるが。
 





「お待たせぇ!」

ぽん、と両手で軽く肩を叩かれた。振り向くと夜着をまとった薫が、まだほんのりと赤い頬で、うふふと笑っている。
「・・・・・・薫殿、えーと」
「うん?」

「もう遅いゆえ、そろそろ寝たほうが」

「うーん」

薫は、ぴたりと剣心に身を沿わせ、布団の上を膝で歩くようにしながら、剣心の横にずるずると移動する。

「まだ、眠くない」

「・・・・・・」

「らって、さっきまでたっぷり寝てたんらもん」

「・・・・・・」
 


剣心は答えられなかった。
と、いうのが、自分の横に寄り添った薫がぱたんと身を倒し、膝の上に頭を投げ出したからで――― 


「もうちょっとだけ、起きていたい・・・・・・」

子供が夜更かしをねだるような口調。
他意はないとわかってはいても、突然膝枕の体勢をとることになった剣心は、再び唾を飲み込む。
「もうちょっとで眠くなるから・・・・・・ね?おねがい」

「・・・・・・わかったでござるよ」
降参、とばかりに剣心は薫の頭を撫でた。






(続く)