―――彼の吐息を、こんなに近くに感じたのは初めてであった。
互いに互いを慕っていることは判っていたが、其を口にしたことは無かった。
否、口にしてはならないと思っていたのだ。
しかし、想いは伝えられないからこそ更に募る。
嵩を増した気持ちは、やがて堰を切って溢れだす。今がまさにその時なのだろう。
胸の奥からこみ上げてくる想いの奔流に身を任せ、そっと瞳を閉じ―――
「・・・・・・薫?」
思いがけず耳元で聞こえた声。
と、同時に背後から伸びてきた腕に突然肩を抱きしめられた。
「きゃあああああっ!」
不意打ちに驚いた薫の口から悲鳴が飛び出す。
しかし、抱きしめた腕の主である剣心は、その大音声にも眉ひとつ動かさずに、するりと後ろから薫の手にあった本を抜き取った。
「や、やだっ、驚かさないでよっ!」
「さっきから声をかけていたでござるよ? 薫殿の耳には入っていなかったようだが」
そう言われて、薫はきまり悪そうに目を泳がせた。「寝る前に少しだけ」と思い、寝間着に着替えて布団の上にぺたんと座り込んで読み始めた本だった
が、いつの間にか話しかけれても気づかない程に熱中してしまったらしい。
「こんな時間に根をつめて読んでは、目が悪くなるでござるよ」
言いながら片手で器用に頁をめくる剣心に、薫は慌てて本を取りかえそうともがいた。しかし、がっちり拘束する腕に阻まれてうまくいかない。
「ちょ・・・・・・ねぇ、借り物なんだから、乱暴に扱わないで・・・・・・」
「いかがわしい本?」
「そ、そんなわけないでしょっ?!」
「だって薫殿、うなじまで赤くなってる」
耳にぴたりと口を添えて囁く声がくすぐったくて、薫は肩を震わせる。
「ほら、真っ赤」
唇が耳朶を辿って降りてきて、細い首筋に強く吸い付かれる。薫は甘い声が漏れそうになるのを必死で堪えながら、足をばたつかせて抗議する。
「もー! いかがわしいことしてるのは剣心のほうでしょー!」
「あはは、違いない」
剣心は薫を捕まえていた腕を外して、その手でくしゃしゃと彼女の髪を掻きまわした。
「で、誰から借りた本でござるか?」
「・・・・・・妙さんから。今、女の子の間で流行っているんですって」
剣心の胸に背中を預けて寄りかかったままの姿勢で、薫は仕方ないというふうに解説を始める。
その続き物の小説は、いかにも若い女性が好みそうな甘く切ないラブストーリーだった。
時は戦国、やんごとなき生まれのお姫様と、彼女を幼い頃から守ってきた忍との、身分違いの恋の物語である。
互いに好きあっていることは判っていても、想いを交わすことはできない。
守り守られるふたりは常に一番近い存在であり、それが故に苦悩も深く―――
「・・・・・・面白いんでござるか? それ」
「あっ何その馬鹿にしたような台詞! 面白いわよーこのふたりの距離感が切なくって! 近いのに遠い存在っていうのが胸に迫るの!」
「なになに? 互いの睫毛が触れ合うほどの距離で見つめられ、胸が苦しくて目を閉じた。彼の腕に支えられながらゆっくりと身体は傾き―――」
「音読しないでぇぇぇぇっ!」
再び真っ赤になった薫の頭突きが顎に命中し、剣心は「うごっ」と変な呻き声をあげた。
「・・・・・・やっぱりちょっと、いかがわしいのではござらんか?」
「だーかーらー! よく読んでよ! 際どいことは一切書かれていないでしょ?」
顎をさすりながらも剣心は、文章を目で追うのをやめなかった。
そしてなんとなく、薫がこれを読んで赤くなっていた理由が、判る気がしてきた。
「しかし薫殿、書かれてはいないが明らかにこの後このふたりは」
「あーん! だから言わないでそーゆー露骨なことはー!」
これ以上攻撃されないように、剣心は再びしっかりと片腕で薫の肩を押さえ込む。
「なんとなーく匂わせるくらいで筆を止めるからこそ、想像の翼が自由に羽ばたくのよ。そういうところが女の子に人気なんですって」
「想像ねぇ」
だとしたら、今腕の中で可愛らしく頬を染めている彼女はどんな想像をしていたのだろうかと、剣心はちらりと薫を見下ろした。
「それに・・・・・・身分を越えた恋って、なんだか素敵でしょう?」
うっとりと呟く声。成程、こんなふうに巷の少女たちは物語の世界に心を遊ばせるのかと、剣心は納得する。
片手でめくっていた本を、そっと布団の脇に置く。
「まぁ、努力と根性さえあれば、身分の差も何とかなるでござろうな」
「そこは、『愛があれば大丈夫』っていうべきじゃないの?」
剣の修行じゃないんだから、と薫が呆れたように言う。
「愛があるのは大前提でござろう。そこから先は、当人たちの努力次第で道は拓ける」
「・・・・・・うん、そうね。確かにそうだわ」
薫はくるりと身体を反転させ、剣心の胸に頬を寄せた。
「今の、名言ね。この作者さんに聞かせて続きに使ってほしいな」
くすくす笑う薫を抱きしめて、剣心はおもむろに体重をかける。
「え? ちょっと、剣心?」
「『腕に支えられながら、ゆっくりと傾く』でござったか?」
「きゃ・・・・・・!」
傾けられた細い身体が、敷布の上に押しつけられる。
小説では、そこから先は描写されていなかった。
この後は、読者の想像次第というわけだが―――
「想像よりは、実地のほうがよいでござろう?」
言うなり剣心は、薫の唇を自分のそれで塞いだ。
★
それから数日後の夜のこと。
剣心が寝所の襖を半分ほど開けると、おろした黒髪に隠れた薫の背中が見えた。
僅かに俯いた姿勢から、これはまた読書中かなと見当をつける。
足音をたてないようにしながら部屋に入り、薫の後ろに立ち、手元を覗き込む。
先日のように夢中になって没頭しているのだろうかと思ったのだが―――その薄い肩が震えているのに気づいて、剣心ははっとした。
「・・・・・・剣心?」
気配に気づいて、薫が振り向く。
涙で濡れた黒い瞳が、剣心の姿をとらえた。
「薫殿?! どうしたんでござるか?! どこか具合でも・・・・・・」
慌てて膝を折った剣心に、薫はぶんぶんと首を横に振った。その拍子に、睫毛に光っていた涙の粒が零れて頬を滑る。
「だ、大丈夫、なんでもないから」
「何でもない訳ないでござろう? 泣いているではござらんか」
「・・・・・・けんしん」
急に力が抜けてしまったかのように、薫は剣心にしなだれかかる。
「ほんとに、なんでもないの」
「しかし・・・・・・」
「・・・・・・死んじゃったの」
「え?」
きゅっと剣心の寝間着の袷を握りながら、薫は呟いた。
「この本・・・・・・」
薫は膝元に手を伸ばした。そこに伏せてあったのは、見覚えのある題名の本。
先日読んでいた本の、続編のようだ。
「あのね、しゅ・・・・・・主人公のふたりが、死んじゃったの・・・・・・」
「・・・・・・は?」
薫は剣心の胸に顔をうずめ、いっそう肩を震わせる。
剣心は、呆気にとられながらもしっかりと薫を抱きとめた。
つまり、薫は物語の登場人物たちが亡くなったことに対して、涙を流していたというわけだ。
剣心は「何だほんとになんでもない事だな」と半ば呆れて半ば安心したが、架空の話にそこまで感情移入ができる薫が微笑ましくて、頬がゆるむ。
「薫殿は優しいでござるなぁ。でも、こんなに悲しんでくれる読者がいるのだから、書いた作者もきっと喜ぶで・・・・・・」
「違うのっ!」
ばっ、と顔を上げた薫がきつい目で剣心を睨む。その迫力に、剣心は思わずたじろいだ。
「確かに悲しいのもあるけれど・・・・・・どちらかというとわたし、怒っているのよ!」
「・・・・・・そのようで、ござるな」
にわかに声を荒げる薫。正面から彼女の視線を受けた剣心は、ああ怒った顔も綺麗だなぁと呑気な感想を抱く。
この矛先が自分に向いていたとしたら悠長に構えてはいられないが、今回は完全にこの本について怒っているようなので―――涙を湛えた瞳できらめ
く強い光に、ひとまず剣心は見とれた。
「あんなに真剣に読んでいたのに・・・・・・それが、あんな結末だなんて馬鹿にしてるわ、納得いかないっ!」
「おろ、そこまで頭にくるなんて相当でござるなぁ」
剣心は、指を伸ばしてそっと薫の頬の涙をぬぐった。その手で震える背中を抱いて、なだめるように撫でてやる。唇を噛んでいた薫は、優しい感触に少し
だけ表情をゆるめた。そして、一方的に泣いて怒ってまくしたてた事が恥ずかしくなったのか、気を落ち着けるように幾つか息をついた後、上目づかいに
剣心を見る。
「それで、一体どんな結末だったんでござるか?」
「・・・・・・話しても、いい?」
「どうぞ」
薫は寄りかかっていた身体を起こし、解説を始めた。
前巻で想いを交わした姫と忍。
しかし姫は戦の和議の代償として、敵国の大将のもとへの輿入れを余儀なくされる。
敵国へ向かう途上、愛する人と添い遂げられない哀しみから姫は病にたおれ、死に瀕する。
姫がいなくては和議は成り立たない。結果として戦は再燃し、その中で忍も深手を負う。
傷ついた忍は最後の力で死の床にある姫のもとにむかい―――
「・・・・・・そして、二人は手に手をとりあって『最期に会えてよかった』なんて言いながら死んでゆくのよ! こんなの納得いかない!
ありえないわ!」
「それは、まぁ・・・・・・」
剣心は首を傾げた。
確かに悲劇的な幕の下ろし方だが、これはこれで物語としてはきちんと成り立っている気もする。「ありえない」と頭ごなしに否定する程、筋が破綻して
いるわけではないだろう。
「しかし薫殿、死をもって結ばれる恋人同士というもの、それはそれで絵になる結末ではござらんか?」
「・・・・・・だから、ずるいと思うのよ」
目尻にわずかに残った涙を、薫は指先で完全に拭う。
「不幸から抜け出せられませんでした、八方塞がりになりました、でも一緒に死ねたから幸せです・・・・・・なんて、安直だわ。結局、どうすることもできなく
なっちゃったから、死ぬことを解決策にして話をまとめちゃったって事じゃない」
手厳しい意見。しかしここまで言い放つのは、彼女がそれだけ真剣にこの物語を読んでいたという証拠だろう。
「一緒に死んじゃってお終いなんて、卑怯よ。いくら美しくて絵になる結末だとしても、わたしなら絶対そんな終わり方にはしないもん」
「では・・・・・・薫殿なら、どんな結末にするでござるか?」
あまりに真摯な様子に、つい剣心はそんな質問をしてみた。
薫は剣心の顔を見て少しの間考えるようなふうだったが、すぐに口を開いた。
「そうねぇ、わたしだったら・・・・・・こんなのはどうかしら」
思いついた、というように人差し指をぴっと立てて、唇の端を上げる。
「あのね、姫の病気は狂言なの。死んじゃいましたって一芝居うって、政略結婚を白紙にしようとしたのね。それで、戦が始まったら恋人の忍はめざまし
い活躍をして、敵の大将の首級をあげるのよ」
「はぁ・・・・・・」
「そして、彼は大手柄の褒美として、姫の婿になるの。ね? 剣心が前に言ったとおり、努力と根性で身分の差を乗り越えちゃうのよ」
我ながら名案とばかりに、薫はにっこり笑って頷く。
悲劇という言葉は到底似合わない、明るい笑顔。
その顔を眺めていた剣心は、つられたように破顔して、薫を思いきり抱きしめた。
「薫殿は、面白いでござるなぁ」
「・・・・・・剣心、なんかそれって、馬鹿にしているように聞こえるんだけど・・・・・・」
「誉めているんでござるよ、心から」
薫を抱いたまま、剣心はぽすんと仰向けに布団の上に倒れこむ。
「で、ふたりが祝言を挙げて、めでたしめでたしで終わるのでござるか?」
「そうねぇ、その後は読者の想像にお任せします、ってところだけど・・・・・・」
剣心の胸の上に乗っかった格好になった薫は、首を伸ばして彼の顔をのぞきこんだ。
「きっとふたりは戦国の世をしぶとく生き延びて、子供を産んで家族が増えて、お爺ちゃんお婆ちゃんになるまで仲良く暮らすの。若くして命を散らすよ
り、そっちのほうがずっとずっと幸せだと思うわ」
剣心は薫の黒髪に指を梳き入れてそっと撫でた。地肌をくすぐるように動く感触に、薫は肩をすくめる。
そんな可愛らしい仕草に目を細めつつ、剣心はしみじみと息をつく。
「その姫君が、薫殿のような娘だったら・・・・・・年寄りになるまで、ずっと飽きずに過ごせるでござろうなぁ」
「・・・・・・面白いから、ってこと? ねぇ、やっぱり誉められているようには聞こえないんだけど・・・・・・」
剣心はそれには答えず、身体を反転させた。
布団の上に仰向けに転がされた薫が、きゃあ! と子供のような悲鳴をあげる。
感情豊かに、泣いて、怒って、たくさん笑って。
時折こんなふうに突拍子もないことを口にして、時折どきりとするほど鋭いところを突いてくる。
君がこれから紡いでゆく人生も、きっとどこまでも明るくて、どこまでも前向きな物語なのだろう。
「拙者も、一生飽きずに過ごせそうでござるよ」
君と、この先ずっと。
ふたりの物語は、続いてゆく。
了。
2013.04.05
モドル。