あの頃に比べて、俺はすっかり心が狭くなってしまった。
        もう、あんなふうに君の幸せを祈ることなどできるわけがない。









     愛してる








        「ねぇ剣心、柳くんってわかる?」
        薫の部屋の襖を開けるなり、振り向いた彼女にそう訊かれた。
        聞き馴染みのない名前に、剣心はさて誰だったかと記憶のひきだしの中を探ってみたが、残念ながら心当たりの顔は浮かんでこない。
        「ちょっと覚えていないでござるなぁ・・・・・・今日、来ていたのでござるか?」
        「うん、剣心にも挨拶してたわよ。ああでも、剣心が前に会ったのって一度きりだったかしら・・・・・・以前父さんに剣を教わってて、身体が大きくて、一年くら
        い前に偶然道で―――」

        そう言われて、思い出した。
        確かその青年は神谷道場のもと門下生で、がっしりとした体格で上背があって、柳というよりは樫か檜の大木のようなたたずまいの若者だった。
        その印象をそのまま口にすると、薫はぱんとひとつ手を打ち合わせて「そうそう! その柳くん!」と頷いた。


        「今日報告してくれたんだけど、彼も来月祝言を挙げるんですって」
        「おろ、それはめでたいでござるな」
        「そうなの。でね、今日のわたしたちを見てすっかり感動しちゃったみたいで、自分たちのときもこんな祝言にしたいですって言ってくれたの。で、その時は
        おふたりで是非来てください、って」
        「それは、嬉しいでござるなぁ・・・・・・では今日のお返しに、今度は拙者たちが祝いに行かねば」
        剣心は膝をついて、夜着に身を包んだ薫の肩を後ろから抱きしめた。おろした黒髪に頬をすりよせると、薫がくすぐったそうに笑う気配がした。
        「うん! 必ず行きましょ! 餅搗きもするって言ってたから、次こそわたしも搗かせてもらわなきゃ」

        この界隈で剣術道場に通っている者が祝言を挙げるときは、餅搗きをするのが慣例になっている。いつ誰が始めたのかは定かではないが、餅なら祝いに
        やってきた若者たちに気軽に振舞うことができるし、何より客達が皆で参加しての餅搗きは賑やかで盛り上がるものだ。大抵は、杵を取るのは男性なの
        だが―――

        「・・・・・・よっぽど、さっきも搗きたかったんでござるな」
        行きましょうと言った声があまりにやる気に満ち満ちていたので、剣心はつい笑ってしまった。その反応に、薫は拗ねたように唇を尖らせる。
        「だって、操ちゃんも妙さんも搗いてたじゃない。わたしだって見てるだけじゃなく一緒にやりたかったわ」
        「仕方ないでござろう、花嫁衣装を汚してしまったら大変でござるし」
        そう言いつつ、剣心は視線を正面に向けた。そこには、今日薫が身にまとっていた白打掛が掛けられている。


        「・・・・・・綺麗だったでござるよ」
        昼間の様子を思い返した剣心の口から、その言葉は自然にぽろりとこぼれ落ちた。
        薫は照れくさそうに肩をすくめ、小さく「ありがとう」と返した。


        今日は沢山の人が入れかわり立ちかわり神谷道場を訪れた。杯事はごく少ない人数で粛々と執り行われたが、その後は薫の父の代の門下生や他流の
        道場の若者たち、友人知人がひっきりなしにやってきて結果的にかなり賑やかな一日となった。
        お開きになってひとまずの後片付けを済ませて、諸々を手伝ってくれた妙や近所の者達が帰った頃には、既にとっぷり日は暮れていた。

        「すっかり遅くなってしまったでござるなぁ・・・・・・疲れていないでござるか?」
        「ううん、大丈夫。むしろ、頭が冴えちゃってなかなか眠くならなくって」
        「それは、ちょうど良かった」
        「え?」


        薫が首をひねって振り向こうとすると、剣心はその耳に唇を押し当てた。
        「今夜は、眠らせないつもりだったから」
        そう囁くなり、剣心は薫の細い身体を抱き上げた。






        祝言の日の、夜である。
        寝所にて、剣心は腕から薫を降ろした。そして、ふたりは少しかしこまった面持ちで、向かい合って座る。
        剣心が差しのべた手の上に、薫が自分のそれを乗せ、ふたりは改めて「幾久しく、お願いします」と誓いあう。

        そっと、顔を近づけて、剣心は薫の唇に触れた。
        「なんだか、初めてこうされた時みたい」
        呟くように言った薫の瞳は、熱く潤んで揺れていた。
        「初めてでござるよ」
        こつん、と。額と額をくっつけて、剣心は薫の目をのぞきこむ。
        「夫婦になってから契るのは、これが初めてだ」


        抱き寄せて、ふたたび口づける。
        今度は強く、ふたつの呼吸がひとつに溶け合ってしまうくらいに。
        すがりつく薫の指が、はじめての夜と同じように震えていた。


        「これ・・・・・・夢じゃないのよね? わたし、本当に・・・・・・あなたのお嫁さんに、なったのよね?」


        敷布の上に横たえた彼女の身体を、しっかりと抱きしめてやる。
        夢などではないことを、信じさせるために。





        彼女が、今この瞬間を幸せだと感じていることが、嬉しかった。
        今日を迎えられたことを、薫が心から喜んでいることが―――嬉しくてたまらなかった。








        ★








        あれは、一年近く前。まだ、出会って日も浅い頃。
        ふたりで街を歩いていた時、偶然行き会ったのが柳という若者だった。


        もと門下生だったという彼を、彼女から紹介された。大柄な身体に実直そうな顔つき。言葉を交わしたのは短い時間だったが、それだけで誠実な人柄を感
        じとれた。つまりは、好青年だった。
        彼と別れた後、薫に「偽者騒ぎのときに、門下を離れたのでござるか?」と訊いた。今にして思えば少々意地の悪い質問だったと思う。きっと、無意識のう
        ちに小さな嫉妬心が首をもたげていたのだろう。しかし薫は気を悪くしたふうでもなく、「ううん、父さんが戦争に行くことになった時にね、他の先生につくこ
        とになったの」と答えた。

        彼は門下でも相当な腕前だったため、薫の父は「自分にもしもの事があった後、彼が剣術をやめてしまうのは惜しい」と考えたらしい。そのため信頼できる
        他の指導者を彼に紹介したのだ。
        「それで正解だったと思うわ。柳くんかなり腕が立つから、わたしの下でだと物足りなかっただろうし・・・・・・でも」
        と、薫はそこで一旦言葉を切った。何だろうと思って彼女の方に視線をやると、まっすぐな眼差しと目があった。


        「でも、剣心のほうが、ずーっと強いけどね」
        そう言って、薫は笑った。
        それは、暖かな信頼がこめられた素直な賛辞だった。


        単純に、剣の腕を誇ることが出来なくなったのは、もう随分昔から。はじめて人を斬ったときからだ。
        それからはずっと、強さを賞賛されてもその裏には常に罪の意識や後ろめたさがつきまとうようになった。
        けれど―――この時は、ただ素直に「嬉しい」と思った。
        強さを称えられたことを嬉しいと感じるなんて、下手をすると少年のとき以来ではないだろうか。

        ―――ああ、そうか。彼女に言われたから、嬉しいのか。
        すぐに、その事に気づいて、すぐに「困ったな」と思った。いつの間にか自分の心は、この地で出逢ったこの少女に傾き始めていた。


        並んで歩く薫の顔をちらりと盗み見る。
        そして、この娘は俺がいなくなった後、どんな人生を送るのかな、と思った。


        引き止められるまま居ついてしまったが、自分は流浪人で、罪人だ。
        いつまでも薫のもとにいるわけにはいかない。いずれは、この街を去る日がやってくる。

        その後は―――きっと彼女なら幸せな未来を歩むのだろうな。
        先程の若者のような、真面目で善良な青年と夫婦になり、子供を産んで育てる。この朗らかで優しい娘には、そんな陽のあたる人生こそが相応しい。





        そんなことを考えると、ちくりと胸が痛んだが―――その痛みこそが、自分が彼女を大事に思っていることの証拠だ。
        だからこそ、やがて訪れるだろう別離の後も、薫の行く末に幸福な未来が待っていることを、そっと祈った。








        ★








        昼間の、白無垢に身を包んだ姿は大輪の白い花のようだったけれど。
        今こうして腕の中で乱れている君も、天女のようにうつくしかった。




        高島田に結い上げていた豊かな黒髪は、掻き乱されて敷布の上に散らばっている。
        汗ばんだ腕が下から伸ばされて、剣心の首に柔らかく絡みつく。

        「けん、しん・・・・・・」
        苦しげな息とともに必死に紡がれる声が愛おしくて、剣心はきつくきつく薫を抱きしめた。



        好きなひとを抱くというのは、こういうことなんだな、と。
        薫を抱くたび剣心はそう思う。

        本能だけではなく、理性が、魂が、薫のすべてを求めているのがわかる。
        肌を重ねてひとつになれることに、身体だけではなく、心の奥が喜びに震える。
        どれだけ言葉を並べても、君への想いを余さず表現することは追いつかなくてもどかしくて。
        だから、抱きしめあって愛し合うことで、足りないすべてを埋め尽くそうとしている。


        「あぁ・・・・・・っ!」
        ひときわ高い声が唇をついて、薫の裸身が大きく震える。
        剣心は、力の抜けた身体を彼女の上に投げ出して、ふくよかな胸の上に頭を預けた。そのまま、ひとつに溶けあった余韻に深く浸る。

        そろそろと伸ばされた指に、髪を撫でられるのを感じて顔を上げると、薫と目が合った。
        濡れた瞳はきらきらと輝くようで、唇は慈愛の微笑みにほころんで。
        その綺麗な目が見られなくなるのを惜しいと感じながら、剣心は薫に覆い被さり唇を重ねる。
        互いの呼吸が絡まるのを感じながら、剣心はふと、いつかの自分の「祈り」のことを思い出した。



        ただ君の幸福な未来を願ったあの頃に比べて、俺はすっかり心が狭くなってしまった。
        自分が去った後は、善良な青年と夫婦になって、子供を産んで育てて―――よくもまぁ、そんな事を願えたものだと思う。今はもう、あんなふうに君の幸せ
        を祈ることなんてできやしない。

        だって、君とともに生きて一緒に人生を歩む役割を、他の男なんかに絶対譲りたくはない。
        俺以外の相手が君の手を取るなんてこと、断じて許せるわけがない。と言うか、もしあの時に戻ることが出来たとしたら、当時の自分をぶん殴って、甘った
        れるなと叱りつけてやりたい。


        自分は罪人だから、この手は沢山の人の血で汚れているから、朗らかで笑顔と光の似合う薫には相応しくないと、あの頃は思っていた。
        自分のような男と一緒にいては、彼女の未来まで汚してしまう。薫を大事に想うからこそ、彼女をこんな血まみれの腕で抱きしめるわけにはいかない、と。

        しかし、過去を言い訳に彼女を諦めるのは、ただの怠惰でしかない。
        どうやったって、過去は消えない。自分がしてきたこともその結果も傷も、いつまでも形として思いとしてずっと残る。

        でも、この先に自力で作ってゆける未来だって、確かにあるんだ。
        今までの自分が薫に相応しくないのならば、これからは彼女に相応しい、彼女の光を守ってゆけるような自分になればいい。



        君の幸せを、他の誰かになんて託せない。
        だって、俺は、こんなにも君を―――



        「・・・・・・剣心、息、できな・・・・・・」
        繰り返される長い口づけに、薫はいよいよ苦しくなって剣心の肩を押し戻す。酸素不足と、甘い目眩に頭の奥が麻痺してしまいそうだった。
        「あ・・・・・・すまない」
        細い声で訴えられて、剣心は一旦身体を起こす。額を撫でて肌に貼りついた髪をかき分けてやると、薫は目を閉じて心地よさそうに大きく息をついた。
        そのまま、頬に手を下ろし指先で耳をくすぐってやると、その手の上に一回り小さな手が重ねられる。

        「・・・・・・剣心」
        「うん?」
        「大好き」

        長い睫に縁取られた目が開いて、宝玉のような瞳に見つめられる。
        出逢ったばかりの頃から変わらない、いつもまっすぐに、迷いなく向けてくれる眼差し。



        一体どうして―――あの頃の俺はこんなかけがえのないものを諦めようなどと思えたのか。



        「きゃ!」
        ぐい、と突然腰を持ち上げられ引き寄せられて、薫の口から小さな悲鳴がこぼれた。
        ふたたび身体を重ねながら、剣心は薫を抱きしめて耳元に唇を押しつける。
        「愛してる」
        薫が、息を飲む気配が伝わってきた。
        もう一度同じ言葉を囁くと、痛いくらいの力ですがりつかれた。華奢な指が、微かに慄えているようだった。


        過去も罪もすべて抱えて手放さないまま、それでも君を諦めはしない。
        君を誰にも渡したくないと思う今の俺は、ただ君の幸せを願えたあの頃よりも心が狭くなってしまったのかもしれない、けれど―――




        「・・・・・・愛してる」




        けれども、この想いを言い表す言葉を他に知らない。
        狭量で身勝手と言われようとも構わない。それでも俺は、ただ君を愛している。










        生涯の約束を交わした、その日の夜。
        薫のぬくもりに浸りながら、剣心は幾度も心の中で誓った。


        君を幸せにするのは他の誰でもなく、俺の役目です。
        一生かけて―――君を、愛します。












        了。







                                                                                        2014.01.07






        モドル。