君の肌は、こんな色をしていたんだな。
着物の下、幾重もの布に守られて、普段は誰の目からも隠されているこの肌の色は。
愛のままにわがままに
すぐ隣に横たわる薫の裸身に、剣心は改めて見とれた。
初めてこの肌を目にした昨夜は、誰よりも何よりも愛しいひとと結ばれる喜びに感極まって、こんなにじっくりゆっくり堪能している余裕などなかったから。
行燈のあかりに照らされた肌は透きとおるように白くて、でも先程までの交わりにほんのり赤く上気して、そこに行燈の橙色が重なって、それはとても綺
麗な色で。ああ、でも朝の陽の光があふれる中で目にした肌の色も、とてもとても美しかったな、と剣心は思い返す。
はじめて結ばれた夜が明けての朝―――つまりは、つい今朝がた目にした肌の色。そんな幸せな記憶を反芻していると、頬が自然に緩んでしまう。
―――が、しかし。
弛緩しきった表情から一転し、剣心は眉間に深い皺を寄せる。そしてかくんと肩を落として、はああと大きくため息をついた。
その気配を感じてか、敷布の上で横になっていた薫が身じろぎをする。
「ああ、起こしてしまったでござるか?」
「起こしてないわ、まだ寝てなかったもん」
「身体、大丈夫でござるか?」
かけられた気遣わしげな声に、薫は「それ、何回目?」と笑う。
「おろ?」
「昨夜から、何度もそうやって聞いてくるんだもの。何回言ったか数えておけばよかったかしら」
くすくす笑いをこぼす薫に、剣心は少しほっとしたように頬をほころばせた。
―――が、しかし。
「すまないでござる・・・・・・」
「どうして謝るの?」
「だって、昨日の今日だというのに、その・・・・・・二日続けて、無理をさせてしまったから・・・・・・」
そう、つい昨日が、ふたりの「はじめて」の夜だったのだ。
遠回りを繰り返して、想いを告げる勇気を出せないまま、一度は完全に失ったひと。
この手に取り戻して、ようやく抱きしめることができて、「好きだ」という告白に笑顔で応えてくれたひと。
そんな、世界で一番大切でいとおしいひとと、昨夜はじめて結ばれた。
そのことが嬉しくて、比喩ではなく本当に泣いてしまったくらい嬉しくて、嬉しさのあまり我を忘れてしまった自覚はある。それ故に、彼女をちゃんと気遣え
ていたかどうか自信がない。
身体を重ねて愛し合うこと自体がはじめてだった薫は、いくら好いた男性が相手であろうと怖かったに違いないし、相当疲れただろうし、かなり痛そうな様
子でもあったし―――だから、今晩は我慢しようと思ったのだ。
昨日まで生娘だった彼女に、二晩続けて無理をさせてはいけないと思ったのだ。
―――が、しかし。
差し向かいで夕餉を食べて、ふたりで一緒に後片付けをして、順番に風呂につかって。その後は、剣心としては夜が更ける前に「おやすみでござる」と言っ
て別々の部屋で休むつもりだったのだ。けれども、薫がなかなか居間から自室に行く気配を見せなかったので、つい「眠くないのでござるか?」と尋ねて
みると、
「せっかくふたりきりなんだから・・・・・・離れちゃうの、もったいないなと思って」
可愛らしく頬を染めてそんなことを言うものだから、反射的に「拙者も、そう思っていた」と返してしまった。
今夜は無理をさせてはいけないと気遣う気持ちは確かにあったが、今夜も離れがたいというのも誤魔化しようのない本心だった。彼女の言うとおり、弥彦
が家にいない、ふたりきりで過ごせる機会はとても貴重で―――
今にして考えると、薫は「もう少しこのまま一緒に居間で過ごしたい」という意味であの台詞を口にしたのかもしれない(いやおそらくはそうだったのだろう)。
しかしながら、それを斟酌する余裕もなく気がつくと薫に向かって手が伸びていて、気がつくと抱き寄せて口づけていて、気がつくと―――彼女を抱き上げ
て自室に向かっていた。そして、現在に至る。
「・・・・・・で、反省してあんなに大きなため息ついてたの?」
「聞こえてたんでござるかぁぁぁ・・・・・・」
反省というより、あれはむしろ自己嫌悪によるため息だった。どうして俺は薫のことになるといつも歯止めがきかなくなるのだろう。何より大切にしたいと思
っているくせに、どうしていつも自分の衝動に負けてしまうのだろう。剣心は、懊悩して頭を抱える。
「本当に、すまない・・・・・・その、痛かったでござろう?」
「あ、えっと・・・・・・でも昨日よりは、全然だいじょうぶ、だよ?」
えへへと羞ずかしげに笑って、顔を赤らめながら答えるのが初々しくて可愛らしくて。うっかりもう一度襲いかかってしまいたくなる衝動に駆られて、剣心は
またしても自己嫌悪にうなだれる。わかりやすく落ち込む恋人の姿に、薫はすこし困ったように首をかしげて「わたしは、嬉しいんだけどなぁ」と呟いた。
「え?」
「あのね、剣心がわたしに対して、わがままになってくれるのが嬉しいの」
「わが、まま・・・・・・」
あああそれは今の俺になんてぴったりな言葉なんだろう、とますます項垂れる剣心に、薫はあわてて補足する。
「そうじゃなくてー!嬉しいって言ったの聞こえなかったの?!」
「嬉しい・・・・・・でござるか?」
「そうよ!だって剣心って、いつも自分のことより人のことを優先させてるでしょ?」
「させてる、でござるかなぁ」
「してるわよ!わたしだけじゃなくて、きっと周りのみんなもそう思ってるわよ?あなたがわがままを通そうとしているの、今まで見たことなかったもの」
「いや、自分では、特に意識してそうしている訳ではないのだが・・・・・・」
そう、剣心にとって、それは意識するまでもなく、ごく当然のことだったから。
だって、新しい時代を迎えて以来、俺は罪を償うことだけを考えて生きてきたのだから。
生き延びてしまった以上、この命は自分のためではなく、誰かのために。助けを求めている者たちのために使わなくては。そう考えて、それを信条に生き
てきたのだから。
だから、この十年自分の願望を優先させることはなかったし、そもそも優先させる資格なんてないと思っていたのだが―――
「でも剣心、今日は自分のわがままを通しちゃったんでしょ?わたしのこと気遣ってくれてたのに、でも、その、えーと・・・・・・」
具体的に行為について口にするのが恥ずかしくなったのか、薫は頬にぽーっと血をのぼらせて言いよどむ。剣心はそんな彼女を抱き寄せて「今夜も、離れ
たくなかったんでござるよ」と囁いた。婉曲な表現を用いたが、つまりは君を抱きたかった。我慢しようと思っていたのに、できなかった。
「そういうのが、嬉しいのよ。わたしにだけ、わがままになるのを抑えられないのって・・・・・・わたしだけ、あなたの特別になれたみたいなんだもの」
照れくささがそうさせるのか、薫の声は距離が零でないと聞き取れないくらい小さくて。けれども、剣心の耳に届くには充分だった。
そのかすかな声が、どんよりと胸にわだかまる自己嫌悪の塊を、優しくあたたかく溶かしてくれる。
―――そうか、好きなひとからのわがままは、嬉しいものなのか。
考えてみると、俺だってそうだったじゃないか。
たとえば、刃衛の一件に仲間たちが巻き込まれそうになったとき。安全な道場で待っていてほしかったのに、君は怒り顔で俺を探しに来た。俺が京都に
去ったときも、危険を顧みずに追いかけてきた。いずれも君に我を通された形になったが、俺はその事が嬉しかった。
君が「何が起きても側にいたい」と思ってくれていたことが、本当は、泣きたくなるくらい嬉しかったんだ。
「・・・・・・とっくの昔に、薫殿は拙者の特別でござるよ」
「・・・・・・うん、わたしも」
「いいものでござるな。わがままが嬉しい相手がいるということは」
「ほんとね。わたしも剣心のこと好きになってから、はじめてそう思うようになったわ」
同じ気持ちでいてくれることが嬉しくて、ありがとうと言う代わりに薫を抱き寄せて額に唇を押しあてた。触れ合う肌があたたかくて心地よくて、ごく自然に
「ずっとこうしていたいな」と思う。そう―――いつまでも、ずっと。
君が欲しくて抱きたくて、我慢できなかった。君は今夜、俺のそんなわがままを許してくれた。でも実は、君にまだ告げていないわがままを、俺は胸にしま
っている。
「ずっと君といたい。君と夫婦になって、君と一緒にこれからの人生を歩みたい」というわがままを。
数年間の自分ならば、こんなことは欠片ほども願えなかった。もしそんな望みが芽生えたとしても、「そんなの許されるわけないだろう」と瞬時に想いを葬
り去ったに違いない。自分の望みを優先させてはいけない、自分には幸せになる資格なんてない。そう思いながら生きてきたから。
けれど、薫はきっとそんなわがまますら許してくれるのだろう。
いや、むしろ笑顔で「馬鹿ねぇ、そんなのわがままじゃないわ」と言い切ってくれるのではないだろうか―――
今の剣心は、殆ど確信を持ってそう思うことができた。
互いのわがままを許しあえる、互いの望みを叶えたいと願う、特別な存在と出逢えたことを、今はもう知っているから。
その特別なひとは、頬を枕にあずけて目蓋を重そうにしていた。やはり、今夜もかなり疲れされてしまったらしい。
「そろそろ、寝たほうがいいでござるな」
「んー・・・・・・そうね、眠くなってきたかも」
「明日の朝食は拙者が作るでござるよ、薫殿はゆっくり寝ているといい」
「え?!いいの?!」
無邪気に顔を輝かせる様が愛らしくて、剣心は目を細める。「わがままを許してくれた、お礼でござるよ」と髪を撫でると、薫は子猫が喉を鳴らすように
うふふと気持ちよさげに笑みをこぼしたが―――ふと思いついたように目をしばたたかせて、剣心を見上げた。
「・・・・・・ねぇ剣心」
「うん?」
「朝ごはん作ってくれるのはね、素直に嬉しいんだけど」
「けど?」
「わたしのこと、その・・・・・・痛いのとか、気遣ってくるのは嬉しいんだけど・・・・・・」
薫はもじもじと困ったように、束の間視線を宙にさまよわせたが、やがて意を決したように剣心の瞳を見つめる。
「剣心とこういうことするの、わたしも・・・・・・嬉しいんだからね?」
そう、告げると。
照れ隠しのように、ことさら元気な声で「じゃあ、おやすみなさい!」と言って、薫は今度こそ目蓋を閉じる。
おやすみの挨拶を返すことも忘れて、剣心はまじまじと彼女の顔を凝視した。
・・・・・・え?
・・・・・・じゃあ、それなら、それならば。
たとえば俺が「明後日の朝食も作る」と言ったとしたら、君は明日の夜も―――
当然のようにわき上がる、不埒な考え。
それを振り落とすように慌ててぶんぶんと首を振ると、剣心はそそくさと行燈のあかりを消した。
了。
2022.01.09
モドル。