「お餅が食べたい!」
「何か、してほしいことはないでござるか?」と尋ねたらそんな答えが返ってきたものだから、剣心は呆気にとられた。
八月のよく晴れた朝。
薫が、産気づいた日のことである。
八月吉日
なんだか今日は、朝からお腹が張るなぁと思っていたら、それが痛みに変わった。それがしばらく続いて、治まる。そしてまた痛くなる。
その繰り返しに、薫は「これは、ひょっとして」と思った。
「まだまだ時間はかかると思うけれど、産婆さんに声をかけに行かないと」
ちょうど朝稽古に来た弥彦が、「じゃあひとっ走り行ってくる」と、その役を引き受けてくれた。いやそれは拙者がと剣心が言いかけたが、「お前はそばにい
てやれよ」の一言で退けられた。
弥彦の厚意に甘えることにした剣心は、まずは産屋になる寝室に、先程あげたばかりの布団をまた敷いた。そしてすぐさま薫がいる居間に戻り、「何か、
してほしいことはないでござるか?」と尋ねる。
なんでもしてあげたかった。まさに今、妻が女性の大事を迎えようとしているのだ。正直なところ、彼女が痛み苦しむ姿など見たくはない。出来ることなら
自分が代わってやりたいところだがそれは無理な相談で。だからせめて、薫が望むことはなんでもしてやろうと思ってそう尋ねたのだが―――
「お餅が食べたい!」
そんな答えが返ってきたものだから、剣心は呆気にとられた。
「餅・・・・・・でござるか?」
「ほら、今朝来たお野菜売りから、紫蘇餅を買ったでしょ。あれ、食べておきたいわ」
「ああ、そういえば・・・・・・」
今朝の早い時間に、野菜の行商が近所をまわっていた。その際、とれたての夏大根やまくわ瓜などと一緒に、紫蘇餅が売られていた。
餡子の入った餅を赤紫蘇でくるんだ、農家の手作りのそれはとても美味しそうで、夫婦で食べるぶんと弥彦のぶん、三つを所望したのだったが―――
「おやつに食べるつもりだったけれど・・・・・・きっと午後にはそれどころじゃなくなってるもの。今のうちに食べておかなきゃ」
「え・・・・・・でも、今食べて大丈夫なんでござるか?」
「だって、明日になったら硬くなっちゃう」
「いや、薫殿の身体がでござるよ」
出産を目前にして、いよいよ心配性に磨きがかかった剣心の台詞に、薫はきょとんとする。次いで、ころころと可笑しげに笑った。
「大丈夫よー。本格的に痛くなるのはこれからなんだし、むしろ今のうちにちゃんと食べて、お腹に力を蓄えなきゃ」
その言葉に剣心は納得し、「麦湯を淹れてくるでござるよ」と台所へ飛んでいった。飲み頃に冷ましておいた麦湯を注いで居間に戻ると、明らかに薫の表
情が先程と違っていたものだから、危うく湯呑みを取り落としそうになった。
「薫殿?!痛いのでござるか?!大丈夫でござるか?!」
おろおろと慌てて駆け寄ると、薫は「大丈夫・・・・・・」と言いつつ剣心に寄りかかった。
「背中、さするでござるか?」
「ありがと・・・・・・あ、もう少し下・・・・・・あー、そこそこー・・・・・・」
背中をさすってやりながら「これが・・・・・・ずっと続くのでござるか?」と訊いてみると、薫は「まだまだ、これからどんどん痛くなるらしいわよ」と、うーっと顔
をしかめてみせた。近所の先輩主婦たちから聞いた体験談らしいが、その言葉にますます剣心の不安はつのる。
布越しの感触でもわかる、華奢な背中。
剣術で鍛えているとはいえ、薫がか弱い女性なのは紛うことなき事実だ。
こんな細い身体で、そんな痛みに耐えられるのだろうか。いや勿論どれだけ痛いのか俺は体感したことはないけれど、でも本当に代われるものなら代わ
ってやりたい。もっとも、以前薫とそんな話をしたときには「それは誰にも譲れません」ときっぱり断られたのだったが―――でも、やっぱり単純に、君に
痛い思いなんてしてほしくない。それに―――
ふいに、不吉な想像が頭をよぎり、剣心の背にぞわりと寒気が走る。
それに、もしこのお産が無事に済まなかったとしたら。薫と、産まれてくる子供にもしものことがあったら。
そんなことがあったら、きっと俺は正気を保っていられないだろう。
すべての命は女性から、母親たちから産み落とされる。お産は自然の営みではあるけれど、それが簡単な事ではないのも事実だ。出産で身体を損なっ
たり、命を落とす女性だっている。
薫はいたって丈夫で健康で、身ごもってからは普段以上に身体には気を遣っていたから、彼女に限って滅多なことはないだろうとは思う。そう考えても、
考えようとしても、どうしても不安を拭いきれないのは―――俺が、罪深い人間だからだ。
俺は、沢山の罪を犯してきたから。幾つもの命を奪ってきたから。
いかに後悔しようとも償おうとも、その事実は決して消えることはない。重ねてきた罪の報いを、俺は受けても当然な人間だ。
でも、その報いが、罰が、まさに今与えられるとしたら?
俺のような人間に、人の親になる資格はないと、神仏が裁きを下したとしたら?
薫から懐妊を告げられて、嬉しかった。
こんなに幸せなことが、自分の身に起きるのだろうかと、夢みたいに嬉しかった。
嬉しいからこそ、いよいよ出産という今になって、不安と恐怖に襲われる。
自分が背負った業から、逃れようと思ったことは一度もない。けれど、今だけは、今この瞬間だけは、自分の過去の所行が呪わしい。
どうか、神様―――俺の因果に、薫を巻き込まないでください。
犯した罪は、俺が必ず償います。だから、どうか、薫を不幸な目に遭わせるのだけは―――
「・・・・・・剣心、大丈夫?お腹痛いの?」
痛がっている側の薫から、気遣わしげに声をかけられる。内心の苦悶が、顔に表れていたのだろう。これでは立場が逆ではないか俺が薫を励まさなくて
はいけないのに―――と、猛省しつつも剣心は首を傾げる。
「いや・・・・・・大丈夫でござるよ。と、いうか、痛いのは拙者じゃなくて薫殿のほうでござろう?」
「そうだけれど・・・・・・あのね、これも聞いた話なんだけれど、奥さんが痛がっているのを見て、つられて一緒にお腹が痛くなっちゃう旦那さんもいるんです
って」
「え?そうなんでござるか?」
剣心は眉間に皺を寄せ、そして自分の腹のあたりを手で探る。
「・・・・・・そう言われてみれば、痛くなってきたような」
「やだ、わたし余計なこと言っちゃったかしら」
くすくす笑いながら、薫は剣心の肩口にことんと頭を預けた。深く息をついて、そっと頬をすりよせる。
「・・・・・・よかった、剣心で」
思わずこぼれてしまったような小さなつぶやきだったが、それは剣心の耳に届いた。
「え?」と首を傾げると、薫は彼の顔を見上げて微笑む。
「夫婦になったのが剣心で・・・・・・お父さんになってくれるのが剣心で、よかったなぁって思ったの」
それは剣心にとっては思いがけない言葉で、驚きに目を大きくする。思いがけなかったから、薫をまじまじと見つめながら、「どうしてでござる?」と大真面
目に尋ねずにいられなかった。
「だって剣心、赤ちゃんができたってわかってから、ずっと喜んでいてくれたもの。生まれてくるのを、ずーっと楽しみにしていてくれて、今はお腹が痛くな
りそうなくらい心配してくれてるでしょう?それって、とっても嬉しいことだもの」
それは―――そんなの、喜ぶに決まってるし、楽しみすぎるに決まっている。
でも、心配なのは、ただ単純に心配なだけではなくて。罰があたるとか因果が巡るとか―――それが荒唐無稽な理屈だということは承知の上だが、俺の
所為で薫の身になにかあったらと、そういう意味から心配なわけで。
ぐるぐるとそんな事を考えて、剣心は咄嗟に言葉を返せずにいたが、薫は「・・・・・・それにね」と、更に続けた。
「それに・・・・・・あなたは誰よりも、命の重さを知っているひとだもの」
その一言に、剣心ははっとする。
沢山の罪を犯してきた。幾つもの命を奪ってきた。
剣ひとふりで人の命は容易く消えてしまうことを、知っている。そして、それは決して取り返しがつかないことも、嫌というほど知っている。いくら後悔しても
詫びても嘆いても、失われた命は戻ってこない。
奪った命の数だけ、業を背負って生き延びて―――そして、その重さを感じながら、新しい時代を生きてゆくことを決めた。
もう、決して奪いはしない。過ちは犯さない。
これからは、この剣をこの命を、「守る」ことに捧げると誓って。
「命の脆さも重さも、誰よりも知っているから・・・・・・だからきっと、赤ちゃんが生まれてくることを誰よりも喜んでくれる。生まれてくる赤ちゃんを、誰よりも大
切にしてくれるだろうなぁ・・・・・・って。だから、剣心でよかったなぁ、って」
そう言って、薫は照れくさげに目を細めた。
剣心は、やはり言葉を返せずに――――こみ上げた愛しさに従って、薫の頭をかき抱く。
「・・・・・・すまないでござる」
「何が?」
「拙者が薫殿を励まさなくてはならないのに、逆に励まされてしまった」
「あら、別に励ますつもりでもなかったんだけど」
薫は手を伸ばして、剣心の肩のあたりをぽんぽんと優しく叩く。すがりつく幼子を、宥めてあやしてやるように。その感触に、剣心は目を閉じて深く息をつ
く。
「薫殿は・・・・・・もうすっかり、『母親』なんでござるなぁ」
「そうよ、なにしろもう十ヶ月、この子を育ててきたんだから」
おどけた調子で、薫は自分の大きなお腹を示してみせる。
「尊敬するでござるよ・・・・・・拙者はまだまだ未熟でござる」
この数ヶ月、ずっとずっと楽しみにして待ちわびて、「父親になるのだ」という事実を噛み締めていたけれど。いざこの時を迎えて、不安に怯えている自分
の脆弱さが、情けない。
しかし、薫はそんな「反省」すら明るく笑い飛ばす。
「そんなの、わたしだってまだまだ未熟だし、これからお父さんになっていけばいいだけの話でしょう?剣の修行だって一朝一夕で実を結ぶわけじゃない
んだから、この子が育っていくのと一緒に、お父さんとお母さんになっていけばいいのよ。あなたもわたしも」
「ああ・・・・・・確かに、そのとおりでござるな」
「大丈夫!剣心はいいお父さんになるわよ。だって、剣心だもの」
保証するわ、と笑う薫の頬に、剣心はかたじけないと、やはり笑って口づける。
「・・・・・・ところで、薫殿」
「なぁに?」
「痛いの、引いたでござるか?」
「・・・・・・あ」
剣心に問われて、薫は目をばちくりさせる。
「お餅、食べなきゃ!」
★
痛みが再び治まったこの隙に、と。いそいそと紫蘇餅をほおばる薫を眺めながら、剣心は彼女の台詞を反芻する。
「剣心でよかった」と君は言ってくれたけれど、それはそのままこっちの台詞だ。
あの日、出逢えたのが君でよかった。恋したのが君でよかった。君とのはじまりから今まで、すべてのことを、「薫殿でよかった」と断言できる。
君に出逢えたから、今の俺がある。そもそも、君と出逢えなかったら、俺は生涯、自分の子供を望むことなどなかっただろう。
妻の出産を目の前にして、益体もない不安に苛まれながらも、その瞬間を心待ちにしている。ばかみたいに楽しみにしている。ほんの数年前には、予想
だにできなかった、この現実。
出逢えたのが君でよかった。愛したのが君でよかった。君でないと―――今の俺はいなかった。
それに、新たに紡がれた、ちいさな命も。
「ごちそうさまでした!」
薫はあっという間に餅をたいらげ、剣心が淹れた麦湯もきれいに飲み干した。そんな姿にすら「頼もしいな」とほれぼれするのは、惚れた欲目だろうか。
それでもいい。その頼もしさで、俺の不安なんて全部打ち砕いてくれればいい。
「拙者のも食べるでござるか?」
「あら、だめよ。美味しかったから、剣心もちゃんと食べて!お腹の赤ちゃんも、これで満足したって言ってる、から・・・・・・」
まるで母親からの声に返事をするかのように、再び陣痛がやってきたらしい。うーんと顔をしかめた薫を、剣心がすかさず支えた。
「・・・・・・ありがとう、大丈夫よ。待っててね、あと何時間かしたら、元気な泣き声聞かせてあげるから」
「薫殿のでござるか?」
「赤ちゃんのよー!」
痛い痛いと言いながらも薫が笑い、剣心も頬を緩める。
元気な産声があがったとき、きっと俺も泣くんだろうな。そして泣きながら、再び誓うのだろう。
君とこの子を、俺はずっと守ってゆきます―――と。
その瞬間まで、あともう少し。
了。
2017.08.20
モドル。