5
薫は雪の上に手をついて、ゆっくり半身を起こす。
今の今まではしゃいでいた名残で、頬には鮮やかな血の色がさして、髪には雪をくっつけて。
そんな有様だけれど剣心を見つめる瞳には、慈しみの深い色が湛えられていた。
「今、楽しかったでしょ。雪って、怖いだけじゃないでしょう?」
剣心も身体を起こし、正面から薫を見つめる。すこし、驚いた顔で。
「まだ怖い?」
薫の両腕が弧を描き、やわらかく剣心の肩にかかる。
包み込むように、彼に触れる。
「怖く・・・・・・ない」
自然に言葉がこぼれた剣心に、薫は優しい笑顔を向ける。
「これからももっと、楽しく思えるようになるわよ。例えばね、ほら、将来わたしたちに子供ができるでしょ」
「え」
「欲しくない? 子供」
「い、いやいや! 欲しい! めちゃくちゃ欲しいでござる!」
真剣な表情になって勢い込んで答える剣心に、薫は更に嬉しそうに目を細めて頷いた。
「じゃあね、子供ができたら雪だるまや雪うさぎを作ってみんなで遊ぶのよ。勿論今みたいに雪合戦もするの! 弥彦や燕ちゃんも一緒に!」
それは、確かにとても楽しい未来図だった。
手の届かない夢物語などではなく、ほんの少し先で、本当になるであろう未来。
「だからね、わたし、辛い思い出や哀しい思い出って、無理に捨てることはないし、忘れようとしなくてもいいと思うの」
「・・・・・・え?」
「だって、それは剣心の過去の一部なんだし、大切だったひとの大事な記憶でもあるんでしょ?・・・・・・だから」
ふわり、と頭を抱きこまれて、頬と頬が重なる。
心地よい感触。もっと感じたくて、剣心は薫の細い背に腕をまわした。
「だからそのかわりに、楽しい思い出も沢山作っていけばいいと思うの。辛いのや哀しいのに負けないくらい、たっくさん! そうすれば・・・・・・もう
剣心、雪のことが怖くなくなるでしょ?」
薫の言葉、ひとことひとことが、耳を伝って心のなかにおさまってゆく。
まるで、暗がりに光をそそいでくれるように。
欠けている部分を満たしてくれるように。
腕に、力がこもる。彼女の華奢な身体が折れてしまうのではないかと案じながら、きつく抱きしめる腕をゆるめることができない。
そのくらい、愛おしい気持ちが止まらなくて。
「怖い夢を見たら何度でもわたしを起こせばいいだけよ、いくらでも付き合うから。わたしが消えちゃうんじゃないかって、そこまで心配してくれるの
は光栄なくらいだし―――それに」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられながらも、薫は少しも苦しそうな様子は見せず、夜明け前の冷たい大気に、凛とした声を響かせた。
「夢のわたしが何度死んだって、ほんとうのわたしは、絶対死なないもの。だから大丈夫」
決して大きくはない声は、しかし力強く剣心の耳朶を打った。
ああ、どうして。
どうして君は、そんなにも―――
そんなにも、泣きたくなるような言葉をするりと口にするんだ。
そんなにも、俺が一番欲しかった言葉を、当然のように与えてくれるんだ。
「ね? 剣心、だから安心してね、あなたより先に死んだりするもんですか」
落ち着かせるように、ぽんぽんと肩を叩かれる。
剣心は僅かに腕をゆるめて、薫の顔を覗き込んだ。
「・・・・・・薫殿」
「はい」
「もう、大丈夫でござるよ。きっともう、これからは、怖くない」
しっかりと答える剣心。もう、その声音に不安な色は感じられなかった。
薫は満面の笑顔で、元気よく「はい!」と返す。
「ここ、連れてきてくれて、ありがとう」
「うふふー、どういたしまして!」
「薫」
「はい?」
「愛してるよ」
「は・・・・・・」
ぶわ、と薫の顔に血が上る。
真っ赤に染まった顔で、「は」の形のまま固まってしまった口が動かせるようになるまで、少しの時間がかかった。
「は・・・・・・い・・・・・・」
やっとの事でごにょごにょと返事をする彼女がとても可愛らしくて、剣心はうつむいた額にもう一度だけ口づけて、髪や着物にまとわりついた雪を
払い落としてやる。
「そろそろ、帰ろうか」
「・・・・・・そうね」
「寒くないでござるか?」
「剣心こそ・・・・・・うーん、今はよくても道すがら冷えちゃうかしら」
「帰ったら、風呂をわかそうか」
「うん賛成! たまにはいいわよね、朝風呂も」
互いの身体にくっついた雪を落としてから、剣心は薫の手をひいて立たせてやる。そのまま、握った手のひらを離さずに歩き出す。
さんざん雪遊びをしたにも関わらず、薫の小さな手はほんのりと暖かい。
ふたりで指を重ねた部分から、互いの体温が混ざり合って同じ温度になってゆく。
こうして今は手をひいているけれど、実のところ自分を導いてくれているのは、このずっと年下の少女のほうなのかもしれない。
繰り返す悪夢を消し去ってしまう朝日のような、闇夜を照らす灯火のような。
ああそうだ、彼女はきっと、光だ。
「怖い夢を見たって、何度でも起こせばいい」と言ってくれたけれど、きっともう、あの夢を見ることはないだろう。
悪い夢はもう終わった。薫が、終わらせてくれたのだ。
群青の夜空が透き通り、白くなってゆく。
冬の、のんびりとした太陽がようやく顔を出し、東京の街をゆっくりと照らしてゆく。
道場の門をくぐりながら、薫は眩しそうに目を細め、空を仰いだ。
白く積もった雪に光が反射して、濡れた彼女の髪がつややかに輝くのに剣心が見とれていると、薫は彼にきらきらした笑顔を向けて、言った。
「夜明けだわ」
ゆめのおわり 了。
モドル。