夢の記憶  初恋 番外編










        光。
        ひかり。
        あざやかな緑に、木漏れ日がきらめく。
        踊るひかり、川のせせらぎ、涼やかな風。




        目の前にいるひとと、竹刀を交わしている。
        顔は見えない。すぐ正面にいるというのに。
        この夢はいつもこうだ。そして、目覚めたらすべて内容を忘れてしまう。

        白い道着の袖から覗く、白い腕がまぶしい。
        揺れる長い黒髪、きらきらした笑顔。
        顔は見えないけれどわかる、笑っている。
        そして、その笑顔はとてもきれいだ。


        緑がひらけて、青い空がひろがる。
        神社の境内の、鎮守の森に囲まれた空。
        金魚みたいな浴衣を着た、小さな姉妹。
        がらがらがら、と。あれは御神籤をひく音だ。
        「大切にするよ」と。あれは多分俺が言った言葉。覚えてはいないけれど。

        ふいに、空が黒くなる。
        墨を流したような暗い夜空。
        赤い血の色、はじめて人を斬った夜。
        恐怖、後悔、新たな決意。
        もう後戻りはできないと悟った夜。
        あの夜、一緒にいてくれたひと。
        はじめて好きになったひと。



        いくつもの夜を越えて、幾人もの命を奪った。
        心が磨耗してゆくなか、心の支えとなってくれたひと。
        ずっと一緒にいたかった。
        ずっと一緒に生きていきたかった。
        でも、もう一緒にはいられないと言われた。
        「もうすぐあなたを愛してくれるひとが現れるから、あなたは独りじゃないわ」

        それは嘘ではなかった。
        でもまた独りになった。
        長い長い間独りだった。
        忘れたくないと言った。
        でも忘れてしまった。



        でも、忘れても記憶が消えても、好きになったことは事実なんだ。
        確かに好きだったんだ、ずっと一緒にいたかったんだ。




        ―――でも、誰と?








        目が覚める。
        夢を、見ていたような気がするが思い出せない。



        「おはよう、剣心!」
        晴れやかな声と笑顔に、つられてこちらも笑顔になる。
        「おはよう薫殿、朝から機嫌がいいでござるな」
        「えへへ、そうなの、わかる?」

        襷をかけながら、薫は首をかたむけた。藍色のリボンがふわりと揺れて、さらりと長い黒髪が流れる。
        「すっごくいい夢見ちゃったの!あのね、道場にね、大勢『門下生になりたい』って志願者たちがやってくる夢でね・・・・・・」
        夢の話に相槌をうちながら、ふたりで朝食の支度にとりかかる。やがて台所に「はよーっす」とまだ寝ぼけまなこの弥彦が顔を出す。
        「でもね、最後の志願者がね、なぜか大きなカニだったの。猿蟹合戦のあのカニね。そのハサミで竹刀が持てるの?って訊いたところで目が覚めたの」
        「なんだそりゃ、訳わかんねー」
        「何よー、夢ってたいてい意味のわからない展開になるものでしょう?」
        ねぇ剣心?と話をふられて、ああそうでござるなぁと頷いた。


        「拙者も、今朝は夢を見ていたでござるよ」
        「へぇ、どんな夢?」
        興味津々、といった目を向けてくる薫には申し訳ないが、「いや、それが忘れてしまって」と素直に答える。

        「多分、拙者のもいい夢だったと思うのだが・・・・・・」
        「そっかぁ、それは覚えていたかったわよね、残念ね」
        たかが夢のことのなのに、心底残念というふうな表情をする彼女のことを、つい「可愛いな」と思ってしまう。


        この少女に惹かれてきている自分に気づいたのは、つい最近のことだ。
        いや、あるいは出逢ったときからはじまってしまったのかもしれない。自分のなかで、なにかが。




        ―――出逢った、ときから?




        光。
        ひかり。
        あざやかな緑に、木漏れ日がきらめく。
        踊るひかり、川のせせらぎ、涼やかな風。



        その刹那、忘れてしまった夢の欠片がよみがえり、そしてまた、瞬く間に消えてゆく。
        きれいさっぱり消え失せて、もう何も思い出せない。






        忘れたくなんか、なかったのに。









        ★









        夢の中、子供の頃の俺が怒っていた。
        顔を真っ赤にして、泣きそうな勢いで、地団駄を踏んで。


        どうしてどうしてどうして。
        どうして別れてしまったんだ。やっと見つけたのにずっと会いたかったのに。ずっとずっと探していたのに。

        離ればなれにされてしまった彼女と、ようやく会えたのに。
        もう二度と離れたくなかったのに。今度こそずっと一緒にいるはずだったのに、どうして、どうしてどうしてどうして。


        子供の俺はただひたすら怒って、「どうして」と責め立ててくる。
        腹立たしかった。
        彼の怒りが腹立たしくて、うらやましかった。


        うるさい。
        うるさいうるさいうるさい。

        会いたかった?離れたくなかった?
        それを言うなら、俺だって忘れたくなかった。
        大切な記憶を奪われたくなかった。

        でも俺はお前みたいに哀しむことも怒ることもできないんだ。
        今見ているこの夢だって、思い出したくても思い出せないこの悔しさだって、朝になったらすっかり忘れてしまうんだ。それに、




        「俺だって―――ずっと一緒にいたかったんだ」




        そう言ったとたん、薫の泣き顔が浮かんで消えた。
        そこで目が覚めた。








        見慣れない天井が目にうつる。
        ここは、いったい―――ああそうだ葵屋だ。
        昨日、京都に到着して。思いがけない縁を得て、翁殿の厚意に甘えて滞在させてもらうことになって。

        ―――また、俺は同じことをしてしまっている。
        誰も巻き込みたくないからと言って、独りになったのに。こうしてまた、人との関わりを持ってしまって、きっとまた後悔をする。
        探し人が見つかったら、早々にここを去らなくては。善意で接してくれる者たちを、危険に晒さないためにも―――



        ふと、薫の泣き顔が頭に浮かんだ。
        離れてから幾日か経つが、時が経つほど彼女のことを思い出す頻度が高くなっている。
        なんだろう、ぼんやりとしか覚えてはいないが、今朝は夢にも彼女が出てきたような気がする。

        情けない、「想いを断ち切れ」と他人には偉そうに言っておきながら、この有様だ。
        忘れようと思えば思うほど、彼女の面影が頭から離れなくなる。




        わかっている、本当は忘れたくないからだ。
        本当は、ずっと一緒にいたかったからだ。






        事実を認めてしまっても、心は楽にならず、むしろ寂寥が深くなるだけ。
        彼女には、もう二度と会えない。









        ★








        「人斬り抜刀斎!とうとう見つけたわよ!」



        夜気を割って響く、凛とした声。
        振り向くと、そこには道着姿の少女がいた。

        高い位置で結った髪、勝気そうな光が宿る瞳、意志の強さをかたどったような眉。
        花びらのような唇、ほっそりとした、しなやかな肢体。




        ―――彼女だ。




        自分のなかにいる、少年の頃の自分が駆け出す。
        「やっと見つけた」という喜びを素直に爆発させて。放たれた矢のように、彼女に向かって、一直線に。



        ああ、見つけた、やっと見つけた。
        はじめて好きになったひと、ずっと一緒にいたかったひと。
        でも引き離されてしまったひと、忘れたくないのに忘れてしまったひと。

        ずっと逢いたかった、ずっと探していた。
        覚えてはいなくても、記憶はなくても、心の一番奥で、いつも君を求めていた。




        少年の頃の俺が、勢いよく君に飛びつく。
        君は驚いた顔になって、でもすぐに笑顔になって、俺を見つめる。






        そこで、目が覚めた。










        隣と表現するには近すぎる距離に君がいる。昨夜はまた、君を抱きしめたまま眠ってしまった。
        やわらかな黒髪に頬を寄せて、君の香りを胸に満たす。つい腕に力がこもってしまい、君が小さく身じろぎをした。


        睫毛が震えて、目蓋が開く。近い距離で、目が合う。
        また眠りの側に意識を残しているぼんやりとした表情を、かわいいなぁと思う。もっとも君は寝顔も笑顔も怒った顔も真剣な顔も、抱かれているときの感じ
        ている顔もどれもすべてかわいいのだけれど。

        じきに、しっかりはっきり頭も目覚めた君が、ふわりと俺に笑いかける。こんな幸せな朝をもう何度も重ねてきたけれど、今でも時々「こんな奇跡みたいな
        現実が送れているなんて、夢なんじゃないだろうか」と疑ってしまうことがある。いや、夢といえば―――今朝は現実だけではなく、夢までもが幸せだった
        のだから、贅沢な話だ。そして、その幸せの残滓を君も感じ取ったらしい。


        「おはよう」
        「おはようでござる」
        「どんな夢、見てたの?」
        「おろ?」
        「剣心、なんだかすごく嬉しそうなんだもん」

        そう言いながら、君は自分も嬉しそうににこにこ笑う。その笑顔がいとおしくて、頭を抱え込むようにしてぎゅうっと抱きしめてやる。
        髪をかき乱されて、君は悲鳴をあげる。けれどそれはとても楽しそうな悲鳴だったから、そのまま身体を反転させて仰向けに敷布に押しつけてやる。
        額に目蓋に、鼻の先に頬に、順番に口づけを落とす。君はくすぐったそうに笑いながら、「ねぇ、どんな夢か教えて?」と甘えた声で囁く。




        「・・・・・・薫殿に、やっと逢えた日の夢でござるよ」




        逢いたかった。
        ずっと君を探していた。


        君と過ごしたあの頃の記憶は俺の中から消えてしまったけれど―――今は、ちゃんと知っている。
        あの頃、はじめて恋をしたこと、君への想いを支えにして生きていたこと。
        それは紛れもない事実で、あの頃の俺の人生には、間違いなく君が存在していたことを、俺はちゃんと知っている。



        「・・・・・・ねぇ」
        「うん」
        下から伸ばされた手が、優しく触れてくる。細い指に頬を包みこまれて、髪を撫でられる。
        ずっと昔、子供の頃にそうされたように。




        「・・・・・・剣心に逢えて、よかった」




        ずっと、逢いたかったひと。
        ずっと探し求めていたそのひとが、腕の中でそう言って微笑んでくれる。
        そんな奇跡のような今この瞬間に感謝を捧げながら、俺は君に口づけた。



        はじめて好きになったひと。ずっと、好きだったひと。
        そして―――これからもずっとずっと好きなひと。




        「薫殿に逢えて、よかった」







        これからもずっと―――君を、愛してる。















        了。








                                                                                          2016.09.04







        モドル。