どうしてこんな事が出来たのか、自分でも驚いていた。
夜の雑踏の中、何も言わずに君の手を捕まえた。
振り向いた君もやはり驚いた顔で、澄み切った夜空の色の目を大きく見開く。
その瞳に思わず見とれて―――ひととき耳から喧騒が遠ざかった。
わたがし
いつもの面々で集まった赤べこにて、「となり町の神社で、今日まで縁日が出ている」という話題になった。
その話をしているときの薫の目がきらきらと輝いていたのを、隣に座る剣心は見逃さなかった。
縁日に行きたがっていることはすぐに察することができたし、水色の地に夏椿の浴衣の彼女が、灯篭や提灯のあかりに佇む姿を見てみたい、とも思った。
行動に移してしまったのは、酒が入っていた所為かもしれない。
宴席がお開きになって、一同は店の外に出た。往来は残り僅かな夏の夜を楽しみたい人々で、昼間のように賑わっていた。
はぐれるのは、簡単なことだった。
皆の少し後について歩いていた剣心は、頃合を見計らって薫の手を後ろから捕まえた。
驚いた顔で薫が振り向く。剣心は口の前にすっと人差し指を立てて、彼女に声を立てないよう合図をして、立ち止まる。
弥彦の、左之助の恵の背中が遠ざかってゆき、やがて人波に紛れて見えなくなった。
「・・・・・・縁日」
そこでようやく剣心は口を開き、ただ、それだけを言った。
薫はやはり驚いた表情でまじまじと彼の顔をのぞきこんで―――そして、ぱあっと輝くような笑顔になって、大きくひとつ頷いた。
境内は、大勢の人であふれかえっていた。
煌々と灯りがともされた中、様々な屋台や物売りが出ている。流しの三味線の音が響き、大道芸の口上が聞こえてくる。
子供たちも今日ばかりは夜更かしを許されているらしく、金魚釣りや手車売りの周りでは小さな客達が歓声を上げていた。
「ね、あれが見たい!」
しんこ細工売りを指さした薫は、剣心の返事を待たずにそちらに足を向ける。
軽やかな足取りからは彼女がこの状況を喜んでいることが見てとれて、剣心は安堵した。
皆に何も告げず、ふたりで姿をくらまして隣町まで連れてこられたのだ。困惑しているのではと心配していたが、魔法のように兎や竜を作り上げてゆくしん
こ細工師の手元に夢中になっている薫の横顔は、純粋に楽しそうだった。
―――不思議なものだな。
こんなふうに、ふたりきりで行動する事は今までに何度もあった。
なのに、その頃自分がどんなふうに薫に接していたのかを、上手く思い出せない。
きっと、出逢ったばかりの頃からもう、この気持ちは始まっていたのだろうけど。時が過ぎて、色々な出来事を経て、こんなにも想いは嵩を増してしまっ
て―――すっかり制御の仕方が判らなくなってしまった。京都から帰ってきてからは、特にそれを感じる。
さっき、自分はどうやって彼女の手を取ったのだろう。もう一度触れてみたいけれど、きっかけがつかめない。
ほんの僅かな距離で、手は届く。でも、柔らかいその手をどのくらいの強さで握ればよいのか、見当がつかない。
指を伸ばしかけては、躊躇って引っこめて。
それを何度か繰り返した後、剣心は白い小さな手に触れることを諦める。
「・・・・・・なぁに? どうかした?」
視線に気づいた薫が首を傾げる。剣心は曖昧に笑って、「いや・・・・・・薫殿何か食べたいでござるか?」と聞いた。
薫は帯のあたりに手をやり、「うーん、まだ満腹かも」と答える。実を言うと、それは剣心も同様だった。
「赤べこで、食べ過ぎてしまったでござるなぁ」
「そうねぇ、ここで何かお腹に入れるのは止めておいたほうがよさそうね」
氷水や白玉、西瓜の切り売りなど食べ物も色々売られていたが、ふたりとも牛鍋をつついた後でお腹は一杯である。しかし、こういう場所に来ると何か口
にしたくなるのが人情だ。「あれなら大丈夫なのでは」と剣心が指し示した先にはべっこう飴売りがいて、薫はくるりとつま先をそちらに向けた。
一番ちいさな飴をひとつ買い求めた薫は、琥珀色のそれを灯篭の灯りにかざして見つめた。
「綺麗ね」と、まるで宝石に見惚れるような口調で言って、そっと飴に唇を寄せる。
その様子を見ながら剣心は、「あんなふうになりたいな」と心の中で呟いた。
あんなふうに、彼女の唇で舌で溶かして欲しい。
もう一度、今度は場の勢いなんかじゃなくて、もっとしっかりと手を繋ぎたい。
きつく腕に抱いて、好きだよ、と―――言ってしまいたい。
彼女の対してこっそり抱いている「要求」が、もどかしく胸の中でざわめく。こんな事をぐるぐる考えてしまうのは、まだ先程の酒が残っている所為だろうか。
飴のかわりに買った冷たい麦湯を喉に流しこみながら、剣心は気持ちを落ち着かせようとする。
互いの心の在処は、既に知っている。
けれど、まだきちんと口に出して、想いを伝えてはいない。
だってまだ君は俺のことを知らない。過去にはこだわらないと言ってくれた君に甘えて、自分の犯した一番の罪を打ち明けられずにいる。
それを言わないまま、「好きだ」と告げるのは―――卑怯ではないだろうか。
そんな事を考えると、目の前が昏く翳る心持ちになったが―――ふと剣心は、薫がじっとこちらを見ているのに気づいた。
何だろうと目で問うと、薫は半分以上溶けてしまった飴を口から離して、「ありがとう」と言った。
「・・・・・・え?」
「縁日、連れてきてくれてありがとね。凄く嬉しい」
「ああ、いや、それは・・・・・・でも、来たものの飲み食いできるわけでもないし、ずいぶん歩かせてしまって申し訳ないというか・・・・・・」
「ううん、歩くのは全然平気だし、別に飲んだり食べたりしなくたって充分面白いもの」
薫は首をぐるりとめぐらせて、賑わいの続く境内を眺め、目を細める。
「こういう所って、なんだか雰囲気だけでわくわくしてくるじゃない? みんな笑っていて、楽しそうにしていて、美味しそうなものやきれいなものが沢山あっ
て・・・・・・わたし、縁日のそういう空気を楽しみたかったんだもの。だから、連れてきてもらえて嬉しかったの」
薫はもう一度「ありがとう」と言うと、照れ隠しのように飴を口に入れた。棒に薄く残った飴を、歯でぱきりと割った音が剣心の耳にも届いた。
小さな音が、小さな棘のように甘く胸に刺さる。はにかむ表情が、あどけない仕草が愛おしくて、抱きしめたい衝動に駆られる。
互いの心の在処は、既に知っている。
だから、彼女に告げるべき言葉も判っている。
けれど―――
「・・・・・・拙者も、楽しいでござるよ」
まだ、言ってはいけない。
今のまま好きだと言うのは、卑怯だ。
もどかしさに、胸の奥がどうしようもなく痛む。だから、せめて―――
「薫殿とふたりだから・・・・・・楽しいよ」
薫の目が大きくなって、さっと頬に血がのぼる。
慌てたように棒を口から抜いて、舌に残った飴の欠片を飲み込んだ薫は、小さな声で「・・・・・・わたしも」と言った。
その答えが嬉しくて剣心が笑うと、薫は赤い頬のまま、もっと眩しい笑顔を返した。
帰宅すると、弥彦は布団の中で高らかにいびきをかいていた。
きっと、ふたり揃って勝手に消えたことに腹を立てつつ床についたに違いない。剣心と薫は詫びの意味をこめた土産の線香花火を、枕元にそっと置いた。
「明日の朝、怒られるでしょうねぇ」
「いや、左之と恵殿もいたのだし、そこはきっと察してくれているでござろう」
察する、という言葉に薫は照れくさそうに俯いて「変なこと吹き込まれていなければいいけど」と呟く。ふたりは音をたてないよう気をつけながら、弥彦の部
屋の襖を閉めた。
「薫殿も、今日は疲れたでござろう。早く休んで・・・・・・」
と、言いかけた剣心の顔の前に、さっと線香花火が二本かざされた。
「二本だけ、抜き取っちゃった」
「え?」
「はい、剣心も」
そう言って、薫は線香花火の一本を剣心に手渡した。
その夜の締めくくりは、小さな小さな花火大会だった。
「どちらが長くもつか、競争しましょ!」
薫の号令で、ふたりは額を寄せ合うようにして同時に線香花火の先に火をつけた。
橙色の小さな灯りがともる。
やがて、それは微かに震えながら、光の雫を散らし出す。
剣心は手にした花火を揺らさないよう気をつけながら、こっそり視線を薫へと移した。
仄かな暖色の光に照らし出された彼女の唇は、ふんわりと優しく笑みの形をとっている。
―――ずっと、こんなふうに、笑っていて欲しいな。
君が笑ってくれるだけで、胸の奥が暖かくなる。
告げられない想いが溢れそうになって苦しくもなるけれど、それすらも君への愛しさの証だと思えば―――楽になりたいとは思わない。
―――だから、願わくば俺のそばで、これからもずっと。
ぱちぱちと、軽い音を立てて火花が弾ける。
この光が尽きれば、ふたりきりの時間も終わる。
柔らかな微笑みに目を奪われながら、剣心は線香花火が一秒でも長く続くことを祈った。
了。
2013.09.05
モドル。