つよがり少女
そこだけ、時間が止まったようだった。
夏の終わりの陽光がぎらぎらと降り注ぐ真昼、乾いた地面にはくっきり墨で塗りつぶしたように黒い影が落ちる。この時間、高い位置から照らす太陽は
屋内の奥までは届かない。日陰になった建物の中には涼風が密やかに流れ込み、暑さからのひとときの救済をくれる。
そんな仄暗い道場の中、くっきりと切り取ったように浮かび上がる薫の白い輪郭。横顔は僅かに前に傾き、低頭してぴたりと手を合わせて。瞳は閉じら
れ、長い睫毛が扇型の影を頬に落としている。
道場の戸を開けた剣心は神棚に向き合う薫を目にして、彼女が身に纏った静謐な空気に、声をかけられずにいた。
と、いうよりその薫の姿に見とれて、声をかけるのを忘れた。
しんと静止した水面のような、冒しがたい美しさ。
そんな佇まいの彼女を見るのは初めてだった。
「―――やだ、剣心いつからいたの?」
気配に気づいた薫が、顔を上げる。こちらに向ける表情はいつもどおり朗らかで―――なんとなく、剣心はどぎまぎする。
「ああ、その、草むしり、終わったでござるよ」
「あら、早かったのね、暑い中お疲れ様!」
ぱっと明るい笑顔は、そこだけ陽が射したよう。
どうして自分は、この笑顔を手放そうなどと思えたのか。剣心は三カ月前の自分が下した決断が今更ながら愚かしく思えた。
東京を離れていた間、神谷道場は妙たちによってきちんと手を入れられていた。ちゃんと風を通しておいてくれたおかげで空気は澱んではいなかった
し、玄関をはじめ各々の部屋の畳も綺麗に掃き清められていた。それでも流石に庭の草と広い道場までは手は回らなかったようなので、この暑さで成
長した雑草の草むしりと、うっすら床が埃をかぶった道場の掃除が、帰ってきた住人たちの最初の仕事だった。
剣心は弥彦とふたりで雑草と格闘しながら、時折頬がゆるむのを禁じ得なかった。大掃除に草むしり。どちらもおそろしく日常に根ざした事柄。この三月
のどたばたなど関係なく、「日常」は戻ってくるのだ、否応無しに。そんな普通の日々がなんだかとても偉大なように思えた。
そして、作業を終えた剣心は薫の様子を見に来たのだったが―――
「こっちももう終わったわ。ちょっと遅くなっちゃったけど、お昼にしましょうか」
「・・・・・・神棚に、報告でござるか?無事帰ってきたと」
今の拝礼のことかと、薫は少し照れくさそうな顔になる。
「うん・・・・・・神様に、っていうか、お父さんにかな」
「父上殿に?」
剣心は小さく首を傾げる。薫は昨日京都から戻ってすぐに、仏壇に線香と水をあげて両親に帰宅を報告していたようだったが―――
「うん、お仏壇にもちゃんとお参りしたけどね、なんとなく、ほら・・・・・・お父さんはここにもいるような気がするのよね」
薫は、視線を道場全体にめぐらせる。
「なんて言うのかな、師匠としてのお父さん」
ああ、と剣心は合点する。
薫の父は、父親であると同時に剣の師匠でもあったのだ。薫はこの道場で沢山の時間を父親と過ごしたのだろう。
「父上殿は・・・・・・厳しかったでござるか?」
そういえばこれまで、薫から家族の話を聞いたことはなかった。
彼女の口から父親の話が出たことをきっかけに、剣心は何気ないふうに訊ねてみる。
「んー、父親としては世間一般並みに厳しかったと思うし、師匠としてもそうかな。女の子だからって容赦はなかったと思う」
言いながら薫は、ふいに道場の壁に向かって歩む。そして何か探すように壁の一部分を手のひらで撫でていたが、すぐに振り向いて剣心を呼んだ。
「ほらほら!ちょっとここ見て」
「何でござる?」
よく見ると、壁の一部に壊れた羽目板を直して張り替えたような箇所がある。道場には何度も足を踏み入れていたが、この修繕跡には気がつかなかっ
た。薫は跡を触りながら懐かしそうに目を細める。
「わたしが弥彦くらいの頃だったかなぁ・・・・・・稽古中にお父さんに吹っ飛ばされて、背中からここにぶつかって、ぶち破っちゃったの」
「ぶ・・・・・・」
女の子の思い出話にしてはハードな内容に、剣心は絶句する。
「お母さん、滅多に剣術の事には口出ししなかったけれど、あの時ばかりは烈火のごとく怒ったなぁ。女の子なのに傷でも残ったらどうするんです、っ
て」
「それは・・・・・・母上殿が正しいでござるな」
「うん、すごい剣幕だったなぁ、お父さんすっかり小さくなっちゃって」
薫はにこにこと笑いながら語るが、剣心にしてみればまったく母親に同感だった。幼い薫が酷い怪我でもしたらと思うと、ぞっとする。まぁ自分も子供の
頃あの師匠にさんざん痛めつけられたのだが―――
「・・・・・・剣術は、わたしが自分からやりたいって言ったの。お父さんもお母さんも、一度も強制したことはなかった」
え、と剣心は顔をあげる。
薫は壁の傷を見ながら、その深い色の瞳には子供の頃の情景を映しているようだった。
「お父さんは口に出したことはなかったけれど・・・・・・跡取りの事を考えると、男の子が欲しかったんだろうと思う。お母さんは、娘がこんなはねっかえり
に育ったのに、嫌な顔を見せたことはなかったわ」
外では五月蝿いくらいに蝉たちが、この夏のしめくくりとばかりに合唱をしている。なのに、今だけ、この道場の中にはその鳴声も届かないような―――
ひととき、ここだけ外界から切り離され、彼女がまだ子供だった頃に遡っているような。剣心はそんな錯覚に陥る。
柔らかな黒髪を少年のように高い位置で結った、今よりももっと細い手で竹刀を握る薫が同じ空間にいるような、錯覚に。
「両親には感謝しているのよ。こんなふうに育ててくれたおかげで、この度はなんとかわたしも戦えたもんね」
薫はぽんぽんと右の二の腕のあたりを叩きながら、悪戯っぽく笑う。
確かに、葵屋が襲撃された際、薫は操と組んで果敢に闘った。改めて剣心は、彼女はただ守られているだけの娘では決してない事を知ったのだった。
「それに、ニセ抜刀斎の事であんなになっちゃったけれど・・・・・・それまでは門下生もこんな小娘についてきてくれたしね。お父さんがちゃんと鍛えてくれ
たから、こうして道場の門は下ろさないでいられるわ」
だから、感謝しているのと、薫はもう一度壁の傷跡を撫でた。
無言でそんな彼女を見ていた剣心は、薫を真似るように、そっと壁に触れる。
「いいご両親でござるな」
「うん」
「もっと―――」
「え?」
「拙者がもっと早く、ここを訪れていたら―――父上殿にも母上殿にも、お会いしたかった」
述懐に耳を傾けていた剣心は、会ったことのない薫の両親の面影を辿るように、目を伏せた。
「・・・・・・ありがと」
薫が呟く。答えずに剣心はそっと手をずらし、彼女の白い手に重ねた。
「―――道場を継ぐのを、周りから反対はされなかったのでござるか?」
この際だからと、もう一歩踏み込んで訊いてみる。
薫は剣心の手のひらの温度に戸惑いながらも、当時の事を話し出した。
彼女の弁によると、父親が亡くなったとき、遠い縁ではあるが親類と呼べる人たちも、いることはいたらしい。
「でも、わたしは顔も知らないくらいの間柄で・・・・・・ほら、御一新のごたごたで、うちの縁者はみんな東京を離れちゃったらしいのよね」
江戸は将軍様のお膝元だったため、幕府瓦解後、街の名が東京と改まってから職を失った者も多く、その流れで他の土地に移ったものも少なくなかっ
た。
「だからお父さんが亡くなったときも、東京で道場を継ごうなんて言い出す親類はいなかったし」
むしろ周りからは、道場をたたむよう勧められた。
それどころか、若い娘ひとりでは何かと心細いだろうから、誰かの家に身を寄せたほうがという意見もあった。
「相手を世話してあげるから、嫁に行けとかも言われたっけ」
「よ」
剣心は喉に何かつっかえたような声を上げる。
ぎゅっと強く力をこめて手を握ってしまい、薫は小さく「痛っ」と声を漏らした。
「あっ、いや、すまない」
剣心は慌ててぱっと手を離す。
「・・・・・・まぁねぇ、わたしはお嫁に行くなら好いたひとのところにって思っていたから、丁重にお断りしたけど」
「うん、断ってくれてよかった」
大真面目に、大きく首を縦に振る剣心を見て、薫はちょっと目を丸くして、そして嬉しそうに「うん、よかった」と微笑む。
「じゃあ、そんな状況の中、薫殿は道場を守ったんでござるか」
「守った・・・・・・うん、そうね」
薫はすっと背筋をのばし、つい、と道場の中央に足を進めた。
細い背中がくるりと振り向いて、真っ直ぐな瞳が剣心を正面から見つめる。
「父は道半ばで斃れましたが、その遺志はわたしが継ぎます。父の教えを、神谷活心流を次代へと伝えることがわたしの使命です」
剣心は、どきりとした。
凛冽、且つ颯爽に言い切ったその顔は、頼りない少女のそれではなく、剣士の表情。
「・・・・・・ってね、道場やめろって言うひとにはそんなふうに宣言したの。そうしたら最終的は、じゃあがんばりなさいって事に落ち着いたのよ」
「頑張る・・・・・・」
ふわりと力を抜いて、薫はいつもの年相応の顔に戻って笑う。その表情につられて剣心は、つい思ったことを正直に口にしてしまった。
「随分とまた、強がったんでござるな」
そして直後に、負けん気の強い薫にはまずい表現だったかと後悔する。しかし、そう感じてしまったのだ。
薫の意を汲んでいないとしても、それでも心配する者たちはいたのだ。それなら何とかして彼らの力を借りて道場をやっていく手もあっただろうに。
それなのに、当時の薫はひとりで歩くことを決意した。ここ数ヶ月で薫の性格を良く知ることとなった剣心にしてみれば、それは強がりと思えてしまった
のだ。
「・・・・・・そうね、強がってたわ」
薫は、意外にも剣心の感想を否定せず、素直に認めた。
「けれど、上手に強がり続けて、強がっているところだけ見せたから、本当に強いって思ってもらえたのよ」
『本当に強いから、だからこの娘は大丈夫』
彼らにはそう思わせて、薫は道場を守った。
ひとりが寂しくないわけはなかったのに。
「・・・・・・だって、本気で道場を残したいって思っていたの、わたしだけだったんだもん。それほど縁の近くない人達をつき合わせるわけにはいかないでし
ょ?」
ああ、と剣心は肩から力を抜いて息をつく。
そうだ、この娘はこういう性格なのだ。負けん気が強くて頑固で意地っ張りで・・・・・・そして、とても優しい。
すでにこの土地を離れた縁者を巻き込んではならない。それならばひとりで何とかしなければと、決めたのだ。
薫はもう一度剣心に背を向け、視線をじっと神棚にむけた。
「・・・・・・それにね」
剣心を見ないまま、僅かに躊躇ってから、言葉を続ける。
「あの当時は、簡単に同情されて、誰彼構わずに頼りたくなかったのよ・・・・・・でも今は、支えてくれたら嬉しいなって人は、いるけれど」
え、と剣心は薫の後ろ姿を凝視する。
顔は見えなくても、彼女のうなじがほんのり赤くなっているのはわかった。
「支えになってくれるひとは・・・・・・ひとりでいいのよ。誰とは、言わないけれどね」
誰とは言わないけれど、それは誰かは明確で―――剣心が、当の本人がわからない筈はないだろう。
思い切って口にしてはみたものの、彼がどんな反応をするか不安で、薫は後ろを見られずにいた。
きし、と床が軋む音。剣心が近づく気配がしたがまだ振り返れない。
しかし薫が自ら動くより早く、剣心の両手が肩にかかって、薫の体はぐいっと後ろに引っ張られる。
「きゃ!?」
バランスを崩し、倒れかけた身体が剣心の胸で受け止められる。そのまま彼の腕が絡みつき、後ろから抱きしめられる格好になった。
「ちょ、剣心っ?」
予想外の行動をとられ、薫はますます顔を赤くして身体を硬くする。
背中で感じる彼の体温が暖かくて、耳の後ろにあたる息がくすぐったい。
「ど、どうした・・・・・・の?」
「・・・・・・支え」
「え」
「だから、支えでござるよ」
確かに、膝を崩してよろめいた薫は剣心に支えられた姿勢になったわけだが―――ひょっとして、剣心も照れているのかしらと、薫は彼の腕にそっと
指を添わせてそう思う。顔が見えないからよくわからないけれど、ぼそりと答えた声はいつもよりどこかぶっきらぼうに聞こえた。そして薫は、正面に神
棚があることに気づいて困惑する。
「ね、ねぇ剣心」
「なんでござる?」
「ちょっと・・・・・・これってお父さんに見られているみたいで、その・・・・・・」
口ごもる薫の心情は理解できたが、剣心は腕を離そうとはしなかった。
「別に、疚しいことはしていないでござるよ」
「でっ、でも〜」
耳元で囁くように喋る声は低く、彼のこんな声を聞くのは初めてだった。
薫は身をよじって逃れようとしたが、腕の拘束は堅固でびくともしない。
諦めて、力を抜いて体重を後ろに預ける。支えてくれるのに甘えるように、大人しく身を任せた。
「ずっと」
「え?」
「ずっと、支えになるから・・・・・・だから、これはそれの報告というか・・・・・・その」
報告。
神棚に―――つまりは、父親に。
その台詞が内包する意味を汲み取って、薫は首を後ろに動かして彼の顔を見た。
「・・・・・・あ、ははは」
「・・・・・・って、薫殿、何でこの場面で笑うでござるか?」
「だ、だって剣心、真っ赤・・・・・・」
自分に負けないくらいの赤い顔を至近距離で見て、薫は申し訳ないと思いながらもこみ上げてきた笑いを我慢できなかった。
「あー・・・・・・どうも、慣れないことをしてしまったかなぁ」
情けない声とともにため息をついたが、それでも薫を抱く手は離さない。
「そっか、報告なのね」
「そうでござるよ」
「・・・・・・ありがとう、頼りにしてます」
くすくすと楽しげにこぼれる笑い声が、暖かく剣心の胸に染み入る。
二人はひととき、互いの体温を着物越しに感じながら身体を重ねていた。
「剣心!薫ー!そっち終わったかー!?」
外から弥彦の叫ぶ声。
ふたりは顔を合わせて、小さく笑みを交わす。
「今、そちらに行くでござるよー!」
返事をしながら、名残惜しそうに剣心が腕を離した。
「それじゃあ、昼餉にしようか」
「お蕎麦にしましょ、冷たくしてね」
ほのかに暗い道場から、眩しい日差しが降り注ぐ外へと踏み出す。
真上から照りつける太陽が白く乾いた大地に、ふたりの繋いだ手の影をくっきり鮮やかに焼き付けた。
(了)