赤に近い橙色に染まった空の果てに、紅玉のような太陽。
その紅が、ゆらりと輪郭を滲ませながら地平に近づくとともに、空の色は群青に変化を始める。
やがて、藍のびろうどの上に砂金を撒いたかのような、星空が生まれた。
夜の暗さに足許が危うくなるのにも構わずに、剣心は舞台の一幕のように見事な日没の様に見とれていた。
「・・・・・・見せてやりたいな・・・・・・」
ふと心に湧いた言葉はそのまま口をついて零れた。
薫なら、この光景を見てどんな思いを抱くのだろう。
夕映えをうつしてきらきらと輝く彼女の瞳を想像すると、陽の光が流れ込んだように暖かなぬくもりが胸の奥に生まれ、剣心はひとり微笑んだ。
SWEET DREAMS
流浪人のときなら野宿で済ませていたが、今回の旅は仕事だ。警察に宿の斡旋もしてもらったため、厚意に甘えて宿場の門をくぐる。
今晩はここで寝んで、早朝に発てば明日の夜までには家に帰れるだろう。あの夕焼けなら天気が酷く崩れることもなさそうだ。
あてがわれた部屋に通され一息つく。窓の外をのぞいてみると星が綺麗だった。天の川の明るさに夜の底が照らされて、くっきりと山の稜線が浮かんで
見える。
「東京から、一日の距離か」
なかなかにいい場所だ。宿の女将は温泉も出ていると言っていたし、一人で楽しんでは薫に悪い気がしてきた。
―――薫も健脚だから、それこそふたりで足をのばすのも悪くないかもしれない。
そんなことを考えている自分に気づいて、剣心はまたひとりで笑いを漏らした。
「・・・・・・面白いなぁ」
道場を出て十余日。薫と所帯を持ってからこれだけの長さで家を離れたのは初めてだ。警察から依頼された仕事が無事解決してすぐに電信を打ったか
ら、薫は今頃自分の帰りを心待ちにしているだろう。
ひとりで遠出をするのは、少し前の自分にとっては当たり前のことだった。
いや、遠出と表現する以前に、帰る家などなく旅から旅への暮らしこそが自分の「生活」だった。
その頃は日本のあちこちを歩いて―――それこそ今日の夕焼けのような絶景にも幾度も出会ってきた。
山の上から見下ろす雲海。
純度の高い、磨き上げたギヤマンのような青空。その真下の遥か彼方まで続く白い雲。天人たちの住処に紛れ込んだかと思った。
あるいは、真っ白い雪に覆われた早朝の海岸。
生まれたばかりの朝の光が海面と空とで反射しあって、海と空が銀の一枚板のように輝いた。
吐いた息が白い塊になる寒さも、膝下まで埋まりながら歩く雪の冷たさもひととき遠のいてしまうほどの、硬質な、銀の光。
時として畏怖すら感じてしまうような、自然の生み出す造形の美しさに幾度も出会った。
しかし、その感動を共有するものはいなかった。いないのが当然だった。
それが今回の旅では―――川面に落ちた陽光が水に反射して、梢に映った水玉模様のひかりが揺らめく様を見ては。あるいは甘い豊かな芳香に誘われ
て首をめぐらせた先に、名も知らぬ清楚な野の花の群生を見つけたときにも、まず彼女の顔が浮かんだ。
薫にも、見せたいな、と。
彼女とこの感動を分け合いたいな、と。そんなことばかり考える自分の変化が新鮮で、面白いなと思う。
―――薫なら、俺よりずっと豊かな表情で歓声をあげ、嘆息し、時には言葉を失うのだろう。
生き生きとした光を湛えた瞳を更に輝かせて、隣で笑うことだろう。
会えない時間を過ごすなかで、薫のことを想うと寂しさに胸が疼いた。
しかし同時に、彼女の笑顔を思い浮かべるだけで、ほんのりと暖かい心持ちになった。
君も、同じ気持ちでいるのだろうか。
帰ったら、この十余日間どんな気持ちでいたかを伝えよう。
見てきた風景について話そう、いつか一緒に見ようと言おう。
そして君がどんなふうに過ごしていたのかを、教えてもらおう。
今日は早く寝んで、明日は出来るだけ早くに発って、できるだけ早く薫のもとに帰って。
そして君の身体をきつく抱きしめて、君が「苦しい!」と苦情を訴えるまで離さないでいよう。
離ればなれで過ごす最後の夜。剣心は毎夜儀式のように呟いてきた言葉を、もう一度唇に乗せた。
「おやすみ、よい夢を」
明日になったら、君に逢える。
了。
2015.12.12
モドル。