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        剣心は、一瞬言葉に詰まった。



        それは確かにそうなのだが。
        紛うことなき事実なのだが、でも。


        「いやしかし、拙者は自分でここに居たいと思ったからとどまったのだし・・・・・・その、京都のことだって、あれは・・・・・・」
        「うん、大丈夫、わかってるから」
        困らせるつもりではなかったのだろう。薫は、優しい声で続けた。

        「剣心がうちに居てくれたのも嬉しかったし、京都でまた会うことができて、今こうしてみんなで帰ってこられたのも、とっても嬉しいんだから・・・・・・それで
        充分よ。ありがと、剣心」


        ・・・・・・こんな声で喋る少女だっただろうか。


        いつも賑やかに笑い、はきはきと喋る唇が紡いだ、優しく静かな声音。
        そこには、別離を経験して、嘆くだけ嘆いた末に、また立ち上がって前を向いた彼女だからこその、深い響きがあった。


        不意に、焦燥感にかられて剣心の胸は疼いた。
        どんな理由があろうとも、どんな結果であろうとも、勝手に突き放していなくなって、薫を悲しませて泣かせたのは自分なのだ。
        それは、今更取り繕えない事実なのだが―――

        「・・・・・・でも薫殿、ほら、あれは、拙者からだったでござるよ」
        言い訳めいた口調で、剣心が言った。
        「・・・・・・あれ、って、何?」
        「だから、その、あの時の・・・・・・」

        言っている意味がわからず、薫は首を傾げる。
        「あれだけじゃわからないわよ、何のこと?」
        「あー、だから」


        細い道、すれ違うことも並んで歩くことも出来ない路で、剣心は突然立ち止まり、くるりと回れ右をした。
        正面から剣心と衝突しそうになった薫は、慌てて立ち止まり一歩後退しようとする。


        しかし薫の足が動くより早く、剣心が一歩前進した。


        腕を、伸ばす。
        胸と胸が触れる。頬と頬が重なる。



        細い身体を、ぎゅ、と抱きしめる。



        「・・・・・・これは、拙者のほうからだった」



        薫が、小さく息を飲んで、驚きに身をかたくした。
        その気配を感じて、胸が苦しくなるような愛おしさがこみ上げる。力の加減が、出来なくなりそうになる。



        五月の、あの夜。
        こんなふうに君のことを抱きしめた。

        風の強い晩だった。もう、東京に戻ることはないと思っていた。
        二度と会えないのならば、せめて別離の瞬間だけはと、想いに忠実に動いた。

        「ここにいて」と言ったのは彼女からだし、追いかけてくれたのも彼女からだった。
        けれど、自分もこの場所にいたいと思っていたし、戻りたいと思っていた。


        それに―――


        背中にまわしていた手をそっと移動させて、彼女の髪をするりと撫でる。
        重ねていた頬を離し、近い距離から顔を覗きこむ。頬を赤く染めた薫が、おずおずと見つめ返してくる。



        ―――それに本当は、ずっと触れたかった。こんなふうに、君を抱きしめたかったんだ。



        指を伸ばして、輪郭を確かめるように頬をなぞる。指先から、柔らかさとあたたかさが伝わってくる。
        薫の睫毛が、ふるりと震えた。戸惑ったように言葉を発せずにいる唇は、もっと柔らかいのだろうか。

        どうしよう、そこに触れてみたい。触れたら、君はどんな表情を見せてくれるのだろうか。
        頬を手で包んだまま、そっと顔を近づける。近すぎる距離と視線に耐えきれなくなった薫が、ぎゅっと目を瞑る。ああ、可愛いなと思いながら首を傾けよう
        として―――


        そこで、背後から近づく人の気配に気づいた。


        「いらっしゃいませ、暑い中ありがとうございます」


        おっとりとした声に、慌てて剣心は抱きしめた手を離し、もっと慌てた薫は、ばっと勢いよく後ろに退いた。
        振り向くと、小径の向こうから歩いてきた人影がひとつ―――昨日の、初老の婦人である。

        「あら?まあ・・・・・・早速来てくださったんですね、ありがとうございます」
        嬉しい驚きの声をあげた婦人に、剣心は「あ、いいいいや、こちらこそ昨日はどうも・・・・・・」とうわずった声を返す。
        剣心以上に動揺しながらも薫は、どうにか息を整えて、彼の影からひょこ、と顔を出した。
        「えーと、こ、こんにちは」
        ぺこりと頭を下げた薫に、婦人は「あらあら、お話し声が聞こえましたので、お迎えにあがってしまったのですが」と頬をほころばせる。

        「こんな可愛らしいかたを連れてきてくだすったのですね、奥様でいらっしゃいますか?」
        「「・・・・・・っ!?」」


        ふたりは、揃って真っ赤になり、絶句する。
        薫にしてみれば、今の剣心の抱擁で既にいっぱいいっぱいのところ、更にこの呼称である。とっさに否定する言葉も出ずに、おたおたと慌てるしかなか
        った。
        剣心も似たり寄ったりの有様であったが、それでもなんとか一拍早く態勢を立て直し、「違うでござるよ彼女は」とすぐさま訂正しようとしたが―――喉
        まで出かかったその台詞を、蛮勇をふるって飲み込んだ。



        きっと、京都に発つ前の自分なら、即座に違うと言ったことだろう。
        でも、今は―――



        「いや、その・・・・・・実は、彼女の名前が屋号と同じ、『薫』なんでござる・・・・・・よ。だから、お陰様で喜ばせることができたでござる」
        「まあまあ、それはこちらとしても、嬉しい限りでござります。ちょうど庭に面した席が空いたところですのでご案内いたしますね。どうぞこちらへ」
        「ああ、それは・・・・・・かたじけないでござる」

        婦人は、穏やかな微笑みを浮かべてふたりを先導する。
        薫の前を歩く剣心は、この路が狭くてよかった、と心から思った。だって、頬どころか首まで赤くなってしまった自分を、彼女に見られずに済むのだから。



        「・・・・・・その、薫殿」
        振り向かずに、かろうじて背後にいる薫に聞こえる程度の音量で、囁くように尋ねる。
        「なぁに?」
        「気を悪くしていたら、すまない」
        「・・・・・・何が?」
        「だから、その・・・・・・否定、しなかった、こと」


        「奥様」と勘違いされてしまったのは、おそらくは今日の薫の、淑やかで落ち着いた装いの所為もあるのだろう。
        勘違いされたことを肯定はしなかったが、否定して訂正することもしなかった。その事について、薫が気を悪くしてはいないかと危惧し、尋ねずにいられな
        かったのだが―――

        「・・・・・・ばか。悪くするはず、ないじゃない」
        返ってきた声はくすくすと笑みを含んでおり、振り向かずともその声音で、薫が笑顔であることがわかった。
        心底ほっとした剣心は、安堵の息に乗せて、小さく「よかった」と呟く。ごく微かな声であったが、薫の耳には届いたのかもしれない。なんとなれば、歩きな
        がら彼女に、つん、と髪を引っ張られたから。



        けれど、もうこれ以上この話題には触れないでおくことにしよう。
        これ以上触れると、気恥ずかしさに茶屋を楽しむどころではなくなるのは目に見えている。











        「今なら庭の百日紅も見頃ですから、おふたりとも気に入ると思いますよ。さあ、どうぞ」


        程なくして、打ち水を施された玄関に到着した。そして、暖簾をくぐった直後薫はあっというまに、店名だけではなく、「花織る」の瀟洒で明るい雰囲気を好
        きになってしまった。

        「気に入ったでござるか?」
        彼女の表情を見れば一目瞭然なのだが、それでも聞きたくて、つい尋ねる。
        「とっっても、気に入った!」
        通された窓辺の席についた薫は、満面の笑みで答えた。
        「これで味がよければ、最高でござるな」
        「あら、ぜったい美味しいに決まってるわよ」
        薫は品書きとにらめっこをしながら、どれを注文しようか悩み始める。
        そんな彼女を眺めながら―――剣心は改めて、自分の想いを確認する。



        君と出逢って、君のもとで暮らすようになって、いつの間にか君のことを好きになっていた。
        だから、此処にいたいと思った、君と一緒にいたいと思った。君のそばに、戻りたいと思った。


        「どれもわたしから」と君は言ったけれど、このことは胸をはって宣言できる。
        俺は確かに、自分から君を好きになった。
        明るくて泣き虫でよく怒りよく笑い、いつも一生懸命でいつも優しい―――君のことを。



        「ね、剣心は何にする?」
        薫は顔をあげて、品書きを剣心のほうに向けて尋ねたが―――くすりと、その口元に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
        「どうしたのでござる?」
        「剣心、また顔が赤い」
        「・・・・・・おろ?」

        薫はくすくす笑いながら、剣心の顔を覗きこむ。
        「具合が悪いんじゃないのよね?どうしたの?何を考えてたのー?」
        「い、いやいや何でもないっ!ほんとに何でもないでござるっ!」
        剣心は薫から品書きの紙をもぎ取るように受け取り、それで顔を隠しながら必死にごまかした。


        いい年齢をして、いちいち初恋の少年のような反応をしてしまう自分がみっともないとは思うのだが、こればかりはどうすることもできない。
        我ながら情けないが、これでは気持ちを伝えられるのはいつになることやら。




        けれど、いつか必ず自分から伝えよう。


        これに関しては、絶対に君に先を越されるわけにはいかないから。






        「きみのことが、大好きなんだ」、と。















        Shall we date? 了。







                                                                                 2017.08.06






        モドル。