緋村先生。
緋村コーチ。
時々ふざけて、緋村師匠。わたしを含め、剣道部の皆は彼のことをそんなふうに呼んでいた。


バレンタインの日に告白をし告白をされて、わたしと彼はまさかの奇跡で両想いであることが判明した。
判明したんだけれど―――その、「緋村先生」という呼び方について、思うところがひとつ。






恋人前夜





     

『俺は、神谷さんの好きな呼び方でいいよ』



電話での会話って、なんだかくすぐったい。
きっと、彼とこんなふうにスマホで通話することに、まだ慣れていない所為だろう。ちょっと、なんていうか耳元で囁かれているみたいで・・・・・・いえ勿論、現実でそんなふうにされた事は一度もないんだけれど。何せ、彼と想いが通じあったのは、つい最近のことなのだから。

「いいの?ほんとにいいの?心配じゃないんですか?」
『心配って、何が?』
「ほら、うっかり間違って、みんなの前でそっちの呼び方しちゃったら、大変でしょう?」
『神谷さん、しっかりしているから大丈夫でしょう。あ、いや・・・・・・違うか。時々ドジなところあるから、たしかに危ないか』
「え、ひどい!わたしいつもそんなですか?!」
『ごめんごめん、時々だって』
電話の向こうで、笑う声。まぁ、ドジなことは自分でも認める事実だからいいんだけれど・・・・・・



「緋村先生」という呼び方を、変えたい。



そう訴えたのは、部員の皆とは全く違った関係になれたんだから、呼び合う名前も他の子とは違う特別なものにしたかったから。
これって、単なるわたしのわがままかもしれないけれど。でも、この恋は皆には内緒の秘密の恋なんだもの。だからせめて、このくらいのわがままは許してほしくて。


「下の名前で呼んでも、いいんですか?」
『敬語になってる』
「あー・・・・・・」
ちなみに、「敬語はやめようよ」というのは彼からのリクエスト。わたしにしてみたら、そっちのほうが簡単に直せないでいるんだけど・・・・・・
「じゃあ、下の名前で呼んじゃいますよ」
『どうぞ』

なんとなく、彼が居住まいを正して待ち構えている姿が想像できて・・・・・・なんか、そういう反応を返されると恥ずかしいというか、緊張してしまう。この感じ、バレンタインの帰り道に告白したときみたいだわ。
でも、彼だって「敬語はやめよう」って提案してきたんだもの。だからきっと、彼も望んでいるはず。交わす言葉も、他の子とは違う、特別なものにすることを。それに、呼び方を変えたら、自然と敬語もやめられるかもしれないし。


だから、思い切って―――せーの!



「・・・・・・剣心!」



うっかり思い切りすぎて、大きな声が出てしまった。
スマホの向こうから明らかに驚いた気配が伝わってきたのは、その音量の所為かと思った。


「ご、ごめんなさいっ!耳、大丈夫ですかっ?!」
『あ・・・・・・いやいやごめん。って、え、耳?』
「つい大声出しちゃったから」
『ああ、そういう事か・・・・・・いや、耳は平気。そっちじゃなくて、名前』
「え?」
『呼び捨てが来るとは思わなかったから、びっくりした』



・・・・・・!



やっちゃったぁぁぁぁぁ!!!



あああああ馬鹿!わたしの馬鹿ー!そうよ「緋村先生」からいきなり「剣心」はないでしょう!下の名前といっても「剣心さん」でしょう普通は!
こういうところがドジなんだわ、いやドジどころじゃないわどうしてわたしっていつもこうなのかしら―――って脳内で反省してる場合じゃないわ謝らなきゃ!

「ごめんなさい」と言おうとしえ、あわてて口を開く。
けれど、喉元まで出かけた言葉は、彼に遮られた。



「薫!」




息を、飲んだ。


耳に届いた彼の声も、さっきのわたしみたいに大きな声だった。けれど、驚いたのはそこじゃなくて。
思いがけない、不意打ちとも言える呼び捨てに放心していたら、電話口から続けて『・・・・・・よかった』という声が聞こえた。



「・・・・・・え?」
『ありがとう。薫が先に呼び捨ててくれたから、こっちも遠慮なく呼び捨てにできる』



・・・・・・ああ。
このひとは、ほんとにもう・・・・・・

ひとまわりも年上の彼をいきなり呼び捨てにしてしまい、がさつな子だと幻滅されたのではないかと思ったのに、すぐにこんなふうに返してくれる。そんな優しいところも、彼を好きになった理由のひとつだ。
ううん、「好き」なんかじゃ足りないわ。「大大大好き!」と叫んだって、きっと足りない。

『それとも、呼び捨てにされるのは嫌?別の呼び方がいい?薫さんとか、薫ちゃんとか、薫様とか、薫殿とか・・・・・・』
「じゃあ、薫殿で」
『え?!』
「うそ、呼び捨てがいい」
そしてわたしたちは、電話越しに声を合わせて、笑った。






『そろそろ切るよ。また明日ね』
「うん、お母さんがお昼用意してくれるから、遅れないで来てね」
『・・・・・・』
「どうしたの?」
『いや、いよいよ明日はお父さんに会うのかと思うと、緊張してきた』

だったら挨拶なんてやめておけばよかったのに、と。緊張のあまりがちがちに強張っている彼の顔を想像して、可笑しくなった。
明日、彼がうちに来る。目的は「お嬢さんとの交際をお許しください」とわたしの父にお願いして、許可を頂戴するため―――って、交際に許可っているの時代の話?今どきそんなことをする彼氏なんて、聞いたことないんだけれど・・・・・・
しかし、彼曰く「だって高校生と社会人なんだよ?!ちゃんと挨拶するまでは、付き合うなんて駄目に決まってるよ!」と、いうことだそうで。だから、わたしたちは両想いにはなれたけど、まだ恋人同士ではない。彼氏彼女という間柄になれるのは、正確には明日からなのだ。


「大丈夫!とりあえず、お母さんのほうは大歓迎の姿勢なんだし」
『それはありがたいけれど・・・・・・俺、お昼ご飯喉を通るかなぁ』
こんなに気弱になっている彼ははじめてで、でも、そんな姿を見られるのは(いや、正確には今は電話だから見えてはいないけれど)、「彼女」の特権なのだと思うと、それもまた嬉しい。


嬉しくて―――つい、調子に乗ってみる。




「今からそんなんじゃ、結婚の申し込みの時、どうするの?」




スマホから口を離して、ごくごく小さな声で呟くと、『え?ごめん、聞こえなかった』という返事。
急に恥ずかしくなって、ぼわっと顔に血が上る。


「ううん!なんでもないの!じゃあまた明日ねおやすみなさいっ!!!」
彼が不思議そうに『おやすみなさい』と返すのを聞き届けてから、通話をオフにする。


・・・・・・わ、我ながら、気の早すぎる発言をしてしまった・・・・・・


いや、気が早いどころじゃないわ。高校生のわたしにとっては結婚なんて夢のまた夢の妄想レベルの話だわ。
だけど、好きなひとのお嫁さんになりたいって思うのは、きっと自然なことよね?夢だってわかっているけれど、夢見るくらい・・・・・・いいわよね?

火照った顔のままベッドの上に寝転がって、スマホをもう一度耳に当ててみた。
彼の声の余韻がまた、あたたかく耳朶に残っている。

「緋村先生」「神谷さん」から、「剣心」「薫」になったわたしたち。そして、明日からは晴れて彼氏と彼女になれるんだ。
とはいえ・・・・・・明日はお父さんの前で彼のことを呼び捨てにしないよう気をつけよう。「目上のひとを呼び捨てにするな」って、きっとわたしのほうが怒られちゃうわよね。




そんな事を考えていたら、くすくすと笑いがこみ上げてくる。緊張している彼には申し訳ないけれど、今から明日が楽しみでたまらない。
恋人同士になる前夜、わたしはもう一度スマホにむかって「おやすみなさい」と呟いて、目を閉じた。






夢の中でも剣心に会えるよう、祈りながら。



















モドル。