「どうあがいても死んだ人には勝てないって、兜脱いだ?」
恵さんのその言葉に、勝ち負けの問題じゃない、と反射的に答えた。
もしかしたら、「負けているのかもしれない」という内心の怯えの所為で、そう答えたのかもしれない。
もし自分が巴さんの立場だったとしたら死ねるのかと問われて、きっぱり「死ねません」と答えた。
これは、頭で考えるよりも早く、心が反応して口が動いた。
だって、わたしは剣心を苦しませたくないし、悲しませたくない。
これ以上、彼を「死」に直面させたくなんかない。これ以上、彼が辛い思いをするのは、嫌だ。それは間違いなく、心からの願いだった。
けれど―――
しなやかな腕の祈り
剣心が、過去の話をみんなに語った日の夜。恵さんと燕ちゃんとそしてわたしは、布団を並べて敷いて、揃って横になった。
「もう寝ましょう」と恵さんに促されたものの、頭の中が熱くて目は冴え渡って、なかなか眠りにつくことはできなかった。
・・・・・・奥さんが、いたんだ。
そりゃ、剣心はわたしよりずっと年上でずっと大人なんだから、これまでに想いを交わした女性のひとりやふたりくらい、いて当然だと思っていた。
けれど、一生をともに歩む筈のひとがいただなんて、想像もしていなかった。
そんなに愛していたひとと、あんなに悲しい別れをしていただなんて―――
どうしよう、胸が痛い。
痛くて痛くて、とても苦しい。布団の中で横たわったまま、自分で、自分の肩を抱きしめる。
急に、不安になった。
わたしはまだ、彼からちゃんと「好き」と言われていない。
互いに、面と向かって口に出して伝えてはいないけれど、互いの気持ちの在処は知っているつもりだった。
なのに、たまらなく不安になった。どうしようもなく、怖くなった。
剣心と巴さんは、嫌いになってさよならをしたわけではない。互いに愛し合ったまま、ふたりの時間は終わりを告げた。
じゃあ―――巴さんがいなくなってからも、剣心はずっと、彼女を想い続けていたのだろうか。
あの十字傷に指で触れる度に、彼女を思い出していたのだろうか。
そんなことを考えると、胸が壊れてしまいそうに痛む。
これは間違いなく、嫉妬という感情だ。
きつく目を閉じて、剣心の腕の強さを思い出そうとする。これまでに幾度も、わたしを庇って、守ってくれた彼の腕を。
京都から帰ってきて間もない夜、背中がしなるくらい抱きしめられたときの強い感触を。
雑踏の中、縁日に連れ出そうとして、握ってくれた手のあたたかさを。躊躇いがちに首筋を頬をかすめた、指先の温度を。
頼りになる言葉を貰えていないからといって、せめて触れられたぬくもりにすがろうとする自分が、我ながら滑稽だった。
いつもいつも守ってくれる彼の腕からは、包み込むような優しさが伝わってくるのに。眼差しからは、暖かな想いを感じとっているのに。
それなのに、彼の過去を知った途端、こんなにも不安に駆られて、泣きたくなっている。
ああ、どうしてわたしはこんなに弱いのだろう。
もう、弱音は吐かないと決めたのに。うずくまって泣いているだけの情けない自分には、二度と戻らない筈だったのに。
こんなに―――剣心のことが、大好きなのに。
★
雪が、降っていた。
身に着けているのは単衣の普段着のみなのに全く寒さを感じないのは、これが夢の中だからだろう。
目の前に、剣心がいた。
うずくまっている後ろ姿は確かに剣心だったけれど、わたしが知っている彼とは少し様子が違っていた。
わたしが知っている彼より肩は薄くて、うなだれた首筋も細いように見える。髪を、わたしと同じように高い位置で結っている。
ああ、そうか。これは過去の剣心だ。
彼が語ってくれた、幕末の、少年の頃の剣心だ。
地に膝をつきうずくまる彼は、腕に女性を抱いていた。
その女性は、剣心の胸に頭を預けたまま身体を投げ出して、ぴくりとも動かない。
あれは、巴さんだ。
ここからでは顔は見えない。見えたとしても、わたしは彼女の顔を知らない。
けれど、巴さんは幸せそうに微笑んでいた。顔は見えないのだけれど、何故かそのことは感じることができた。
ああ、そうか、嬉しいんだ。
愛しているひとを、身をもって守れたから。愛しているひとの腕の中で死んでいけるから。
そのことが嬉しくて―――穏やかに、あんなに幸せそうに、笑っているんだ。
ゆらりと、空気が揺れた。
剣心の腕の中で横たわる巴さんの輪郭が、陽炎のようにゆらいで二重になった。
ゆらりと、彼女は立ち上がる。
動かない身体を、剣心の腕の中に残したまま。彼女の―――魂だけが身体から抜け出て、立ち上がる。
立ち上がった巴さんは、一歩踏み出した。
その先には、ひとりの男性がいた。
顔は、やはり見えない。
しかし、この時代の男性らしく髷を結って、腰に大小を差しているのが見えた。
ふいに、あたりの空気が喜びの気配に満ちた。
よろめくようにしてその男性の方へ駆け寄ろうとした巴さんを、そのひとはしっかりと抱きとめる。
その、途端。彼らから溢れた喜びの感情が、奔流となってわたしの中に流れこんできた。
ああ・・・・・・よかった。
ずっとずっと好きだったひとに、やっと逢うことができたんだ。ようやく、ふたりは一緒になれるんだ。
清里さんは―――ちゃんと、巴さんの傍にいたんだ。
巴さんは、震える腕で清里さんにすがりついていた。泣いているようだった。けれどそれは間違いなく幸せな涙だ。
だって、ふたりから溢れてくる想いは、こんなにも暖かくて、こんなにも満ち足りている。
やがてふたりは、寄り添いながら歩き出した。
きっと、魂がゆくべきところにゆくのだろう。そして、もう二度と離れることはないのだろう。
暖かな気配が遠ざかってゆく。
後には剣心と亡骸と、そしてわたしが残される。
剣心の肩は、小さく震えていた。
泣いているのだろう。当然だ、愛しているひとを失ったんだから。こんなにも突然、こんなにも悲しい形で。
うずくまって泣いている剣心の肩は、わたしが知っている彼のそれよりも細くて、とても頼りなく見えた。無理もないことだろう、ここにいる彼はまだ十五歳
なんだから。わたしよりもまだ幼い頃に、彼はこんなに悲しい目に―――
そう思って、はっとした。
そうだ、こんなに辛い離別を経験したとき、彼はまだ十五歳だったんだ。
わたしの知っている剣心はわたしよりずっと大人で、誰よりも強くて頼もしくて。その腕でいつもわたしを守ってくれて、ときに抱きしめてくれて―――ずっと
旅を続けるなか、ひとりでもしっかりと生きてきたひとだと思っていた。
けれど、彼だって最初から大人だったわけでもないし、強かったわけではない。最初から、ひとりで生きていたわけではないんだ。
剣心にだって、幼い頃、守ってくれる両親がいた。導いてくれる剣の師がいた。愛していた、愛してくれたひとがいた。
彼には、大切なひとが沢山いたはずなんだ。それなのに―――ひとりになってしまったんだ。
ゆっくりと、わたしは剣心の背中に歩み寄る。
「・・・・・・辛かったね」
わたしの声に、彼は何の反応も示さない。でも、構わずに膝を折って、彼の肩にそっと指先で触れた。
「でも・・・・・・今のあなたは、もう独りじゃないよ」
夢の外にいる明治のあなたは、もうひとりじゃない。
あなたを心配しているひとがたくさんいる。あなたの辛さを、苦しさを軽くしてあげたいと思っているひとが何人もいる。
「だから、もう・・・・・・そんなふうに泣かないで」
震える肩に腕をまわして、抱きしめた。
降り続く雪に凍てついた髪に、やわらかく頬を寄せる。
わたしが、あなたにとってどれだけの救いになるかはわからない。
わたしじゃ、なんの救けにもならないかもしれない。でも―――
「・・・・・・わたしは、ずっとそばにいるから」
だから、もうひとりきりで泣かないで。
泣きたいときは、どうか、わたしの腕の中で。
剣心は、何も言わなかった。けれど、微かな衣擦れの音とともに動いた手が、おずおずとわたしの袖に触れるのがわかった。
腕を動かして、彼の手を握る。だいじょうぶ、と言うように、ぎゅっと力をこめる。
剣心は、何も言わなかった。
ただ、すがりつくような力で、彼はわたしの手を握り返した。
★
みんなで遅い朝を迎えると、またしても燕ちゃんの寝癖が凄いことになっていた。それを見た恵さんがすっかり面白がって、「わたしにやらせてよ」と言って
櫛をとった。
ふたりの横で身支度を整えていると、ふいに恵さんが「昨夜は、あの後よく眠れたみたいね」と言った。
「え?」
「あなた、随分とすっきりした顔してるわよ」
「そう・・・・・・かもしれません」
よく眠れた、というよりは、夢に助けられたのだろう。あの夢のおかげで、しっかりと心が決まったような気がする。
「ねぇ、恵さん」
「なに?」
「女の人から告白するのって、ありでしょうか?」
恵さんは燕ちゃんの髪を梳く手をぴたりと止めると、呆れた顔で「まだしていなかったの?ぐずぐずしてないで、さっさと言っちゃいなさいな」と答えた。わた
したちの会話に、燕ちゃんがぽっと頬を染めた。
「ほんとに・・・・・・早くしておけばよかったです」
昨夜、まだわたしは剣心からちゃんと「好きだ」と言われていない―――なんて鬱々としていたけれど、それならそれで、わたしからきちんと言えばいいだ
けの話だったんだ。そうしたら、今頃わたしは、「いつでも剣心を抱きしめることができる」立場になれていたかもしれないのに。それにはまぁ、彼の意思も
重要なのだけれど。
女性陣三人で、朝食の支度をした。
手を動かしながら、昨夜の会話とあの夢とを、頭の中で反芻する。
「何があっても、わたしは剣心を残して死んだりしない」
その想いは本心からのものだけれど―――ほんの少しだけ、「巴さんが羨ましい」と思ったのも事実だった。
だって、剣心はきっと、巴さんがいなくなってからもずっと、彼女を想い続けていただろうから。
彼の心の中に、巴さんの存在がつよく刻みこまれていることを、羨ましいと思った。彼の心の中にいるであろう彼女に、わたしは嫉妬した。
けれど、そうじゃないんだ。
剣心はずっと、巴さんと愛し合った優しい思い出だけじゃなく、巴さんを失った悲しみも、一緒に抱え続けてきたんだ。
突然すぎる離別の悲しみと―――心が千切れそうになるくらいの、後悔と罪悪感を、ずっと。
ご飯は道場で食べようということになった。
外に出ると、庭の方から、弥彦の気合が入った掛け声が聞こえてくる。あの子もあの子なりに、何かを決意したのかもしれない。
お鍋を提げて井戸端に差し掛かると、剣心の後ろ姿が見えた。
彼は一杯水を汲み上げると、桶を頭上でひっくり返す。冷たい井戸水を頭からかぶって、長い髪と肩とが盛大に濡れた。
濡れた着物が貼りついた背中はいつもよりも小さく見えて、夢で見た十五の彼の姿が重なって見えた。
強いひとだと思っていた。ひとりで生きてきたひとだと思っていた。
実際にあなたは強くて、ひとりでも挫けずにここまで生きてこられたのかもしれない。
でも、あなたの中には確かに、あの雪の日に泣いていた十五の少年がいる。
今もあなたの中にいる、あの冬で時が止まったまま泣いている、悲しみと後悔とに傷つき、苛まれているあなた。
わたしは―――そんなあなたを抱きしめる存在でいたい。
わたしに出来ることなんて、ほんの少ししかないかもしれない。
でも、あなたが辛いときに抱しめてあげることなら、きっとできる。昨夜、夢の中でそうしたように。
わたしはあなたより、剣の腕も心もずっとずっと弱いけれど。
それでも、わたしの頼りない腕は、あなたを抱きしめる為にあるんだと、わたしが決めたから。
あなたの、愛したひととの優しい過去も。あなたの、拭いきれない後悔も―――あなたの、すべてを。
顔を上げた剣心と目が合った。互いに「あ」と小さく声を漏らす。
彼は、昏い目をしていた。夢の中の十五の彼も、きっとこんな目で泣いていたのだろう。
大丈夫、わたしはあなたに悲しみを与えたりはしないから。
わたしは、あなたを残して死んだりしない。わたしは、あなたの心に傷を残したりはしない。わたしは、あなたの思い出になりたいんじゃない。
わたしは、あなたと―――ずっと一緒に、生きていきたい。
だから―――もう、泣かないで。
笑顔は、自然にこぼれた。
あなたには笑っていてほしい。だからまずは、わたしからあなたに、笑顔をあげよう。
「おはよう、剣心」
こんなにも―――あなたのことが、大好き。
了
2015.03.19
モドル。