大晦日の歌






        「風邪をひくでござるよ」
        「大丈夫! ちょっとだけだから」


        からりと雨戸を開けると、師走の夜の冷気がひそやかに流れ込んできた。
        「・・・・・・ほら、やっぱりこんなに綺麗」
        ため息とともに、薫の唇から声が零れる。隣に並んで空を見上げた剣心も、一拍遅れて感嘆の声を漏らした。
        「確かに・・・・・・見事でござるなぁ」



        夕方、ふたりは奇跡のような夕陽を見た。
        天の神様が今年最後の締めくくりのつもりで特別美しく染め上げたのだろうか、紅玉を溶かして天に流したように、鮮やかな朱の空。その色を東
        の空から追いかけて迫る、群青の宵闇。天空の大きな画布に所々筆を滑らせたように走る雲は、夕焼けの色を滲ませながら、ゆっくりと流れて
        形を変えてゆく。
        大晦日の日暮れ時、正月用の買物を手に提げて足早に帰路につく人々も、思わず歩く速度を緩めて見とれてしまうような空だった。


        今や完全に日は落ちて、茜の空にたなびいていた雲もすっかり消えた。
        凍てついた空気のなか満天の星がさざめき、半月を少し欠いた月は冴えざえと輝いている。
        「このぶんだと、元旦もよく晴れるでござろうな」
        「うん、月が沈む頃には、もう新しい年になっているのね」
        風は凪いでいるが、それでも真冬の夜である。剣心は体温を分け与えるように、そっと薫に身を寄せた。
        「以前は、大晦日にに月は眺められなかったものでござるが」
        なんの気なしに呟いた剣心に、薫は不思議そうな顔でまばたきをする。
        「ほら、数年前の暦は月の満ち欠けだったでござろう」
        きょとんとしていた薫もその台詞で直ぐに合点がいったらしく、そういえばと頷いた。


        暦が太陽暦に替わったのが六年ほど前のこと。それまでは月が満ちると十五日、欠けてなくなると晦日というのがこの国の常識だったが、それ
        が突然西洋と同じ暦に統一された。その頃とうに二十歳を過ぎていた剣心は、慣れ親しんでいた月の数え方が変わったことに面食らったものだ
        ったが、その当時薫はまだ、十を少し出たばかりだっただろう。剣心よりは柔軟に新しい暦に馴染んだに違いない。

        「国が違えば暦まで異なるとは、奇妙なものだと思ったでござるなぁ」
        「・・・・・・左之助、今頃どこに居るのかしらね」
        違う国、という言葉から連想したのか、不意に薫は旅立った友の名を口にした。
        「奴のことだ、どこにいても元気でやっているでござろう」
        「異国で年越しって、どんな感じなのかしらねぇ」
        「異国といえば、由太郎殿も独逸でござるな」
        「うん、早く治って帰ってくるといいな」

        誘い水に呼ばれたように、ふたりの脳裏を次々と親しい人たちの顔がよぎる。それは、多くが今年新しく出会った者たち。
        「恵さんは会津でお正月よね。ここより寒いんだろうなぁ」
        「それを言うなら京都も底冷えするでござるよ」
        「操ちゃんは蒼紫さんたちと賑やかに年越しでしょうね」
        蒼紫ほど賑やかという言葉が似合わぬ男もいないであろうが―――と、剣心が思ったところで、夜気を震わせて除夜の鐘が鳴りだした。


        「・・・・・・はじまったわね」
        薫は楽しげに呟いて、耳を澄ませる。
        「みんなも今、この音を聴いているのかしら」
        剣心はそれには答えずに、腕を伸ばして薫の肩を抱いた。



        大晦日に、大切な人と並んで除夜の鐘を聴いている。
        それは少し前の自分からは、想像も出来なかったことだ。



        大掃除を済ませて、道場は隅々まできっちりと掃き清められた。各部屋に輪飾りをつけて、供え物の準備もして、掛け軸も正月用のものに換え
        た。薫とともにそういった「年越しの準備」をするのは、剣心にとって新鮮な作業であった。何しろ今まではずっと、いつ終わるかも知れぬ旅暮らし
        だったのだ。それより昔の幼い頃の記憶は、時に隔たれて既に霞がかった彼方にある。
        この家全体がすっかり新しい年を迎える準備を整えたのを見て、剣心は改めて、自分はここに根を張って暮らしているのだな、と実感した。

        「弥彦も、今日くらい泊まっていけばよかったのに」
        夕飯時にやって来た弥彦は、「茹ですぎ!麺にコシがない!柔らかすぎ!」と文句をたれながらも年越し蕎麦を三杯たいらげて、食べるだけ
        食べると長屋へ帰ってしまったのだった。
        「まぁ、明日もまた来ると言っていたではござらんか」
        「正確には『雑煮を食べに来る』って言ってたけどね」
        薫は唇を尖らせてそう答える。蕎麦にけちをつけられたのが気に入らないのか、さっさと帰っていったのが寂しいのか、どこか拗ねたような口調に
        剣心は小さく笑った。
        「気を、きかせてくれたんでござろう」
        意味ありげな囁きに、薫の頬がほんのり赤く染まる。
        ひとつ、またひとつ、静かに除夜の鐘が響く。
        鐘の数を重ねるごとに、新しい年の気配がしんしんと夜の空気に満ちてくる。


        「・・・・・・今年は、いろんなことがあったね」
        「・・・・・・そうでござるな」
        「わたしはこれまでの人生の中で、一番激動の年だったかも」
        「うん、拙者も」
        「あら、そうかしら?」
        「そうでござるよ」
        「ふうん・・・・・・?」
        幕末、時代が大きく変わる矢面に立っていた剣心にとっては、あの当時が最も「激動」だっただろうにと思ったが、彼の表情がとても満足げなのを
        見て、薫は異議を唱えるのをやめた。そのままふたりは身体を寄せ合って鐘の音を聴いていたが、やがて薫がひとつ、小さくくしゃみをした。

        「そろそろ、閉めようか」
        「えー?もうちょっと」
        「駄目」
        「・・・・・・はいはい、剣心ってば時々お父さんみたいよね」
        肩をすくめた薫がしぶしぶ雨戸を閉めるや否や、剣心はぐいっと彼女の腕を引き寄せた。
        「きゃ・・・・・・!」
        バランスを崩した薫は半ば抱えられるようにして、居間へと引っ張り込まれる。
        「やだっ!ちょっと、剣心!」
        「ほら、すっかり冷たくなってる」
        「そんなの、剣心こそ・・・・・・きゃあっ!」
        抱きついてきた剣心に捕まえられて、薫は笑い声が混じった悲鳴をあげた。
        逃げ出そうと身を捩ったが敵わず、あっさりと畳の上に押さえ込まれてしまう。
        「やだやだっ!くすぐったいっ・・・・・・」
        ふざけあう二匹の子猫のようにばたばたとじゃれあっているうちに、夜気に冷えたふたりの身体に、あっというまに熱が戻ってくる。
        頬に首筋に、啄むような口づけを幾つも繰り返したのち、剣心はふいに唇を離して、自分の身体の下、上気した頬で息をつく薫をじっと見下ろし
        た。長い黒髪を鮮やかに畳に散らした薫は、悪戯を仕掛けてくる手が急に止まったのを不思議に思い、剣心の目をもの問い気に見つめ返した。


        「・・・・・・来年も」
        「え?」
        「来年も、その先もずっと、こうしていたいな」


        またひとつ鐘が響いて、夜の空気を震わせた。
        低い響きはゆっくりと尾を引きながら、無言の歌を奏でる星空に溶けてゆく。



        「この音を薫殿と、何年経っても、一緒に聴いていたいでござるな―――」



        新しい年へと向かう、時間の大河の流れに背中を押されたのだろうか。
        胸に浮かんだ言葉は、いつになく素直にこぼれ出た。

        今までは来年どころか、明日自分が何処を流れているのかすら定かではなかった。
        けれど、これからは、違う。



        「わたしもよ」
        するりと下から腕をのばし、薫は剣心の首に柔らかく抱きついた。
        「来年も再来年もふたりで・・・・・・ううん、もっと先は違うかもね」
        「え?」
        「何年か後には、家族が増えているかもしれないわ」
        その言葉の意味するところを正確に察して、剣心は一瞬驚いた表情になり―――そして口元が自然と笑みの形をとる。
        そのまま仰向けに身体を返し、薫を抱いて自分の胸の上に乗せる。

        「祝言を挙げるのは、冬の終わり頃がいいかな」
        「・・・・・・え」
        「拙者たちが初めて会ったのは、その時分だったから」

        剣心の胸に顎を乗せた薫は、大きな瞳をさらに大きくしてまじまじと彼の顔を覗き込む。
        そして、ふわりと表情を柔らかく崩し、はにかむように笑った。
        「・・・・・・はい」
        答える声に、鐘の音が重なった。







        月が沈んだ頃、除夜の鐘は百八つすべてを数え終わり、夜に静寂が戻ってきた。
        灯りの消えた寝所で横になりながら、剣心は今宵あらゆる人がそうしたように、この一年の様々な出来事を振り返り、改めて、今年は自分にとっ
        て大きな変化の年だったなと結論づける。

        過去に区切りをつけて、流れさすらう暮らしに終止符を打った。
        幾つもの出会いがあり再会があり、新たに大事な仲間たちができて、愛する女性ができた。
        そのひとは―――薫は今剣心の腕の中に抱かれている。


        二度と失いたくない、かけがえのないひと。
        額にかかる前髪を指でそっとすくうと、薫は小さく身じろぎをし、花びらのような唇を小さくほころばせた。


        「どんな夢・・・・・・みているのかな」
        呟いて、一足早く眠りの底に沈んだ彼女を追うように、目を閉じる。
        初夢の中で会えるよう、祈りながら。





        あと数時間で、夜が明ける。
        二人でともに歩き始める、新しい年がはじまる。










        (了)




                                                                                      2011.12.29








        
モドル。