「過去にはこだわらないわと言われた、その翌日」
騒動の夜が明け、薫はこの日は葵屋から稽古に出発した。
約束の時間には早いのでは? と操たちに言われたが、薫としては葵屋でただ時間になるのを待っているのが、もどかしくてたまらなかったのだ。
いや、もどかしいと言うよりはむしろ、不安だった。
昨夜の事件で薫は剣心に、「あなたが抜刀斎であっても気にしない」と言った。でも、もし彼が自分の過去を知られた事をきっかけに、また旅立ってしま
っていたら―――そう思うといてもたってもいられなくて、慌てるように葵屋を飛び出してしまったのだ。
結局、時間より一刻も早く待ち合わせ場所の茶店に着いてしまった薫は、大きく息をついて腰掛に座った。彼女のことを待っていたように馴染みの三毛
猫がすり寄ってきたので、抱き上げて膝の上にのせる。
しばらく遊び相手になってもらおうと思いつつ子猫の背中を撫でていると、「早いでござるなぁ」と聞き覚えのある声が降ってきた。
顔をあげると、剣心が照れくさそうな顔で佇んでいた。
「・・・・・・剣心こそ」
薫のとなりに、剣心は腰をおろす。
「いや、なんというか心配で、こんなに早く出てきてしまったでござるよ」
「何の心配?」
さっきの表情でなんとなく理由は想像できたが、ちゃんと彼の口から聞きたくてあえて問うてみる。
「その、昨夜あんな事があったから・・・・・・薫殿がもう来ないんじゃないかと思ってしまい、どうにも落ち着かず、つい」
ああ、彼も同じようなことを不安にかられていたのかと、薫は胸が暖かくなる。
「過去のことにはこだわらない、って言ったじゃないの。わたしって信用ないんだなぁ」
「いや、すまない―――でも、薫殿こそどうしてこんなに早く?」
「うん、昨夜あんな事があったから・・・・・・剣心が何も言わずに旅立っていたりしたらどうしようと思って、落ち着かなくって、つい」
「拙者、信用ないんでござるなぁ」
「お互いにね」
くすくすと笑いあって、なんとなく二人とも、無言になる。
それは気まずい沈黙ではなかった。剣心も薫も、あえて言葉をかわさないままで、ふたりの間に流れるあたたかい空気を噛みしめたかったから。
ふたりとも何も言わずに、でも同じ想いで、優しい沈黙を楽しんだ。
薫の膝の上で、三毛猫がにゃあと一声小さく鳴いた。
剣心と薫は、しばらく子猫をあやしながらのんびりとした時間を過ごした後、「稽古場」にむかった。
ひとしきり打ち合った後、剣心が一息つこうかと言うと、薫は「じゃあ約束通り、あっちに行きましょ」と、滝のほうを指差した。
どうどうと水が落ちるその後ろに、僅かに見えている扉のような物。昨夜からのどたばたで消えかけていた好奇心が、剣心の中でむくりと首をもたげた。
ついてきてね、と薫は軽やかに河原を駆けて、滝壺に近づく。この距離まで来て剣心は気づいたが、よく見ると足下はただ自然のままというわけではな
かった。河原の岩を利用し、滝に近づきやすいよう人工的に足場が整えられている。
滝壺の間近まで行くと、冷たい飛沫がふたりの肩先に跳ねかかった。しかし薫はそれをたいして気にもしない様子で、滝の裏側を剣心に指し示した。
岩肌がくびれて、上から落ちる水の流れとの間に、空間が出来ている。そしてそこには、木枠で囲われた扉があった。
―――これは確かに、ごく近くまで来なくてはわからないだろう、と剣心は感心する。
薫が手をかけると扉は簡単に開いた。するり、と水と岩の壁の間をくぐるようにして、薫は扉の中へと身体をすべりこませた。続いて剣心もそれに倣う。
薫よりひとまわり大きい程度の身体つきの剣心は、さほど濡れることもなく扉の向こう側に入ることができた。
「ちょっと待ってね、今明るくするから・・・・・・」
開いた扉の隙間から僅かに差し込む光だけでは、今いる「部屋」らしき場所の様子はよくわからない。が、人よりは暗がりに強い剣心の目には、薫が壁
際でなにやらごそごそと作業をしているのは判別できた。
頭上で、ぎしぎしと何がが軋る音がして、やがて光が差し込む。陽光に、薫の顔が白く照らされた。
「斜めに穴があってね、上のほうに天窓があるの。動かしたの久しぶりだったけど、壊れてなくてよかったわ」
剣心は、「部屋」の中を見回す。そこは、思っていた以上に広い空間だった。
どうやら、自然の洞窟に手を加えているらしい。ぐるりの壁は岩肌が剥き出しになっているが、所々に柱や梁があってご丁寧に掛け軸まで飾ってある。
床はきちんと平らな板敷きになっていて、驚いたことに小さな囲炉裏まであった。柱や床に使われている木の様子からして、かなり昔に作られた空間の
ようだ。
「お水も汲めるからお湯も沸かせるのよ。今、お茶淹れるわね」
薫はあらかじめ持参してきたのか、巾着から茶葉の包みを取り出した。
「いやー・・・・・・驚かされてばかりでござるなぁ。薫殿、ここは一体?」
「ずいぶん昔に作られた隠し部屋なんですって。先の戦・・・・・・いえ、わたしが生まれるずっとずっと前からあったみたい。昔はもっと滝の水量が多かった
から、知らない人が外から見ても、全然わからなかったらしいわよ」
言いながら薫は、慣れた手つきで茶の準備をする。まるで自分の家で過ごしているような自然な手つきだった。
「結構、凝った作りに見えるが」
「なんでも、昔身分のある人が、何かあったときに身を隠すために作ったらしいの。そういう目的にはもう何十年も使われてないらしいけど」
「それを今、薫殿が使っているのでござるか?」
「使っているっていうか・・・・・もともとここはね、わたしの父さんが教えてくれたの」
「父上殿が?」
「うん、父さんが子供の頃、ここを隠れ家にしていたんですって。子供ってこういうの好きだもんね」
「子供の隠れ家にしては、ずいぶんと豪華でござるなぁ」
扉の向こうから聞こえる滝の水音に、しゅんしゅんと湯が沸く音が重なる。
「父さんの隠れ家をわたしが継いだって感じかな・・・・・・蝋燭やお布団なんかも置いてあるから、今はわたしがたまに補充をしたり布団干しをしたり、手を
いれているの」
「しかし、いいんでござるか? そんな秘密の場所を拙者に教えてしまって」
薫は、きょとんとして剣心の顔を見る。彼女にとって、それは思いがけない台詞だったらしい。
「やだ、そんなこと考えてもみなかった・・・・・・うーん、そういえば秘密の場所だったのよね・・・・・・でも剣心には見ておいて欲しかったし、別に大丈夫よ」
あっけらかんと言う薫に、剣心はくすくすと笑いをもらした。
「薫殿は、隠し事が下手なんでござるなぁ」
何気なく口にした一言だったが、薫はそれに、ぴくりと反応した。
茶を淹れる手元に視線を落とし、剣心を見ないで言う。
「そうね、隠し事はきらいだわ。辛いし面倒くさいもの」
ふいにうつむいた薫の顔を、剣心は不思議そうに覗きこむ。
「でも、ほんとはわたし、いっぱいあるの。剣心に隠していること」
薫の口調は真剣だった。しかし、あえて剣心は軽い調子で切り返す。
「それはそうでござろう。拙者と薫殿はまだ出会って日も浅いのだし」
その言葉で、薫は顔をあげる。
「隠し事がきらいなら、そのうち言えるようになった時に言えばよかろう? それに、拙者だってまだ薫殿に隠していることは、色々ある故」
悪戯めいた言い方に、こわばっていた薫の頬が緩んだ。
「抜刀斎だって事以外にも?」
「それ以外にも」
「・・・・・・じゃあ剣心、しばらくはここにいてくれるのね?」
「おろ?」
「だって、今『そのうち』って言ったわ。って事は、そのうちって表現を使えるくらいの間は、この土地にいてくれるんでしょ?」
剣心の言葉尻をとらえて、薫は嬉しそうに言った。剣心はやれやれという風に肩をすくめて、「そういうことになるか」と笑った。
「約束したからね? じゃあ、これからもよろしくお願いします、はいどうぞ」
そう言って差し出された温かい茶を、剣心は「こちらこそ」と受け取った。
モドル。