雨は、突然やってきた。
数時間前、道場を出たときはすっきり晴れ渡った青空だったのだが、突如として沸き起こった灰色の雲が空を覆いつくしたかと思うと、ばらばらと大粒の雨
が落ちてきた。
当然、傘など持っていない。剣心は薫の肩を庇うように抱きながら、近場の軒先に避難した。
「大丈夫でござるか?」
無意識のうちにだろうか、お腹のあたりに手をあてている薫に、気遣わしげに尋ねる。薫は「ありがとう、大丈夫よ」と笑って答えた。
雨足はどんどん強くなってゆく。地面に叩きつけられる雨粒が飛沫となって跳ねあがり、道路を白くけぶらせる。篠突く雨は水の壁となり、道のすぐ向かい
の風景すらぼんやり霞んで見せている。
暖かい日和だったのに、雨が降り出した途端すっと気温も低くなったようだ。「寒くないでござるか?」と訊いてくる剣心に、薫は「心配性ねぇ」とまた笑う。
「今は冷やしてはいけない身体でござろう、心配もするでござるよ」
「ほんとに大丈夫!濡れる前に逃げこめたし、きっとこんなの通り雨だろうか・・・・・・ら・・・・・・」
と、明るく話していた筈だったのに、後半、急に語尾が心もとなくなる。原因は、暗い空に唸り声のように響いた―――遠雷の所為だった。
ごろごろごろ、と。低い音は次第に大きさを増してくる。雷がこちらに近づいてきているのだろう、音の大きさに比例して薫の顔はみるみるうちに強ばってゆ
く。その様子はどう見ても「大丈夫」とは言いがたかったので、剣心は腕を伸ばして彼女の頭を抱き寄せた。肩先に顔を埋めさせ、袖で包み込むようにして
やる。
「・・・・・・剣心?」
「うん」
「あの、ここじゃ、誰かに見られちゃうかもしれないし、その・・・・・・」
「雨が目隠しになってくれるよ。だいたい、この天気では皆周りに構っている余裕もないでござろう」
確かに、通行人は皆「我先に」という勢いで軒先に逃げこんでいるか、辺りには目もくれずの全力疾走で帰路を急ぐものばかりだ。剣心にそう言われたの
と雷が怖いのとで、薫は彼に甘えることに決めた。母親が恐怖の感情を抱くことは、お腹にいる赤ちゃんにも悪い影響を与えかねないだろうし。
雨音と雷鳴の合奏は賑やかだが、剣心に頭を抱かれていると、少しはその音も耳から遠ざかる。
薫は少し首を動かして、握った彼の着物の端を引っぱった。
「前にも何度か、こういう事があったわよね」
「雨宿りでござるか?」
「うん。京都で、ふたりで散歩に出たときとか・・・・・・あと、出逢ってまだ間もない頃とか」
「・・・・・・ああ、覚えているでござるよ。どちらも」
いちだんと派手な雷鳴が轟き、薫の背中が大きく震える。
剣心は、彼女を抱く手に力をこめた。
「・・・・・・あの時、ね」
「うん」
「どうして、剣心はこんな顔をするのかしら・・・・・・って。そう思ったの」
そう言って思い返したのは、明治十一年春の、驟雨である。
★
その日も、雨は突然やってきた。
連れだって歩いていた剣心と薫は慌てて手近な軒先に駆け込んで、雨足が弱まるのを待った。
その日も、やはり雷が鳴っていた。
剣心の横に立った薫は、自分の顔から血の気が引いてゆくのを実感していた。
雷は、苦手だ。得意な女子は少数派であろうが、薫は「とにかく」「殊に」と言い添えてもよいくらいに苦手だった。それというのも、幼い頃―――まだ時代
が明治に変わるか変わらないかくらいの頃だろう。近所の若い女性が、雷に打たれて亡くなるという事故があったからだ。
現場に居合わせたわけではない。しかし、見知っている人間の突然の死はかなりの衝撃だった。
ずっと街暮らしだった薫は、自然の力の前では人間の命など簡単に消し飛んでしまうという事実を、その事故ではじめて知ることとなった。
あれ以来、雷は苦手だ。余程の条件が揃わないと、人に落ちる事はないと頭では判っているのだが、それでも怖いものは怖い。薫は唇を噛んで俯くと、
雷鳴が早く遠ざかってくれるのをただ祈った。
「・・・・・・薫殿?」
語尾が微妙に上がった、疑問形で名前を呼ばれる。
「怖いのでござるか?」
遠慮がちに、そう訊かれる。まぁ、雷が鳴り出したのと同時に黙りこくって顔色を無くしているのだから、気づかれるのは当然だろう。
「・・・・・・そうよ、悪い?」
精一杯強がって出した声は、雨と雷の音にかき消されそうになりながら、辛うじて剣心の耳に届いた。
―――可笑しいと思われても仕方ない。
出会ってまだふた月程だが、自分が男勝りのじゃじゃ馬であることを、彼はしっかり知っている。そんな気性の娘が、たかが雷にこんなに怯えるだなんて、
普段の様子を知っている人間にしてみれば可笑しいに決まっている。例えば、左之助などが今の有様を見たものなら、「らしくない」と大笑いしそうなもの
だ。剣心の性格からいって、彼はきっと笑いはしないだろうけれど、それでも―――
「悪くないでござるよ」
いやに真面目な口調で、剣心が言った。
「悪いのは雷であって、薫殿ではないでござる」
・・・・・・なんだろう、言わんとしていることは理解できるけれど、その台詞は微妙にずれているような気がする。口の達者な彼にしては、珍しいことだ。とも
あれ、笑ったりされなくてよかった。薫はそう思い、小さな声で「ありがとう・・・・・・」と言った。
それから、ふたりはなんとなく黙りこむ。通り雨であろうが、止むまでにはもう少しかかりそうだ。
と、薫は自分の左手に何かが触れるのを感じた。
握った手の甲に、つん、と軽くぶつかった何か。それは、何度か躊躇うように触れた後―――ぎこちなく、薫の手を包んだ。
それが、剣心の手であることは明白だった。
薫は白くなった頬に、うってかわって赤く血が上るのを自覚する。我ながら忙しい事とは思うが、これは自分でどうこう出来るものではないので仕方ない。
―――きっと、彼はわたしを落ち着かせようと思ってこうしてくれたんだろう。
実際、驚いたのとどきどきするのとで、雷に対する恐怖心は確実に遠のいた。
ぎゅっと、かたく握りしめた拳を、剣心はひとまわり大きな自分の手のひらでくるむように包んでいる。
おずおずと、力を緩めて指を開いてみる。すると、彼の指が手の線をなぞって動き、今度はしっかりと繋いで握りしめた。
ふたりとも、何も言わなかった。ただ、黙って手をつないでいた。
どおん、と何処かに雷が落ちる音が轟いて、薫の肩がびくっと跳ねた。剣心の手に、大丈夫だよというように力がこもった。
鼓動がうるさい。でもこれは恐怖によるものではないだろう。どきどきしてなんだか苦しいくらいだけれど、剣心の手のぬくもりは心地よかった。
落雷を境に、雷鳴が遠ざかり始めたようだ。薫は軒下の向こうの空を見やり、それからこっそり隣に立つ剣心の顔を見た。
何故だろう、彼はひどく悲しそうな顔をしていた。
繋いでいる手はこんなに優しくて暖かいのに、その手の主の表情は悲しくて、寂しげで―――
どうしてこんな顔をするのだろう、と。薫の胸は痛んだ。
これまで、長い間旅を続けてきた剣心。その頃の彼の孤独を、わたしは知らない。その前の幕末には、きっとわたしが想像するより遥かに苛烈な世界に
身を置いていたのだろう。その頃の記憶が、彼にこんな顔をさせるのだろうか。それとも、もっと他に悲しくなる理由があるのだろうか。
―――知りたい、と思った。けれど、知るのが怖くもあった。
いつか、彼がこれまで歩んできた過去のことを、自ら語ってくれる日は来るのだろうか。「いつか」と呼べるくらい先の時間にも―――彼は、ここにいてくれ
るのだろうか。
ふと、手のひらから温もりが遠ざかった。
「雨、あがったでござるな」
気がつくと空は晴れていて、剣心は笑顔だった。
「・・・・・・ほんとね」
薫は自分も笑顔を作って「ありがとう」と礼を言った。ずっと手を握っていてくれたことに対する礼だったのだが、剣心は心持ち顔を赤らめて「いや、却ってす
まない」と言って視線を逸らした。
先程の微妙におかしい物言いもぎこちない触れ方も、つまりは照れていたからなのだろう。そんな彼を目にすることは珍しかったので、薫は思わず口許を
緩めた。それでも、あの悲しげな表情はやはり気になった。
理由を知りたかったけれど、口をついて出たのは「帰りましょうか」という言葉だった。
剣心が「そうでござるな」と頷いて、ふたりは何事も無かったかのように帰路についた。
★
「・・・・・・でも、やっぱり気になっていたの。何せ、今でもこうして覚えているくらいなんだし」
薫は剣心の肩先に顔を押しつけたままそう言った。剣心が「うん・・・・・・拙者も覚えている」と頷き、薫の髪に自分の頬をすり寄せるようにする。雨の所為
か少し湿ったように感じるそこから、ふわりと甘い香りが漂った。
「あの時は、もどかしかったんでござるよ」
「え?」
「薫殿、怖がっていたでござろう?だから・・・・・・もし拙者が薫殿のいいひとか良人だったなら、抱きしめてやることも出来るだろうに、と思って」
あの時、既に君に惹かれはじめていたけれど。だからこそ、そんなふうに思ってしまったのだけれど。
まだ想いを交わしていなかったあの時は、手を握ってやることが精一杯で、だからそれがもどかしくて―――
「・・・・・・それで、あんな辛そうな顔をしていたの?」
「いや、理由はもうひとつあるでござるが」
むしろそっちが大きな理由なんだがと呟きながら、剣心は薫の背を撫でる。まだ雷は鳴り止まないが、こうされていると怖さも遠ざかる。
「今に、終わってしまうんだな、と思って―――悲しくなったんでござるよ」
「終わる?」
「薫殿と、一緒にいられる時間が」
あの時、ただ手を握る事しかできない自分が、もどかしかった。
いつか、こんな時に彼女を抱きしめてやれるような間柄になれるのかな、と思った。
しかし、その後すぐに「まさか」と打ち消した。
引き止められるままこの地に居着いてしまったけれど、自分は流浪人で罪人だ。ずっと、ここにいて良いわけがない。
この地に来てから友人や知人ができた。愛おしいと感じるひとに逢えた。彼らを不幸にしたくないと思うからこそ、ずっと一緒にいてはいけない。
突然に降り始めた通り雨が、何事も無かったかのようにじきに止んでしまうように。
今のこの暮らしはいずれ終わってしまうのだ。いや―――終わるべきなのだ。
「・・・・・・そう思ってしまってな。それが、つい顔に出てしまったのでござろう」
薫殿は見ていないと思って油断したでござるよ、と剣心は笑った。薫は笑わずに「・・・・・・ばか」と呟くように言った。
「わたしはあの時、剣心はずっと此処にいてくれるのかしら、って心配していたのよ?なのに、その隣でそんなこと考えていたの?」
「いや、面目ないでござる」
「不幸にするとか終わるとか、勝手に決めつけないでよね・・・・・・そしてほんとに終わらせようとするし」
それは、志々雄と対峙するために、ひとり京都に発った事を指していた。今更ながらの糾弾に、剣心はすまないと詫びつつも「終わらなかったでござるが
な」と笑った。薫も弥彦も左之助も、皆京都まで追ってきた。かつての王城の地では、更に新しい出会いと再会も待っていた。
「通り雨はいつか終わるけれど・・・・・・その後にはいいお天気がはじまるんだ、って、そう考えればいいのよ」
「ああ、今日みたいにでござるな」
その言葉に、薫は顔を上げる。剣心は抱きしめていた腕をほどいて、ほら、と言うように空を仰いだ。
「う、わぁ・・・・・・!」
雨に洗われた空に架かる、鮮やかな光の橋。
大きな虹を目にして、薫は驚嘆の声を上げる。
「虹なんて、久しぶりに見たでござるなぁ」
「ほんとね・・・・・・綺麗なものが見られて、きっと赤ちゃんも喜んでいるわ」
軒下から出た薫は、空を見上げて破顔する。雨上がりの日差しより眩しい笑顔に、剣心は目を細めた。
辛いこと、悲しいことが沢山あった。罪を重ねて大切なものも失ってきた。後悔の数をかぞえればきりがない。だけど、新たに得たものだって沢山ある。
信頼を寄せてくれる、出会った人々。戦いの末訪れた、新しい時代。なによりも誰よりも大切な、愛する人。そのひとが紡いでくれた、小さな命―――
迷いを越えて、闘いを越えて。今も自分は生きている。
「生きている限り、続くのでござるな」
ぽつりと言ったひとことに、薫は振り向いて微笑む。
「そうね、長い時間が経って、いつかわたしたちがいなくなっても・・・・・・この子や、この子の子供たちが引き継いで、続いてゆくんだわ」
そう言って、薫はふくらんだお腹をそっと撫でる。剣心は彼女に寄り添うと、小さな顎を捕まえて、口づけた。
「・・・・・・っ!」
往来で、突然だったからだろう。薫は真っ赤になって良人を軽く睨んだが、剣心は唇を離すと「大丈夫、皆空を見ているよ」と笑った。
確かに、雨宿りをしていた通行人は一様に虹を眺め、頬をほころばせながらやれやれと一息ついている。
「・・・・・・びっくりしたって言ってる。お腹の中から蹴飛ばしてるわ」
「おろろ、それはすまなかったでござる」
身を屈めて、お腹にむかっておどけた調子で謝る剣心に、薫は思わず笑ってしまった。「帰ろうか」と差し出された手をとって、笑顔のまま頷く。
一度は手離そうとしたこのぬくもりを―――もう決して離しはしない。剣心はいとおしげに目を細めて、薫の華奢な手をしっかりと握った。
君と出逢って、物語は新たに始まった。
この先に続く長い道を、ずっと一緒に歩いてゆこう。
虹のきざはしに、見守られながら。
了。
2015.02.24
モドル。