願い事三つ

             初恋・番外編  1











        「江戸って、どんなところ?」






        はじめて、人を斬った夜。
        駆け込んだ藩の退避所で、剣心は薫の腕に抱かれて泣いた。

        ひとしきり涙を流して、そして彼女に想いを告げて。朝まで一緒にいてくれないかと「お願い」をした。
        「変な意味じゃなくて、何もしないから」とへどもどしながらつけ加えると、薫は笑って「うん、信用してる」と言ってくれた。
        ひとつの布団で寄り添って横たわりながら、薫はなかなか眠れそうにない彼に「子守唄、歌う?」と訊いたが、「赤ん坊じゃないんだから」と、剣心は笑って
        遠慮した。




        「・・・・・・江戸って、どんなところ?」
        子守唄の代わりに、とでもいうように、剣心は薫に小さく尋ねる。
        薫はすこし考えるように瞳を動かすと、「賑やかなところよ」と答えた。


        「京都とはちょっと雰囲気が違うけれど、人が多くて活気があって・・・・・・わたしはそこで、剣術を教えているの」
        「お父さんの道場で?」
        「そうよ。わたしが継いでからは、門下生は今のところは子供ばかりだけど」
        「薫だったら、子供たちからも人気があるんだろうね」
        「そうかしら・・・・・・中には、減らず口ばっかりですぐにつっかかってくるような子もいるけれど」
        「そんな奴がいるの?生意気だな、俺だったら、そいつの根性叩き直してやるのに」
        眉を険しくした剣心に、薫は「でも、根はとってもいい子なのよ?」と笑う。優しい口調で庇ったのが気に食わなかったのか、彼は益々不機嫌な顔になる。

        「なんか・・・・・・それって妬けるよ」
        「えー?!やめてよ気持ち悪い!その子は弟みたいなものなんだからね?!」
        「じゃあ、俺は?」
        ずばりと訊いてきた剣心に、薫はふわりと口許を緩める。
        「・・・・・・わたしの、好きなひとよ」
        剣心は、ほっとしたように眉間から力を抜いて、薫の瞳を覗き込んでさらに尋ねた。


        「薫は師匠とは遠縁だけど、流派は違うんだよね?」
        「ええ、流派は、神谷活心流。剣は奪うものではなく、人を守るものだと―――『人を活かす剣』を伝えるために、教えているの」
        「人を、活かす・・・・・・」
        剣心は呟くと、布団をかぶったまま腕を動かして、薫の身体をぎこちなく抱いた。
        「今の俺の剣は・・・・・・薫の教えとは正反対だな」

        僅かに自嘲の色が混じったそれは、「弱音」とも呼べる発言だった。
        生まれてはじめて人を斬って、改めて、自分が担った役割の重さを感じているからこその、弱音であろう。


        勿論、決意はしている。ひとり殺めた以上、もう後戻りはできない。
        これから繰り返し、この手は血に染まってゆく。この闘いはこの国を変えるための「戦争」なのだから。

        だからこそ、ひとつの死も無駄にしてはならないのだ。
        戦いで犠牲が出た以上、なんとしてでも新しい時代を拓かなくてはならない。消えてしまった、奪ってしまった命のためにも、絶対に。


        そう、気持ちは決まっている。
        けれど、今だけは―――この夜が明けるまでは、弱い自分であることを許して欲しかった。
        今、傍にいるのは、ただひとりだけ涙を見せられる相手なのだから。

        両親を亡くしたあの夜のように。泣いてもいいんだと、言ってくれたあの時のように―――
        今夜だけは、優しい腕に甘えることしかできない、無力な子供でいさせてほしかった。


        「ごめん、俺・・・・・・明日になったら、きっと大丈夫だから・・・・・・」
        薫と、そして自分自身に言い聞かせるように、剣心は苦しげに言葉を紡ぐ。彼の声にまた涙が混じりそうなことに気づいた薫は、自分も腕をのばして剣心
        の背をそっと抱いた。
        「・・・・・・新しい、時代になったら」
        ふいの、歌うような声音に、剣心は首を動かして薫の顔を見た。



        「新しい時代になったら、剣心は、何をしたいの?」
        「・・・・・・え?」



        質問の意味がわからず、剣心は怪訝そうにまばたきを繰り返す。
        「いつか来るでしょう? 新しい時代が。そうしたらまず、何をしたいのかなぁ・・・・・・って。ほら、浴びるほどお酒を飲んでみたいとか、生まれた場所に帰って
        みたいとか・・・・・・そういう事よ」
        「・・・・・・そんなの、考えたこともなかった」
        完全に虚を突かれた様子で、剣心は薫をまじまじと見る。

        ただ、変革を目指して、今やるべきことに必死になっていた。未来の日本の国の在り方や仕組みについて、仲間とともに考えたり皆で議論したりすること
        はあっても―――その未来で自分がどうしているのかなんて、具体的に考えたことはなかった。
        確かに、維新が成されれば、数年後には新しい時代が訪れるだろう。しかし。


        「でも、その頃俺が生きているかどうかがまず怪しいわけだし―――いたたたたっ!」
        加減なしの力で薫に髪を引っ張られて、剣心は悲鳴をあげる。
        「不吉なこと言わないで!剣心が死ぬわけないじゃない!」
        「い、いやだって、世の中こんな情勢なんだから、これから先どんな事が起きるかわからないわけだし、だから・・・・・・」
        「剣心、もし同じ言葉をわたしから言われたとしたら、あなた、どう思う?」
        「・・・・・・ごめん、薫の言うとおりだ」
        素直に反省した剣心の髪を、薫は今度は「わかればいいのよ」と撫でる。優しい感触にくすぐったく頬をゆるめながらも、剣心は真剣に考えてみた。

        新しい時代が来たら。
        動乱が終わって、争いが消えて平和になって、人を斬ることもなくなったら―――



        「師匠に、謝りに行きたいな」



        ぽつりと言いながら、比古の顔を思い浮かべた。
        脳裏に浮かんだその表情は、喧嘩別れの最後に目にした怒り顔だった。

        「比古さんに?」
        「うん、前にも言ったけれど・・・・・・我ながら恩知らずだって、今でも思っているからさ。俺に剣を与えてくれたのは―――今の俺があるのは、師匠のおかげ
        なのに」
        いざ本人を前にしたら、こんなふうには言えないかもしれないけれど、と。剣心は小さくつけ加えた。その、ばつの悪い表情を見て薫は少し笑う。
        「大丈夫、あなたが会いに行ったら、比古さん絶対喜ぶわよ」
        「・・・・・・そう、なのかなぁ」
        それはそれで気持ち悪いかも、と顔をしかめた剣心に、薫はまた笑った。

        「ほかには?何がしてみたい?」
        「・・・・・・じゃあ、薫の道場に行ってみたい」
        「わたしの・・・・・・?」
        「うん」
        剣心は頷いて、薫にぐっと額を近づけた。触れ合った彼女の髪から知らない花の香りが立って、いい匂いだな、と思う。



        「薫が、どんな場所で育ったか見てみたい。子供たちに稽古をつけているところも見たいし、それに、生意気な門下生にお灸を据えてやりたいな」



        薫は驚いたように目を大きくして―――くしゃりと、顔を歪ませる。笑っているようで、でも泣いてもいるようで、判別がつかない。
        「・・・・・・薫?」
        「・・・・・・なんでもないの」
        薫は小さく首を横にふって、改めて剣心の瞳を見つめた。その顔は、既に曇りのない笑顔になっていた。
        「わたしも、来てほしいわ。お灸はともかく・・・・・・その子にも教えてやってちょうだい?強くなりたがっているから、少しくらい厳しくしても大丈夫よ」
        悪戯っぽくそう言われて、剣心は「わかった、思いきりしごいてやるよ」と笑う。

        「ふたつ、やりたいことができたわね。あとは?ほかに何かない?」
        「あとは・・・・・・」


        剣心の胸に、もうひとつ、「やりたいこと」が思い浮かんだ。
        それは、とてもとても素敵なことだったけれど、でも―――

        「・・・・・・あとは、内緒にしておく」
        「えー?!」


        不満の声をあげた薫を、剣心はぎゅっと抱きしめた。ぴったり身体を押しつけながら「今日のところは、って事だよ」と囁いた。
        「次に逢えたときに言うよ。一度に言っちゃうのは、なんか勿体ないし」
        「・・・・・・次に逢えたときまで、とっておくの・・・・・・?」
        「そのほうが、楽しみが先にあっていいだろ?」
        剣心の言葉に、薫はふっと息をつき、微笑む。

        「確かに、そうね」
        「うん。必ず言うから、待ってて」
        「それと、同じことよ」
        「え?」
        「何か未来に『目標』があったほうが、しっかり前を見つめられるでしょう?」
        「・・・・・・あ」


        ただ、変革を目指していた。この国の暮らしをよりよいものにしたくて。人々が笑顔で安心して生きられる国をつくりたくて。
        それこそが目標で、同志とともにそれを目指して、今まさに、皆と必死になっている。

        けれど、薫の言う『目標』は、もっとささやかなものだ。辛い現実の中、前を向いて突き進めるよう、自分を内側から支えてくれるもの。
        ごく個人的な、小さな願いだけれど―――それゆえに揺るがず、力になってくれるもの。


        「あなた、いつも人のことやこの国のことばかり考えているんだもの・・・・・・それが剣心の性格なんでしょうけれど、少しは自分の願いも自分で尊重してあ
        げて。じゃないと、わたしが嫌なの」
        「・・・・・・薫こそ、いつもそうなんだな」
        「え?」
        「薫こそ、いつも俺のことばっかり考えてくれてる。こんなに甘えていいのかなって、心配になるくらいだよ」
        そう言いつつも、この場所に逃げこんだ時は苦しげに歪んでいた剣心の顔は、今は嬉しそうにほころんでいて―――その柔らかな笑顔に、薫も同じ表情
        で笑う。
        「いいのよ、わたしは・・・・・・そのためにここにいるの」
        そう言って、薫は剣心の背中をそっと撫でた。



        「あなたの傍にいたいから・・・・・・そのためだけに、今、わたしはここにいるの」



        子守唄のように、静かに紡がれる言葉。それは何より優しく、剣心の心にしみわたる。
        こわばっていた心と身体を溶かしてくれる、あたたかな声。

        柔らかな声と彼女の甘い香りと、寄り添った着物越しのぬくもりの心地よさに、剣心は目を閉じた。
        こうしてふたりでいれば、きっと眠れるだろう。そして、翌朝目覚めたら、薫が隣にいてくれる。ひょっとして―――こういう事を、「幸せ」と呼ぶのだろうか。


        おとぎ話の存在めいた彼女が、朝になったら幻のように消えているのでは、という一抹の不安もよぎったけれど。
        いや、もしそんな事になったとしても―――絶対に彼女を捜して見つけ出そう。だって、約束したのだから。次に逢ったときに、残りの「目標」を教える、と。



        眠りの海に意識を沈めながら、薫に伝えるべき言葉を、剣心は心のなかでこっそり繰り返す。
        大切な、祈りを捧げるように。






        新しい時代が来たら、君と、夫婦になりたい。
        君と、一緒に生きてゆくこと―――それが、俺のいちばんの望み。
















        了。




                                                                                            2015.06.20





       モドル。