「髪に触っても、いい?」と。
うっかり口にしてしまい、後悔した。
「いいわよ」と。
君から返ってきた答えに、驚いた。
そして―――
夏への扉
大人になってから、というか社会人になってからは、学生の衣替えというものは「ああ、もうそんな時期か」と、季節の変化に気づくきっかけのようなもの
だった。母校の剣道部に顔を出すようになってからも、ああ白いシャツに白セーラーは涼しげでいいなあと、そんな感想を抱くくらいのものだった。
それが、その高校に好きな子が出来ると、どうだ。
彼女の夏セーラー姿にうわぁ新鮮だなぁと目を細め、ぱりっとした生地の下にある身体の線が光の加減で透けて見えてしまいそうなのがなんというか悩
ましくて、ただ服装が替わっただけでこの有様なのだから、こういうのを世間一般的には「チョロい」と言うのだろう。しかし、別に誰彼かまわずチョロいわ
けではなく薫に対してだけチョロいわけなので、何の問題もない筈である。たぶん。
ともあれ、恋人同士になって、はじめての夏。
俺は薫の夏服姿に、少しばかり舞い上がっていた。
土曜の午後、部活動が終わり、部員たちは三々五々に散り帰路へとついた。薫は部の友人たちと駅で別れた後、そのまま帰らず今来た道を引き返し、
待ち合わせをしていた俺と落ち合った。
何しろ、コーチと教え子同士の「忍ぶ恋」である。正規の教師とかではなく、恩師に頼まれ趣味でやっているような完全ボランティアのコーチであるから、
そこまで神経質になる必要はないのかもしれないが―――とはいえ、俺たちはひとまわり以上年の差があるカップルで、しかも彼女は未成年なのだ。い
くら清いおつきあいとはいえ、交際していることを他の生徒に知られるのはまずいだろう。
そんな中での、部活帰りの逢瀬である。
自然と背徳的な気分にもなるし、そうなると余計に、白い夏服の清らかさがまぶしく感じてしまう。
「・・・・・・でね、もうすぐ神社のお祭りがあるでしょ?みんなで行く約束をしたんだけれど、せっかくだから、浴衣で行きたいねって話になって・・・・・・」
公園のベンチに座った薫は、俺の心中など知る由もなく、この夏の計画について語っている。すでにデパートやショッピングモールには新柄の浴衣が並
んでいるらしく、それを着てクラスの友達みんなで出かけたいという話だった。
ああ、薫なら浴衣も最高に似合うだろうなぁと楽しい想像をしつつも、まず今は、目の前の夏服に見とれるのに忙しい。
冬服のときは隠れていた腕は、白い袖に負けないくらい白く透き通るようで。スカートからのびる脚は素足で、今日はスニーカーと合わせているのが元気
な印象で―――いや、いかんいかん、いくら俺が彼氏だからといってじろじろ眺めるのは失礼だろうと思い視線を上にあげたら、長い黒髪が目に入った。
あれ、おかしいな。
いつもと同じ髪型なのに、ちょっと違って見えるのはどうしてだろう。
ああ、そうか。セーラー服の白に映えて、黒いつややかな髪がいつもより更に、きれいに見えるんだ。
自然のままの色の髪が、公園の木の葉末からこぼれる光をうけてきらめいて、君の小さな仕草や風のながれに微かに揺れて―――そんな様子をつい
まじまじと見つめてしまい、視線に気づいた君が「なぁに?」と首を傾げた。
その表情が、とても可愛かったから。
ついうっかり、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまった。
「髪に触っても、いい?」
―――おいこら、待て自分。
よりにもよって何てことを言ってしまったんだこれではまるで変質者ではないか。
いや俺たちはちゃんと交際しているのだから別に触るのは許されるのかもしれないけれど、それにしても唐突すぎるだろうこれは。一瞬にして後悔の念に
支配され、頭の中が自分への罵倒と言い訳でいっぱいになって、どうやって取り繕おうと焦っていたら、
「いいわよ」
と、返ってきたものだから、驚いた。
それが思い切り顔に出てしまっていたらしく、「何驚いてるの?」と不思議そうに聞かれた。
「いや・・・・・・いいって言われると思わなかったから・・・・・・本当にいいの?」
「いいわよ?だって、髪でしょう?」
「いや、確かに、髪だけど・・・・・・」
たしかに、首筋に触りたいとか足首に触れたいとか胸に―――いや、いかんいかん。とにかく、そういうきわどい場所ではないけれど。いやでも、考えてみ
れば普通に美容室でも男性が女性の髪を切ったりもしているわけで。
と、いうことは・・・・・・いいんだろうか、触っても。
君が、許可をくれたことを言い訳にして。心の中で更に言い訳を重ねて。
と、いうか、言い訳をしようがしまいが、もうこの欲求は止められなくて―――
「じゃあ、触る・・・・・・よ?」
「うん、どうぞ」
君の顔の横に、ひとすじ垂らされている髪に、手を伸ばした。
指で、触れる。
すべすべしていて、ほんの少し、あたたかい。
きっと、さんさんと降り注ぐ初夏の日差しを浴びている所為だろう。
するり、と。下にむかって、引っぱるように指をすべらせる。
ああ、いいな、これ。つやつやしていて、綺麗だな。
さらさらの感触が、指に心地良い。心地好くて、繰り返し、上から下へと撫でるように触れてみる。
ともすれば、手からすり抜けてしまいそうなそれを、くるんと指に巻き付けるようにしてみる。こうすると、なんだか君を捕まえてしまったようにも思える。も
う少し近づいたら、シャンプーの香りもするのかもしれない。
もっと、触りたいな。
サイドの髪だけじゃなくて、ポニーテールをほどいて、指を差し込んでみたらどんな感じなんだろう。どんな感触で、どんな香りがするんだろう。
そのとき君は、どんな表情をするんだろう。
そんな事を考えながら、ふと、視線を上げると―――目の前にいる薫の白い頬が、見事なまでに真っ赤に染まっていた。
え?あれ?
おかしいなさっきはあんなに軽くこともなげに「触ってもいい」と言ってくれたのに。
これはどう見ても照れている反応じゃないか。しかも、相当に。
つん、と。痛くない程度に髪を引っぱってみると、君はぴくっと肩を震わせて、ぎゅっと目を閉じた。
「あの・・・・・・薫?」
おずおずと声をかけてみると、君は睫を震わせながら、瞼を上げる。そして、潤んだ瞳で、困ったような笑みを浮かべてみせた。
「・・・・・・なんか、結構恥ずかしいのね、これ」
はっとした。
そうか、さっきあんなに簡単に「いいわよ」と言ってくれたのは、知らなかったからなんだ。
異性から、しかも想いを交わし合っている相手から髪を触られるとどんな感じがするのかなんて知らなくて。いざ触られて、ようやく気づいたのだろう。
髪だって、立派に君の一部なわけで。
そこに触れることは、触れられることは、こんなにも―――
つられたように、俺の頬まで熱くなる。きっと今、俺も君に負けず劣らず真っ赤な顔をしているのだろう。その証拠に、君の目が驚いたように大きくなる。
・・・・・・どうしよう、この雰囲気。俺の指はまだ君の髪を絡めたままで、さりとて放して引っ込めるのも気まずいような気がして。
いっそのこと、このままがばっと抱きしめてしまおうかとも思うけれど、まさにそういう流れになるのが必然のような空気だけれど、しかし白昼堂々公園で
そんなことをするのは通報レベルにまずいだろう。うわぁ、どうしよう、どうするべきなんだ、どうしたら―――
「・・・・・・剣心!」
のっぴきならぬ沈黙を破ったのは、君の大きな声だった。
それと同時に、俺の髪に君の指が差し入れられた。
と、いっても、色っぽく指を這わせて撫でられるとかではなくて、それとは全然違って。まるで大型犬か何かを豪快に撫でるかのように、わしゃわしゃわし
ゃと両手で勢いよく掻き乱される。
「・・・・・・へ?」
呆気にとられて、されるがままになっているうちに、いつの間にか君の髪は俺の手をすり抜けて離れてしまっていた。
薫は、いいだけ俺の髪をぐしゃぐしゃにすると、まだ赤い顔のまま、ぱっと両手を放して膝の上に置く。えーと、その、これは一体・・・・・・?
「あの、薫、今のって・・・・・・」
「お返しっ!」
「は?」
「わたしばっかり触られるのが恥ずかしかったから、だからわたしもお返しに触ってあげたの!」
「・・・・・・」
君の「解説」に、束の間ぽかんとして。
そして―――笑いがこみ上げてきた。
「・・・・・・そうか、お返しか」
「うん、そうよ!」
「・・・・・・どうもありがとう」
「どういたしましてっ!」
そしていよいよ、ふたりで声をあげて笑い出す。
よく考えると、ここでありがとうを言うのも意味不明な気もするけれど。いやしかし、さっきまでの気恥ずかしいあやうい空気を払拭してくれたのだから、や
はりありがとうで正解なのだ。
ああ・・・・・・ほんとに君ときたら、バレンタインに告白されたときもそうだった。
予想外の言動に不意を打たれて驚かされて、あたたかな気分にさせられて―――それがとても嬉しくて幸せで、そのたびに君を好きな気持ちが増えて
ゆく。
出会ってから、一年とちょっと。恋人同士になって、数ヶ月。
きっとこれからもこんなふうに、びっくりしたり嬉しくなったりする事がいっぱいあるんだろうな。
そんな瞬間を、もっともっと、幾つも重ねてゆきたい。
君と一緒に過ごす時間を、もっともっと、これから先も、ずっと―――
「ごめんね、髪、ぐちゃぐちゃにしちゃって」
「いいよ、このくらい。俺こそ、話の途中にごめん。浴衣でお祭りだっけ?」
「あ、そうなの!明日ね、新しい浴衣を買いに行くの。これがいいなーっていうのはもう決めてあってね、早くしないと誰かに買われちゃうから・・・・・・」
目星をつけた浴衣の色や柄について、喜々として説明する君の横で、俺は乱れた髪を撫でつけながら薫の浴衣姿を想像した。ついでに、それを眺めて
今のように少しばかり―――いや、すっかり舞い上がっている自分の姿も。
「ね、今年は一緒に、花火を見に行きましょうよ!できるだけ沢山、浴衣着る機会をつくりたいの」
せっかく買うなら、何度も着なきゃ勿体ないわという彼女に、それは同感と頷いた。なんだったら、毎日着てくれたってかまわないのにな。剣道の道着姿
だってあんなに似合っているんだから、和服を身にまとった君はとても綺麗に違いない。
「剣心も浴衣、着ましょうよ。和服でおそろいにしたいの」
「浴衣かぁ・・・・・・俺、持っていないけれど」
「じゃあ、お父さんのを貸してもらえば?わたし頼んでみるから・・・・・・」
「いや、買う。俺も買うから一緒に浴衣で出かけよう」
速攻で君の提案を遮る。そんな事を頼んだら、越路郎さんに甲斐性なしと思われてしまうではないか。未来のお義父さんに、そんな悪印象を与えるなん
て言語道断だ。
「うふふ、楽しみだなー。剣心、着物似合うだろうなー」
にこにこしながら、君は小指を立てて、俺の前にかざす。
「何?」
「約束ね、浴衣で花火!」
ああなるほど指切りか、と。
頬をゆるめながら、俺も小指を差し出そうとして―――ちょっと考えて、その指の傍らに流れるひとすじの髪を、もう一度捕まえて引っぱった。
「・・・・・・ばか」と。
はにかんで笑う君に笑顔を返してから、改めて細い指に自分のそれを絡める。
そういえば、こんなにも「夏が楽しみだ」と思えるだなんて、子供の頃以来ではないだろうか。
君と恋人同士になって、またひとつ季節がめぐる。
君と一緒に過ごす、はじめての夏がはじまる。
了。
2018.08.05
モドル。