桃始笑  もも はじめて さく











        「あ・・・・・・きれい」




        視界に飛びこんだ鮮やかなピンク色に、思わず声がこぼれる。
        立ち寄った書店の隣にある花屋さん。その店先に飾られていたのは、華やかにほころぶ桃の花だった。並んで歩く剣心も、「きれいだねぇ」と足を止める。

        繊細な花びらが幾重にも重なって咲く様子が可憐で、ふんわりと丸みを帯びたつぼみもなんとも愛らしい。その傍らに置かれた黒板タイプの看板にある
        文字にも、目を引かれた。



        「もも、はじめて、さく・・・・・・?」



        漢字三文字で「桃始笑」。
        正しく読めたのは、しっかりとふりがながふられていたお陰だ。


        「暦の上だと、今はこれなんだね」
        「こよみのって・・・・・・立春とか、冬至みたいなやつ?」
        「それは二十四節季。それを更に細かく分けた、七十二候っていうのがあるんだよ」
        しちじゅうにこう、かぁ。剣心の説明に頷きながら、看板の文字を目で追ってみる。そこにも「桃の花が咲き始める頃を指します」と、丁寧な字で説明が書
        かれていた。

        「花が咲くのを『笑う』って字で表すの、可愛いわねー」
        「そこは、昔のひとのセンスがよかったんだろうね。そうだな・・・・・・これが一番きれいかな」
        そう言いながら剣心は、桃の一枝を大事そうにバケツの中から抜き取った。え?と思う間もなく「すみません、これください」と店員さんに声をかける。
        「剣心?」
        「買ってあげる」
        「え!うそ、いいのっ?!」

        恥ずかしいことに、反射的に値札に目が行ってしまった。だって、一般的な高校生にとっては、お花って結構高価なイメージっていうか、ちょっとした贅沢
        品なんだもの。自分で自分のために買うことなんてまずないし、せいぜい父の日や母の日に花束を贈ったことがあるくらいで―――あ、待って、考えてみ
        ると。


        「男のひとからお花もらうのって、はじめてかも」


        改めて気づいた事実をそのまま口に出してみると、剣心はぱっと顔を輝かせる。
        「よかった、俺がはじめてで」
        嬉しそうにそう言ったあと急に照れくさくなったのか、彼は心持ち頬を赤らめて目を泳がせる。つられてわたしも赤くなる。店員さんはそんなわたしたちを見
        て見ぬふりしつつ、「せっかくだから、可愛くしましょうね」と言って花束風にリボンを結んでくれた。
        淡いピンクのリボンが、春の風に優しく揺れた。









        「なんだか、また雛祭りが来たみたい」
        つぶやく声が、あからさまに弾んでしまう。うーん、お花をもらうのって、こんなにもテンションが上がるものなのね。

        「桃の花って、いかにも雛祭りってイメージだよね。越路郎さんも喜ぶといいんだけど」
        なぜ、ここでお父さんの名前が出てくるのかというと―――それはつい数日前の、三月四日のこと。早々に雛飾りを仕舞おうとしたお母さんに、お父さんが
        「もうしばらくの間飾っておいてもいいんじゃないか」と言い出して、ちょっとした夫婦喧嘩に発展してしまったからだ。「片付けるのが遅いと、お嫁に行くのが
        遅くなるっていうでしょう」と主張するお母さんに、「そんなに急いで嫁に行かなくてもいいだろう」なんて言うものだから・・・・・・

        そのエピソードを電話で剣心に伝えると、スマホの向こうの彼が小さく「俺の所為だよなぁ・・・・・・」と呟いているのが聞こえてしまい、わたしは部屋でひとり
        真っ赤になったものだった。それって、つまり・・・・・・お、お嫁にもらってくれるつもり、なの、かな?
        思い返すうちに、また顔に血がのぼってきそうになってしまい、わたしは慌てて違う話題を探す。

        「ねぇ、一年を七十二で分けるって、ずいぶん細かいのね」
        「七十二候のこと?そうだね、三百六十五日を七十二等分だから・・・・・・約五日ごとに変わるってことか」

        公園のベンチでひとやすみしながら、スマホで検索してみる。「桃始笑」は、三月十日から十四日ごろまでで、その次に来るのが「菜虫蝶化」―――「なむ
        しちょうとなる」。青虫が羽化して、紋白蝶になる頃と書いてある。その次が「雀始巣」―――「すずめはじめてすくう」で、雀が巣を作りだす頃。いろんな動
        物や植物が題材になっているのが、面白いし可愛らしい。


        「こういうのって、いつ頃考えられたの?」
        「うーん、もともとは中国から伝わってきて、江戸時代に改良されたのが、現代に伝わっているみたいだね」
        「すごいわねー、昔のひとの季節に対する感性って」
        「それに、昔は今より娯楽も少なかっただろうから、かわりに季節の変化を楽しもうとしていたんだろうな」
        「剣心、それちょっと身も蓋もない・・・・・・」
        でも多分、そういうところもあったんだろうな。昔はネットも映画もなかったし、日本史の授業によると庶民の娯楽はたびたび厳しく取り締まられていたみた
        いだし。交通手段のメインは徒歩だろうから、あちこち遠出をして遊びに行くのだって難しかっただろうし。そもそも日々を普通に暮らすための家事だって、
        電気がないぶん相当な労力が必要だっただろうし、そうなると家事に割かれる時間も多くなるわけで・・・・・・たしかに、今みたいに手軽に娯楽に興じる余裕
        なんてなかったのかもしれない。

        そんなふうに、同じ土地で毎日を懸命に過ごしていたのだとしたら―――季節がうつろう様子が特別いとおしく感じられたのは、当然のことなのかも。
        そして、色々と便利で平和で娯楽もふんだんにある今の世になっても、そのいとおしい感覚だけは、消えずに残っているのだろうな。

        「まぁ、旧暦が今の暦に替わっても、花屋さんの看板で七十二候が紹介されているくらいだから、きっと今も昔も日本人はこういうのが好きなんだろうな。
        季節の変化を意識することが」
        ・・・・・・ちょっと、心を読まれたみたいな台詞を返されて、びっくりした。こういうのを、以心伝心っていうのかな?
        「今の暦になったのって、いつ頃だったのかしら」
        「明治のはじめじゃなかったかなぁ、百五十年くらい前」
        「百五十年かぁ・・・・・・」


        透明なセロファンに守られながら、風に微かにそよぐ桃の花びらを眺めつつ、その頃に思いを馳せてみる。

        もし、わたしがその時代に生まれていたとしたら、どんな人生を送っていたんだろうな。
        その頃は、女性が剣道をするのは珍しかったのかしら。剣心だったら、きっと凄く強い剣客になれただろうな。ん?でも、明治だともう刀は持てない時代だっ
        たかしら。えーと、授業で出てきた・・・・・・そうそう、廃刀令。あれが出されたのって何年だっけ・・・・・・まぁいいや、想像するぶんには問題ないわよね。和服
        の腰に刀を差した剣心、きっと似合うしとっても格好いいはず。

        わたしの生まれる、ずっと前。
        わたしの知らない、はるか過去。

        その時代を生きていたひとたちもこんなふうに、咲きはじめた桃の花に頬をほころばせていたのかな。
        好きなひとから贈られた花が嬉しくて、こんなふうに、幸せな気持ちになったりしていたのかな。


        「どうしたの?」
        「え、何が?」
        「さっきからにこにこして、ずいぶんと嬉しそうだから」
        「・・・・・・明治の剣心のことを考えてたの」
        「え?」
        「ううん、何でもない」


        不思議そうな顔をする彼に、「お花、どうもありがとう。すごく嬉しい」と改めてお礼を返す。
        「こちらこそだよ。喜んでくれて、すごく嬉しい」
        はにかむように目を細めて、優しく笑う。それはわたしが一番好きな、彼の表情。

        昔のひとは、花が咲くすがたを笑いがこぼれる様子になぞらえたけれど―――
        愛らしい花が咲くさまを見たひとが、思わず笑顔になってしまうのも、きっと昔も今も変わらないのだろうな。
        好きなひとから花を贈られて笑顔になったり、贈ったひとも一緒になって笑ったりするのも、きっと、変わらないのだろう。



        たとえ、どの時代に生まれたとしても―――わたしが変わらずあなたのことを好きになるのと、同じように。



        何故かはわからないけれど、とても自然にそんなことを考えた。
        そっと目を閉じてみると、桃色の着物とリボンを身につけたわたしと、やはり和服をまとい重たげな刀を差した剣心が、手を繋いで微笑みを交わしている
        姿が目蓋の裏に浮かんだ。











        帰宅後、桃の花を見たお父さんが「せっかくだからもう一度雛飾りを出してこようか」と言い出して、お母さんに「子供じゃないんだから」とたしなめられた。

        別に、娘の恋路を妨害するつもりはないんだろうけれど、むしろお父さんは剣心のことを結構気に入っているみたいなんだけど・・・・・・
        こういう男親の複雑な心理も、やっぱり今も昔も変わらない―――の、かな?














        了。






                                                                                             2021.03.27








        モドル。