ばしり、と。草臥れた草履が投げつけられた。
剣心は避けなかった。
投げつけた女はその場に泣き崩れた。
「どうして死なせてくれなかったの・・・・・・!」
橋の上に身を投げ出して泣く声は肺腑を抉るように悲痛で、剣心はかける言葉を失った。
足下では、どうどうと音をたてて流れる河が濁った飛沫をあげていた。
街
泣き出しそうな色をしていた空から、堪えきれないように大粒の滴が落ちだした。
雨足はあっというまに叩きつけるような勢いになり、剣心と薫はあわてて近くの軒先に逃げ込む。
「通り雨でござるな」
「そうねぇ、そのうち止みそうな気配ね」
ふたりが雨宿りに入った軒下には、先客がいた。女性である。
空模様を窺っていた剣心は、ふとその女性に視線を移し―――そして、はっと驚いた様子で、まじまじと相手の顔を見る。
「剣心?どうしたの?」
薫はひょいとその先客の顔を見ると、切れ長の目が印象的な、小又の切れ上がった美人。
この街にこんな知り合いがいたのか、とどきりとしたが、丸髷を結った女の身につけているものがいかにも商家の内儀風だったのと、何よりその腕に小
さな赤ん坊が抱かれているのを見て、何となくほっとする。
剣心の視線に気づいた女は、彼の顔を見て一瞬記憶のひきだしを探った様子だったが、すぐに思い出したようでやはり驚いた顔になった。
「まぁ・・・・・・ずいぶんと、お久しぶりですねぇ・・・・・・」
大きく息を吐いた女がぺこりとお辞儀をし、剣心と薫もそれに倣う。
「その・・・・・・今はどうして・・・・・・?」
ためらいがちの剣心の質問に、女は笑顔で答えた。
「ごらんのとおりですよ。いい人ができまして、落籍せてくれたんです。二年前に身請けされて、お嫁にいくことができたんですよ。この春、この子も産ま
れました」
腕の中の赤ん坊が剣心のほうを見て、目を細めて笑う。
「家族ができて、今じゃここが新しいふるさとです」
「それは、よかった・・・・・・」
剣心が、心の底から安心したというようなため息をついた。
「流浪人さんは、また旅でこの街に?」
「いや、所帯を持ったので、昨年からずっとここで暮らしているでござるよ」
剣心から紹介された薫に、女は人懐っこい笑みをむけて「まあ、それじゃあ今度ご夫婦でいらしてくださいな、うちは菓子屋なんですよ」と言った。店の
名前を訊くと、剣心も薫も知っているなかなかの有名店だった。
三人がとりとめのない話をしていると、じきに気まぐれな雨も止んだ。
軒先から空の下へと出ると、雨の上がった空は薄暮にかわりはじめていた。
そして別れ際に女は、背筋をぴんと正して剣心に向かい合って、言った。
「改めて・・・・・・今だからこそやっと言えます。あの時助けてくださって、本当に、ありがとうございました」
その瞬間、剣心の表情がくしゃりと泣きそうに歪んだのを、薫は見逃さなかった。
「遠回りして、帰ろっか」
薫がそう提案したのは、剣心が何か話したそうなふうに見えたからだ。
剣心は彼女の気遣いに感謝して微笑んだ。
脇道にそれて、緩やかな坂を上る。通り雨に湿った地面に足跡を残しながら、ふたりは神社の境内に続く石段を目指した。
「さっきのひと、剣心が助けたひとなの?」
薫が話のきっかけを作ると、剣心は昔のその場面を思い起こすように、遠くを見る目をした。
「そう・・・・・・あれは七、八年前になるかな。各地を流れていた頃、この街を訪れたことがあったんでござるよ」
「そうなの?」
初めて聞く話に、薫は目をみはった。
二十歳をいくつか過ぎた頃の剣心は、この街で彼女が酔っ払いの男達に絡まれている場面に出くわした。
大きな橋の上だった。男達が手をあげて暴力をふるっていたのを見て、剣心は彼らの間に割って入り、酔漢たちを撃退した。しかし、女は逃げてゆく彼
らの背を虚ろな目でぼんやり見送っていたかと思うと、突然弾かれたように立ち上がり、欄干に駆け寄ってその身を空に躍らせようとした。
「あわてて追って、欄干から引き剥がしたのでござるが、その後、えらい剣幕で責められた」
「え?」
「どうして、死なせてくれなかったのか、と」
わんわん泣き出した女の事情はこうだった。
その年、女の故郷の村は凶作でどの家も食べるに困る状態だった。一家の長女で器量よしの彼女は、家族を食べさせるためにと女郎屋に身売りする
ため、街に出てきた。
しかし彼女が東京に着くより先に、凶報が届いていた。
それは、折からの豪雨で土砂崩れが起き、彼女の両親と兄弟たちは、家ごと土砂に飲まれて全員が死んだという知らせだった。
女は家族も帰る場所も、苦界に身を沈めて働く意味も失った。
「それで・・・・・・死んでしまいたいと思ったのね」
先程の彼女の様子からは窺うことの出来なかった悲しい過去に、薫の声も沈んだ。
「結局、彼女は拙者の所為で死に損ねて、その足で女郎屋に向かった。拙者もそのまま、すぐにこの街を出た」
薫は、背中合わせに歩き出す二人の姿を思い浮かべた。
「あの時は、いたたまれない気分だったでござるなぁ」
剣心は苦笑いを浮かべる。その顔は普段あまり彼が見せないもので、そのくらい印象深い出来事だったのだろうな、と薫は思った。
長い石段をのぼりながら、剣心が手を引いてくれる。このくらいの上りで音をあげる薫ではないのだが、大事に扱われているような気がして嬉しかった
ので、されるがままにしていた。
「この目に映る人々を守りたい・・・・・・などと言いながら、結局それは拙者の自己満足でしかないのかと思ってな。落ち込んで、何かから逃げるように別
の土地へ向かったんでござるよ」
「じゃあ、剣心はこの街に、あまりいい思い出はなかったのね」
「まぁ、拙者も若かったでござるからなぁ。昨年ここに来たときにはもう、そんなに気にしているわけでもなかったが・・・・・・でも、忘れられる出来事でもな
かった」
『どうして死なせてくれなかったの・・・・・・!』
そう叫んだ彼女の泣き顔は、小さな棘になって心のどこかに残っていた。
その彼女に、今日再会した。
死にたくて死ねなかった彼女は、生き続けるうちに幸せを手にすることができた。
そして、剣心に礼を告げた。
あの日、命を助けてくれたことへの礼を。
「今日、あのひとに会えて、よかったわね」
「ああ、ほんとに」
ふたりは石段を登りきって、見晴らしのよい場所から街を見下ろした。
雨に洗われて澄んだ空気が、遥か彼方までの風景をくっきりと浮かび上がらせている。夕暮れに西の空が橙に染まり、群青から反対側の地平の紫に
向かって、微妙に変化を見せている色彩にふたりは見蕩れた。
灯のともし頃だ。見下ろす街並みが黒い影に翳るなか、ぽつぽつと街燈や家々のともしびが瞬きはじめて、地上にこぼれた星屑のようだった。
「あの灯りの中のどこかに、あのひとのお家もあるのよね」
「そうでござるな」
「故郷はなくなってしまったけれど、この街で新しく家族ができたのね。剣心のおかげで」
剣心は、隣に立つ薫の肩を抱いた。
「・・・・・・それは、拙者も同じでござるよ」
暮れてゆく街は、ここに居るすべての人を受け入れて優しく包み込むように見える。
「拙者も、この街に来てよかった」
流れた末に辿り着いたこの街で、安らげる場所を見つけた。
失くすことができないただひとりのひとと、この街で出逢えた。
「そろそろ、帰りましょうか」
そう言って、いつも傍らで微笑んでくれる。
そんな君を、ずっとずっと抱きしめていよう。
(了)
2012.06.03
モドル。