真昼の月の静けさに







        茫々と茂る草原に、黄みを帯びた茶色い尻尾が見え隠れする。




        追ってくるのは子供であると、狐も判っているのだろうか。
        手の届かないところまで逃げたかと思うと、自分を追う子供の姿を窺うかのように、立ち止まって後ろを振り向く。先程から、それを繰り返している。

        胸まで届きそうに伸びた草を泳ぐようにして掻き分けながら、狐を追って走る。
        特に、追いかける理由はない。と、いうか、逃げる動物をつい追ってしまうのは子供の本能というものだろう。
        狐のほうもそれを理解しているようで、本気で逃げるというよりは幼い人間の子供と「遊んでやっている」つもりなのかもしれない。姿を見え隠れさせつつ
        広い草原を、右へ左へと気まぐれに駆け回っている。


        と、地に這った草の蔓が小さな草履の足を捕らえた。
        前のめりに転んだ身体を、青い草と柔らかな土とが受けとめる。起き上がろうとして膝をつき、上を向いた拍子に、月が見えた。



        真昼の空に、白く描かれた月の輪郭。
        ひととき、幻のようなそれに目を奪われる。
        やがて、膝を濡らす草の汁の感触に我に返り、立ち上がって脱げてしまった草履を拾う。



        「心太ー!」



        母親の、声がした。
        首をめぐらすと、遠ざかってゆく狐の尻尾が見えた。
        その反対側を見ると、草原の向こうで自分にむかって手を振っている母の姿が見えた。










        ―――それから、どうしたんだっけ?




        ああそうだ、狐はお稲荷様の使いだから、苛めては駄目よと言われたんだ。
        あの日と同じ、真昼の空に浮かんだ月を見ながら剣心は思った。
        幼い頃の情景が胸をよぎったのは、ほんの一瞬のことだった。

        冬枯れの草原、足元にはたった今叩きのめした男がひとりのびている。やけに逃げ足が速くて、こんなところまで追いかける羽目になってしまった。
        そして、もうひとり。男が抱きかかえていた幼い男の子が、手足を縛られ目隠しをされた姿で転がっている。
        剣心は身をかがめて、幼子の拘束を解く。顔の半分以上を覆っていた目隠しをとると、涙に濡れた瞳が怯えたように剣心を見た。


        「もう、大丈夫でござるよ」
        安心させるように言って、頭を撫でようとそっと手をのばす。しかし、子供はびくりと身を震わせると、大声で泣き出して手足をばたつかせて暴れだした。
        目隠しをさせられていたから、目の前にいる剣心が自分を救ってくれた人物だと判らなかったのだろう。もしくは、優しげな表情よりも先に、腰にたばさん
        だ刀と頬の大きな十字傷が目に入ってしまったのかもしれない。
        「・・・・・・っ」
        とにかく落ち着かせようと思って子供に近づいたが、暴れる小さな手の薄い爪が頬をかすめ、十字傷に沿うように一筋赤く細い線が走った。

        と、背後から大勢の気配が近づいてくるのに気づいて、剣心は振り向く。
        先頭にいるのはまだ若い女性だった。子供の名前を狂ったように叫びながらこちらに向かって走ってくる。
        「ああ! よかった、無事で・・・・・・本当に・・・・・・!」
        女性は幼子の母親だった。子供も母の声と姿とを認めるのと同時に、剣心には目もくれず彼女の方へと駆け出した。


        枯れ草の中、母親は子供をしっかりと抱きとめる。
        彼女に一拍遅れて追いついたのは村の男衆だった。彼等は、剣心が倒した男を憎々しげに引き起こす。

        最近、この村では子さらいが頻発していた。剣心は、村人たちに手を貸して子さらいの一味の隠れ家を見つけ出し急襲し、売り飛ばされる寸前の子供
        たちを救い出したところだった。
        村人たちは犯人を引っ立てながら、幾度も繰り返し剣心に礼を言った。子供の母親も誰よりも深く頭を下げて感謝したが、最後に「あなたも、早く逃げて
        ください」と言った。
        「ようやく、警察が動き出して、来てくれたんです。ですから、あの、あなたも・・・・・・」
        言いながら彼女は、ちらりと逆刃刀に目をやった。
        このままだと、剣心も廃刀令違反で逮捕されかねないから、と思ったのだろう。

        「・・・・・・かたじけないでござる」
        そう答えると、彼女と村人たちはもう一度剣心に礼を言い、それから背を向けて村へと戻っていった。






        彼等の背中が遠ざかってから、剣心はばたりと草むらに身を倒した。
        まだ日中だというのに、空にはぽっかりと白い月が浮かんでいる。
        取り残されたようにそこにいて、剣心を見下ろしている。

        冷たい風が、頬に沁みた。
        触れてみると、僅かに指先に血が付いてきた。先程、子供の爪がかすって出来た傷だろう。
        月を掴むように、仰向けのまま腕を空にむかって伸ばす。開いた指の隙間を、凍てついた風が流れてゆく。



        また、冬が来た。
        明治になって、もう十回目の冬が。


        新しい時代が始まって、十年。相変わらず自分は、生きている。



        あの頃、よりよい世の中を創りたくて動乱に身を投じた。新しい時代の為に自分が出来ることは剣を振るうことだった。
        数え切れない程人を斬った。同志たちは「新時代の為流れるべくして流れる血だ」と一様に口を揃えた。
        確かに、そうでも考えないことには、あの沢山の「死」はすべて無駄なものとなってしまう。

        でも、そんな理屈では納得できなかった。
        正論を語ったところで、彼らを殺した事実は消えやしないのだ。


        こうして、流れ続ける暮らしを選んだのは、償いたかったからだ。
        市井のひとびとを助けるために。目にとまるひとたちをこの腕とこの刀で守るために。それと同時に―――償う手段を求めて、旅に出た。

        しかしある意味、幕府の終焉とともに自分の人生はいちど終わったとも言えよう。
        今は、残ってしまった「余生」をこの旅暮らしの中で、ひたすら助けることに守ることに、償うことに削っているだけなのかもしれない。



        ―――おかしいな、こんな事を考えるのは、疲れているからなのかな。



        十年、流れ続けた。
        きっとこれからも流れ流れて―――いつまで、生きるのだろうか。

        母親、家族、剣の道に導いてくれた師匠、ともに未来を想った同志、信念を懸けて闘った敵、愛した人―――
        今はもう、どの面影も遠のいて霞んでゆくばかりだ。
        このまま、孤独のまま流れ続けて時が経って、やがてこの身も思い出も全部磨耗して消えてなくなってしまうのだろうか。



        風が、強くなってきた。
        白茶けた枯れ草が、北風に吹かれて乾いた音をたてる。空にかざした手を眺めながら、そろそろ起き上がらなくては、と思う。
        そう思いつつも―――もう、動きたくないとも思うのは、やはり、疲れているからなのかもしれない。



        剣心は、目を閉じた。



        この旅は、いつまで続くのだろうか。
        いつまで生きるのだろうか。
        いつ―――終わるのだろうか。




        「・・・・・・まだだよ」




        ふと、声が聞こえた。
        「それでも―――あなたは、幸せにならなきゃいけないんだよ」



        少女の、声だった。
        誰だろう、とても優しくて―――なぜか、愛おしい声。
        それは耳元でうたわれる子守唄のように静かで、しかし、心のいちばん奥に届く響き。



        「あなたに生きて、幸せになって欲しいと思っているひとは沢山いるの。あなたが気づいていないだけ、まだ出会っていないだけなの。だから―――」




        だから、まだ終わりじゃないから。
        あなたは、これから出逢って、これから始まるのだから。













        目を開けると、月が見えた。
        真昼の空に、浮かび上がる白い月の輪郭。それにむかって手を伸ばしていた。
        ぱたりと、生い茂る草の上に腕をおろす。ふわりと瑞々しい緑の香りがたった。



        「ああ、見つけた剣心! ここにいたのね」



        ひょい、と。仰向けの視界に薫が映りこむ。草の上に寝転んだ剣心の隣に膝をついて、顔をのぞきこんできた。
        「眠っていたの?」
        「・・・・・・うん、おはよう」
        「今は、朝じゃないけどね」
        くすくす笑う薫にむかって、剣心は腕をのばす。ひっぱり起こして欲しいのかと思って、薫はその手を取ろうとしたが、捕まえられて、抱き寄せられた。

        一瞬、驚いたように薫の目が見開かれたが、すぐに閉じる。
        剣心の上に身体を重ねるようにしながら、薫は不意の口づけを素直に受けた。


        ・・・・・・もっと、触れたいな、と思う。
        陽のひかりを浴びて、ほのかに暖かい黒髪が指先に気持ちいい。指を差し入れて掻き乱したいけれど、この場で彼女の結った髪を解いたら流石に怒ら
        れるだろうか。剣心は少しの間迷った後、やはりそうするのは夜までとっておくことにしようと思った。


        「走っていたのでござるか?」
        手のひらで包みこんだ頬が熱かったので、訊いてみた。唇を離し、髪をかきあげながら、薫は身体を起こす。
        「剣路を追いかけてたのよ・・・・・・ね、つかまえるの手伝って」

        起き上がって薫の視線を追うと、ぽつぽつと菜の花が咲く草原の中、小さな頭があちらに行ったりこちらに行ったりとせわしなく動き回っているのが見
        えた。
        「・・・・・・あれは、何をしてるのでござる?」
        「狐を見つけたんですって。まぁ、追いかけるのは子供の本能なんだろうから、しかたないんだけれど」
        悪戯っぽく肩をすくめた薫に、剣心は「違いない」と笑って立ち上がった。



        大人の膝程まで伸びた草をかきわけて、我が子の背中を追う。確かに、胴着の袴ではなく普段着の裾をさばきながら、薫がここを走るのは骨であろう。
        風が草を揺らす様は明るい緑の海が波打っているようで、剣路はそこをのびのびと泳ぐかのように駆け回っている。

        追いつくのに、たいして時間はかからなかった。後ろから肩を捕まえてひょいと持ち上げると、剣路はきゃーと叫んで抗議の声をあげた。手足をばたつか
        せて父親の手から逃れようとしたが、そのまま高く抱え上げて肩に座らせると、今度は嬉しそうな歓声をあげた。
        はらり、とひとひら黄色い花びらが剣心の鼻先をかすめて落ちた。剣路が手にした菜の花からこぼれたものだった。


        「きつねー!」
        「ん、ああ、行ってしまったでござるな」
        ひょこ、と飛び跳ねるように、草の波の間から狐が顔を出した。そのままくるりと身体を返し、尻尾をゆらめかせながら草原の彼方へと去ってゆく。

        「狐は、お稲荷様の使いだから、苛めては駄目でござるよ」
        「おいなりさん?」
        「そう、お稲荷様」
        「たべたい」
        「そっちではなくて・・・・・・ああほら、薫殿だ」
        肩車をされた剣路は、こちらに歩んでくる母親にむかってぶんぶんと手を振る。

        「あら、いいわねー剣路。高いたかーい」
        「なのはな!」
        「わ、ありがとう! とっても綺麗だわ」
        薫は差し出された菜の花を受け取って、嬉しそうに微笑んだ。
        「そろそろ、帰ろうか」
        剣心の言葉に、薫と剣路が揃って「はぁい」と答える。稲荷鮨が食べたいと主張する剣路に、薫は屋台が出ていたら買っていきましょうかと答えた。
        菜の花の揺れる草原を抜けて、三人はゆっくりと家路につく。



        「薫殿」
        「なぁに?」
        「ありがとう」
        「え、何が?」
        「あの時、教えてくれたでござろう」
        「・・・・・・何のこと?」


        不思議そうにまばたきをする薫に、剣心はただ笑ってみせた。







        長い長い旅の先に待っていたのは、出会いと再会と、始まりだった。
        そして、君と巡り逢えたから、家族ができて、ふるさとができた。


        愛している人が隣にいるなら、君が一緒に生きてくれるなら―――
        そこが、かけがえのない故郷になる。


















        了。





                                                                                       2013.03.28







        モドル。