桧前邸にて 2




     

「お帰りはうちの馬車をお使いください」という桧前卿の厚意は大変ありがたかったのだが、「途中まで同じ方向だから」と言って鎌足が同乗することに、剣心はあからさまに嫌な顔をした。
今にも噛みつきそうな顔で鎌足を睨んでいる良人にひやひやしながらも、薫は桧前卿に挨拶をする。
「今日はお招きいただいて、本当にありがとうございました!」

ぺこりと頭を下げる薫を、「いや、お礼を言うのはこちらの方です」と桧前卿が制する。
「私の他にも沢山の仲間が、緋村の消息を気にかけていました。けれど、今日あなたにお会いして、もう心配することは何もないとわかりましたよ」
ああたたかな声の響きに、薫は桧前卿を見上げる。
「あなたのような方が、細君になってくれてよかった・・・・・・これからも、緋村のことをよろしく頼みます」
同志を代表してのお願いです、と。少しおどけたように桧前卿は付け加えた。
気恥ずかしさと、「頼まれた」ことの嬉しさに薫の頬がみるみるうちに紅潮する。
「・・・・・・はいっ!」
子供みたいに元気に、大きな声で返事をする薫に、剣心は愛おしげに目を細めた。






「・・・・・・いい奥さんじゃないか」
薫と鎌足が乗った馬車を見送りながら、桧前卿はしみじみとした口調で言った。剣心はくすぐったそうに笑うと、嬉しさと誇らしさを隠そうともせずに「ありがとうございます」と答えた。
そして、十数年前、巴と夫婦になったときのことを思い出す。

周りの仲間は「あんな美人をこんな子供が独占するとは」と一様にやっかみながらも、皆「がんばれよ」と祝福と激励をくれた。
しかし、桧前卿だけは違っていた。
「お前たちが互いに想い合って、互いを大事に思っているのはよくわかる。でも―――どうも、心配なんだよ」
桧前卿は、ただただそう繰り返した。

今にして思えば、彼は巴が抱えていた秘密にはっきり気づいていたわけではないが、彼女の心を支配していた凍てつくような哀しみを感じとっていたのだろう。でも、巴のことを疑うわけでもなく非難するわけでもなく、ただ「お前たちふたりが心配だ」とだけ言った。
実際、彼の心配は心からのものだったのだろう。純粋に、若いふたりに不幸がふりかからないようにと、それだけを願ってくれていた。桧前卿は、そういう人だ。

―――けれど、当時の俺はその「心配」に却ってむきになった。必ず、巴とふたりで幸せになってやろうと思った。
結果、桧前卿の懸念どおり、その先に待っていたのは悲劇としか呼びようのない結末だった。巴との暮らしは、あっという間に終わりを迎えたのだが―――


「拙者は、幸せでしたよ」
馬車が走り去った夜道の先を眺めながら、剣心は言った。
「この十余年、巴を思い出すたびに感じるのは、罪の意識だけでした。けれど、彼女と過ごしていた時間の中、確かに俺は幸せも感じていたんだと―――今になって、ようやく思い出したんです」

桧前卿が薫に会いたがったのは、きっと責任を感じていたからだろう。あの時、漠然とした不安を感じとりながらも、悲劇を食い止められなかったことに。
だから、今の剣心がどんな人生を送っているのかが気がかりだった。愛する人を最悪の形で失った少年は、心に負った傷を癒すことができたのか。ちゃんと、前を向いてその先の人生を歩めているのだろうか、と。

「薫と一緒にならなければ―――それを思い出すこともなく、一生を終えていたでしょうね」
限りない罪悪感と後悔を抱いたまま、孤独のまま人生を送り、誰とも繋がらぬまま独りで朽ちてゆく。それが似合いだと思っていた。
けれど、薫に出逢って、彼女に恋をして。淡い想いはいつしか狂おしい愛に変わり、人生が変わった。


薫を幸せにしたいと思ったから、前を向いて、彼女の光を守りながら生きていこうと思うようになって―――過去への向き合い方も変わった。


「拙者には、過ぎた相手だと思っていますよ。だからこそ、一生大切にしていきます」
「・・・・・・あの子供が、一人前にのろけを言えるようになるとはなぁ。これは恐れ入った」
桧前卿は嬉しそうにそう言うと、剣心の背中をひとつ叩いた。

「うん、似合いの夫婦だよ。どうだ、もう少し飲まないか?」
付き合いましょうと剣心は笑った。





今晩はいましばらく、思い出話に花が咲きそうだった。







モドル。