桧前邸にて。
突然、目の前でドアが開いた。
ソファに腰掛けていた剣心は、反射的に立ち上がった。
ドアを開けたのは、剣心にとっては見知らぬ「少女」だった。薫と同じ年頃で、洋装で手には大きなトランクを提げている。肩の上で切りそろえた髪は毛先がくるんとカールされ、フリルのついた襟元を華やかに飾っている。一見して、可愛らしい顔立ちの、上品な洋服を身につけた女学生―――の、ようだった。
その女学生も、剣心と会うのははじめてだった。
しかし、「伝説の人斬り」についての話は何度も何度も聞かされていた。だから、その特徴は当然しっかりと記憶していた。
単身痩躯、長い緋色の髪。帯刀を許され、そして左頬には十字傷―――
そこまで、確認したところで。
頭の中が、真っ白になった。
「ひむら、ばっとうさい・・・・・・」
呆然とした表情で呟きながら、半ば無意識に、女学生は手をトランクの二重蓋へと滑り込ませる。
手を抜き取ったとき、其処にあったのは、少女の姿にはおよそ不似合いな鎖鎌だった。
「・・・・・・志々雄様の仇ぃぃぃぃぃっ!」
ぎょっとする剣心に、鎖鎌を構えた女学生は躍りかかった。
紫は、鍵盤の上で踊らせていた手をぴたりと止める。薫も、それに気づいたらしく、少女ふたりは顔を見合わせる。
「今、超えが聞こえたような・・・・・・」
「そうですわね、いらしたみたいですわ」
例の「友人」が到着したのかもしれない、と。薫と紫は部屋を出た。階段を下りて玄関ホールに向かったが、そこには誰の姿もなかった。
「おかしいですわね、たしかに声が聞こえましたのに・・・・・・お父様たちのところでしょうか?」
紫は小首を傾げつつ応接間へと向かう。ゆっくりとドアを開けた彼女は、「あら・・・・・・?」と首を更に深く傾げた。
「紫さん?どうしたんですか?」
薫は、ひょいと紫の後ろから首を動かして、肩越しに中をのぞきこみ―――肝を潰した。
応接間では、剣心が走り回っていた。彼はある人物に追いかけられており、その「洋装の女学生」には薫も見覚えがあった。その人物は手にした鎖鎌をふりかぶって剣心に襲いかかろうとしており―――
薫は一瞬で我に返り、紫をそこから引きはがしながらドアを閉めた。
「あの、なんでしょう?今、凄い勢いで鬼ごっこをしているのが見えたような・・・・・・」
心底不思議そうな表情でまばたきをする紫の両肩を、薫はがしっと掴む。
「・・・・・・紫さん、ごめんなさい、ちょっとここで待っててくれませんか?」
「・・・・・・?はい、わかりました」
素直に頷いた紫を残して、薫はドアを細く開け、隙間から滑りこむようにして中に入る。
追いかけっこは鍔ぜり合いへと移行しており、「友人」のふりかぶった鎌を逆刃刀で受け止めた剣心は、鼻先に迫る刃を押し返そうとしていた。
薫は、ドアを締めると膠着状態にあるふたりにつかつかと歩み寄る。
「薫殿?危ないから下がっているでござるよ、すぐに済むでござるから・・・・・・」
鎖鎌を受けながらも剣心は余裕があるようで、こちらにやってきた薫に気づいて注意を促す。しかし、薫はそれを無視して―――彼らに向かって手を伸ばした。
「おろっ?!」
「きゃあっ!」
むんず、と。襟足の髪を掴まれ引っぱられて、剣心と「友人」は揃って声を上げた。
「何やってるの?!余所のおうちでこんな事したら、迷惑でしょっ!どこか壊したりしたらどうするのっ!」
廊下にいる紫に聞こえないように無声音で、しかし気迫が籠もった様子で凄まれて―――ふたりは思わず得物をおさめる。
「・・・・・・ちゃんと、どこも壊さないように気をつけていたでござるよ?」
「そういう問題じゃないのっ!」
子供のように言い訳をする良人を、薫はぴしゃりと叱りつける。乱れた髪を直しながら、ふたりのやりとりを聞いていた「友人」は、鎖鎌をトランクに戻し、ふっと口許を緩めた。
「・・・・・・相変わらず、威勢がいいのね」
笑みを含んだその声に、薫は彼女の顔を見やる。彼女―――いや、彼に会うのは、約一年ぶりだった。
「本条・・・・・・鎌足、さん?」
薫は、何故このひとが此処にと驚きながらも、その名前を口にする。
すると、鎌足はぱっと顔を輝かせて、がばっと薫に抱きついた。
「よかったー!わたしのこと覚えてくれてたんだ!えーと、あなた名前は・・・・・・」
「か、薫です」
「そうそう!薫ちゃん!」
目を白黒させながら、薫は鎌足を抱きとめる。確かに、鎌足とまみえたのは一年前に一度きりだが、こんな個性的な人物を簡単に忘れられるわけがない。ましてやこの人は、本気で戦った相手なわけで―――
と、薫の目に、怒りにわなわなと身を震わせている剣心の姿が映った。
何をそんなに怒っているのだろうと思ったが―――そうだ、このひとは「男性」だったんだと気づいて、薫は慌てて鎌足の腕を剥がそうとした。しかしその時、ドアが開いて桧前卿と紫が顔を出す。
「・・・・・・おや?奥さんと奏さんは、お知り合いだったのですか?」
いかにも親密な様子で、鎌足が薫に抱きついているのを目にして、桧前卿は目を丸くする。
「かなで、さん・・・・・・?」と、薫は初めて聞くその名前を小さく口の中で反芻したが、鎌足は「そうなんです!」と薫を離さないまま明るく答えた。
「緋村さんご夫妻とは、お友達付き合いをさせていただいておりますの。ね、薫ちゃん」
屈託ない笑顔で話をふられて、薫は「そ、そうなんです」と調子を合わせた。
「お、お会いするのは久しぶりなんですけれど・・・・・・突然だったので、びっくりしました・・・・・・」
これは本当のことである。まさかこんなところで、十本刀のひとりと再会するとは思ってもみなかった。しかし、鎌足が紫のもとを訪ねてきたということは、つまり―――
「実は、紫の難儀を通報してくれたのは、彼女なんだよ。いや、世間は狭いものだなぁ」
薫は、大きな目を更に大きくして、ごく近くにある鎌足の顔を覗きこむ。鎌足はにこにこ笑いながら頷いてみせた。
「・・・・・・いつまでそうしているつもりでござるか・・・・・・」
ふたりの傍らに立つ剣心は、地の底から響いてくるような低い声で、憎々しげに呟いた。
★
本条、奏。
それが、現在の鎌足の名前だという。
桧前卿に「少しばかり三人で話したい」と頼んで、剣心は応接間を貸してもらった。
当然、鎌足から様々な事情を訊くためだったのだが、いざ向かい合うと剣心はなかなか口火を切らずに、あからさまに警戒心まるだしの顔で鎌足を睨むばかりだった。それは彼が志々雄のかつての部下だからとか突然攻撃をしてきたからといった理由ではなく、彼が馴れ馴れしく薫に抱きついたことに腹を立てているからなのだが―――
「あの・・・・・・膝は、あれから大丈夫ですか・・・・・・?」
剣心がむすっとしたまま口を開こうとしないので、かわりに薫がおずおずと切り出す。
「ええ、もうすっかり!全然痛くないし、前と変わりなく動けてるわ」
「その・・・・・・あのときは、すみませんでした・・・・・・」
理由はどうあれ、あの時。京都で薫は鎌足に怪我を負わせている。
互いに正々堂々と戦ってついた決着だから、それを引け目に感じるのはむしろ鎌足にとって失礼なことであろう。とはいえ、こうして改めて顔を合わせるとどうしても気になってしまう。
「いいのよ、あの時わたし達は、それぞれの信念と、一番好きなひとのために戦った。そうだったでしょう?」
にこにこと邪気のない様子で笑っていた顔をひきしめて、鎌足はきっぱりと言い切る。
「あなたたちと戦ったことは後悔していない。あなたもわたしも真剣に、全力で戦った―――それこそ、命懸けでね。だからその結果にわたしは納得している」
しすて一瞬、鎌足はひどく透き通った目を見せた。
「・・・・・・志々雄様がもういないのは、悲しいけれどね」
付け足したその言葉は、小さな呟きだった。だからこそ、薫も、不機嫌に顔をしかめていた剣心も、胸を突かれた。
「けれど、志々雄様も志々雄様らしさを貫いて闘ったんだから、あのひとの最期についても、納得はしているの。ただ・・・・・・さっきは心の準備をする前に抜刀斎に出くわしちゃったものだから、つい逆上しちゃって。ごめんなさいね」
鎌足はそう言って「桧前のおじさまから抜刀斎が来るってことは聞いていたんだけど、何しろ突然だったんだものー」と笑う。その、卿との親しげな様子に、剣心と薫は思わず顔を見合わせた。
「あの・・・・・・張さんから、あなたは女学生として留学するって聞いたんだけど」
「では、ひょっとして紫殿とは・・・・・・」
「あら、知っていたのね?そうよ、わたしと紫さんは同じ女学院で学んでいるの。この度の英国留学も、一緒に行くのよ」
鎌足は、本条奏と名乗り、女学院に入学した。彼はこの一年、そこで学友たちと学び、この旅の英国留学への切符を手にした。表向きは普通の留学生であるが―――彼は、国の諜報員として渡英するのである。
「紫さんとも学校で知り合って、すっかり仲良しになったのよ。勿論、彼女はわたしが男で、国から密命を受けていることは全然知らないんだけど・・・・・・」
「誘拐事件のとき、居合わせたのは偶然でござるか?」
厳しい声音が、鎌足の台詞を遮った。そうだ、彼は「通報者」ということだったが、事件の実行犯は志々雄の残党に繋がる者だった筈で―――
「え、でも・・・・・・犯人は誰かに倒されたんでしょ?じゃあ、それって・・・・・・」
「ええ、そうよ。ややこしい事になりそうだから警察には伏せているけれど、奴らを倒したのは、わたしよ」
剣心の目が、ますます険しくなる。頭に浮かんだのは、「自作自演」という言葉だったが、しかし―――何のために?
「・・・・・・ねぇ、無理もないとは思うけど、あなた誤解していない?」
鎌足は小さく首を傾げて、剣心の顔を覗きこんだ。剣心は微かに眉を寄せることで、答えの代わりにする。
「確かに、わたしがあの現場に居合わせたのは偶然じゃないわ。わたしはもともと、志々雄様の『残党』とやらについて探っていたんだから。
「残党とやら」と、口にする瞬間。鎌足の顔から笑みが消え、うってかわっての苦々しい表情になった。