かつての仲間と、誘拐未遂事件。




     

踵の高いブーツが、地を蹴った。


限りなく夜に近い黄昏時、周囲に人の目は無い。従って、洋装の女学生がスカートの裾を乱暴に裁きながら走る様子に眉をひそめる者もいない。
しかし、人目がないからこそこのような事態になっているのだろう。道のその先には、一台の小さな馬車が停まっている。いや、強制的に停められたというべきか。
敵の数はふたり。御者は既に殴り倒されて馬車の傍らでのびている。曲者たちは馬車の戸をこじ開けようとしているが、中にいる少女は必死で抵抗しているらしく、なかなか開けることはできない。もう少し頑張ってと、女学生は心の中で呟く。


馬車の中の少女には無事でいてほしい。今までいくつもの「死」を目にしてきたし自分自身も人を殺めたことはある。でも、親しい者が目の前で殺されたり傷つけられたりすることは、単純に嫌だ。それに、これから自分がすることを彼女に見られたくはないから、そういう意味でも扉を開けずにいてほしい。彼女はわたしの「正体」を知らない。出来ることならこのまま隠し通していたい。何せ彼女とはこれから長い付き合いになるのだ。遠い、異国の地で。

女学生の手には、華奢な手にはそぐわない大きさの、革のトランクがあった。見るからに重そうなそれを持ったまま、しかし女学生は並の男性を遙かにしのぐ速さで駆ける。速度を落とさないまま、女学生はトランクの蓋の部分に触れる。蓋は二重になっていて、隙間には「相棒」が隠されている。現在の相棒は以前のものと比べると格段に小さいが、これはこれで使いやすくて気に入っている。何より、こうしてトランクに入れてこっそり持ち歩くのは便利だ。
馬車の戸はまだ開けられていない。曲者ふたりは女学生に背を向けたまま気づかない。間一髪で、間に合った。



―――大丈夫。今、助けてあげるからね。



女学生はトランクを投げ捨てる。走る速度がぐんと上がった。

走り来る妨害者に、曲者たちはようやく気がついて振り向く。
女学生は足を止めぬまま、絶妙の間合いで鎖鎌を投げ放った。















「うちの娘の護衛を、お前に頼みたいんだ」



かつての剣心の同志である、陸軍省・桧前寅彦卿は単刀直入にそう言った。



その日の朝、警察からの遣いの者が「御依頼したい事がありまして」と神谷道場を訪れた。
この度はどんな事件が起きたのだろうと思いながら剣心が署に向かうと、懐かしい人物が待っていたものだから驚いた。


長州派の維新志士であった桧前卿は、剣心の姿を見るなり、昔の同志というよりは久々に会った親戚の子供を見るように、柔和に目を細めた。
「緋村、久しぶりだなぁ、元気にしていたか?」
軍服に身を包んだ桧前卿は、ソファから立ち上がると、剣心に歩み寄ってその肩をぽんぽんと叩いた。突然の再会に意表を突かれたものの、剣心は「お陰様で・・・・・・桧前さんもお変わりないようですね」と口許をほころばせる。彼は、いかつい名前とは裏腹に、温厚な気性の持ち主として知られていた。時代が明治になり軍の要職についても、そこは相変わらずのように見受けられた。
「お前はずいぶん変わったなぁ・・・・・・うん、いい方に変わったようで、何よりだ」
うんうんとしきりに嬉しそうに頷く桧前卿に、彼らを引きあわせた署長は「緋村さんは、今とそんなに様子が違っていたのですか?」と首を傾げたが、剣心は「ええ、まぁ」と曖昧に笑って話を濁した。桧前卿の言う「変わった」とは、見た目がどうこうの違いを指している訳ではあに。それについては彼の「特技」について説明しなくてはならないのだが、それを始めては話が長くなるので、控えることにする。


実際、久闊を叙するのも程々に、一同は応接室のソファに腰を据えた。署長が「早速ですが」と桧前卿を促すと、彼は「うちの娘の護衛を、お前に頼みたいんだ」と切り出した。


「実は昨日、桧前卿のご息女・紫さんが、誘拐されそうになったのです」

それは、女学院からの帰路での事だった。紫が乗っていた馬車が、人気の少ない場所にさしかかったところで突然賊に襲われたのである。
馭者の証言によると、現れた賊はふたりだったらしい。馬車の前に飛び出してきた彼らは、慌てて馬車を停めた馭者に殴りかかって昏倒させた。犯人は紫を馬車から降ろして連れ去ろうとしたが、紫は中から扉に鍵をかけて抵抗した。犯人たちは扉を無理矢理こじ開けようとしたが―――

「不意に、争うような音が聞こえたんですの」
紫の証言によると、「なんだか痛そうな音」が聞こえて、扉を開けようとしていた賊の頭が馬車の窓に激突するのが見えた。驚いた紫は反射的に扉から離れ、身を小さくして馬車の床にうずくまった。
外はすぐに静かになった。やがて、
誰かが近づいてくる気配がして、馬車の扉を叩く音がした。
「紫さん?!紫さん大丈夫?!」
それは、聞き覚えのある声で、紫は顔を上げて扉を開けた。声の主は、紫の女学院の友人だった。


「そのお嬢さんは、たまたま紫を訪ねるつもりでうちに向かっていたんだ。そして、誘拐未遂の現場に出くわしたんだな」
「彼女が通りかかったときには、既に犯人ふたりは何者かに倒された後だったそうです」
見覚えのある馬車が不自然に停車しており、やはり顔見知りの馭者が気絶しているのを見て、友人は慌てて馬車の扉を叩いたのだという。犯人は気絶させられ、拘束されて道端に転がされていたのだが、誰に倒されたのかはわからない。友人の通報により、すぐに警察が駆けつけ犯人たちはお縄となったが、彼らも「後ろから襲われたので、どんな奴にやられたのかはわからない」と言っているらしい。


「油断していたとはいえ、一瞬にして二人を倒したのですから、相当に腕の立つ者だと思うのですが・・・・・・わたしは、あるいは緋村さんがやった事かと思いましたよ」

「いやいや、拙者ではないでござるよ」
「そうでしょうなぁ、緋村さんならそこで通報もせず黙って立ち去りはしないでしょうし・・・・・・ともあれ、犯人を捕らえることはできたのですが、彼らから気になる名前が出てきたのです」
「気になる、とは・・・・・・?」


「・・・・・・志々雄真実」


剣心の眉が、ぴくりと動いた。
一年前にも、亡き大久保卿からその名を聞かされたことがあったが、しかし―――

「勿論、志々雄はもういない。だが、どうやらまだ動いている残党がいるようなんだ」